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heiji

作者: 岡本 博
掲載日:2026/06/17

西暦2095年。人類は「労働」という名のあらゆる苦役から解放されていた。衣食住、医療、果てはレジャーやエンタメに至るまで、すべての富はAIとロボットが自動で生産し、僕たちに平等に配給してくれる。そんな生活を人類は30年以上も続けていた。



脳内チップが奏でる鋭いアラームで目が覚めた。頭の芯に残る鈍い痛みをこらえながらベッドから這い出る。またあの悪夢だ。何千人もの人間が、泥にまみれて何かを叫びながら行進している――そんな、見たこともない古めかしい悪夢。視界の隅に、青いアイコンが明滅した。『VOTE』の通知だ。

人類に残された、唯一無二の「精神労働」。指針決定の責任だけは取りたがらないAIのために、生身の人間が「承認」か「否認」かの最終決定を下してやる、お気楽な水先案内業務。今日の議題は、道交法の改正案だった。

【悲惨な事故をさらにゼロに近づけるため、自律走行車の最高速度を一律で時速2キロ引き下げる。YES or NO】

これ以上、街を走る車をのろまにされてたまるか。僕はあくびを噛み殺しながら、脳内コマンドで迷わず『NO(否認)』を選択した。これで今日のノルマは終わり。誰に言うでもなく呟きながら、僕は冷え切ったディスペンサーから、AIが僕の健康状態に合わせて合成した、完璧につまらない味の朝食プロテインペーストを引っ張り出した。視界の端で、スコアの残高カウンターが小気味いい音を立てて跳ね上がった。


あらゆる富の生産が自動化されたこの時代、生きるためのコストはゼロだ。最高級の合成肉も、仕立ての良い衣服も、AIがデザインした高精細なゲームも、すべて無料で配給される。「お金を稼ぐ」という概念そのものが、とっくに歴史の教科書の中にしかなかった。だが、人間という生き物は、どこまで行っても「他人との違い」を欲しがる。

AIがどれだけ無限に富を生み出そうとも、スタジアムの最前列の座席や、生産ロットの少ない最新のゲーム機、本物の20世紀のアンティーク時計や、人間の手で描かれた歪な美術品といった『一点物レア』の希少価値は消えない。そうした絶対的な「希少性」を奪い合うために考え出されたのが、VOTEを送信することで付与される、お金に代わる新通貨『スコア』だった。

僕はたった今手に入れたスコアをすべて溶かし、今夜開催されるEスポーツ・メガスタジアムの、最前列プレミアチケットを決済した。今夜は特等席だ。生きるために働く必要はない。けれど、あの熱狂の特等席に滑り込むためだけに、僕は毎日、国からのお仕着せの質問に答え続けている。



レジデンスを出ると、エントランスに横付けされていたロボタクシーが、自動でガルウィングのドアを跳ね上げた。もちろん配給の一環だから運賃は無料だ。滑らかに走り出した車内のシートに深く身を沈める。


昼間はシズ子と会う約束をしていた。いまのところは一応、僕の恋人ということになっている。今日はこれから、街の中心部にあるセントラル・テラスでランチを共にする予定だった。それにしてもここのところ、シズ子の態度がどうにもよそよそしい。メッセージの返信はどこか冷淡で、時に僕を突き放すような言い方をする。それがずっと気になっていた。

ロボタクシーの窓の外を、巨大なホログラム広告が流れていく。【今週のブライダル・マッチング。スコア100万pt以上の適格者に、最優先のDNAペアリングを提供中】。眩しい光に目を細めながら、僕は小さくため息をついた。

ロボタクシーの運転は、AIならではの生真面目さで徹底されていた。絶対に安全な速度しか出さず、交差点に差し掛かるたびに過剰なほど丁寧な一時停止を挟む。相変わらず、めまいがするほどかったるい。その時、爆音が鼓膜を震わせた。人間が自らハンドルを握る、旧時代の内燃機関バイクが、低速走行のロボタクシーをあざ笑うように鋭いエキゾーストノートを残して追い抜いていく。運転しているのは若者だろう。

あのバイクにしても、申請すれば配給されるおもちゃに過ぎない。AI政府は人間の不満を吸収するためには、息を詰まらせないための「わずかな余白」が必要だと知っているのだ。わざと危なっかしい自主運転を許可し、スリルという娯楽をあてがう。僕がのめり込んでいるEスポーツにしても、本質はまったく同じことだった。

セントラル・テラスの窓際席に、シズ子はすでに座っていた。「遅かったわね」。「ロボタクシーのアルゴリズムが慎重すぎるんだよ」と言い訳をしながら、僕は向かいの席に腰を下ろした。

レトロなエプロンを模した外装のホールロボが歩み寄ってくる。脳内チップで1ミリ秒でオーダーは完了するが、この社会の店はどこもこうした『人間らしさ』を過剰なほど演出したがる。これも親切なガス抜きのひとつなのだろう。僕たちはビーフステーキを二つ注文した。AI工場で培養された合成肉は味は悪くないが、血の匂いは一切しない。


「ねえ、二郎」。水を飲むシズ子の指先が、わずかに震えているように見えた。「結婚の件なんだけど……少し、延期にしない?」

「延期、って……どうして? 先月、AIのマッチング推奨度もクリアして、秋にはレジデンスの同居申請を出すって決めたじゃないか」

「私の、スコアの都合なの。政府が今、人口維持のために『出産コミットメント』のスコア還元率を跳ね上げていること。私、優先案内が来ちゃったの。今、20代のうちに将来の出産契約にサインすれば、一気に100万ptが上乗せされるわ」

「……だったら、なおさら僕と結婚して、そのスコアを使えばいい」

「違うのよ、二郎。その特例スコアを受け取るには条件があるの。AIが算出した、遺伝子バランスが『最高評価(AAA)』のパートナーとペアリングしなきゃいけない。二郎のスコアと遺伝子データじゃ、その……足切りに、引っかかっちゃうのよ」

つまり、AIが見つけてきた「僕よりもスコアも遺伝子も優秀な、見ず知らずの男」と子供を産め、と国が言っているのだ。「……シズ子は、その男と結婚したいの?」

「そんなわけないじゃない! 会ったこともない男よ? でもね、断れば私が今後もらえる『スコア』はガタ落ちするの。それはこれからの人生、ずっと最低限の配給だけで生きていくってことよ。そんな人生は嫌……だから、少し、考える時間が欲しいの」

分かってしまったけれど、スコアも貯蓄もない無気力な僕には、その恐怖から彼女を救い出す言葉も、代替案も何も持ち合わせていなかった。



「おい二郎、なんだよその死にそうな顔は。せっかくプラチナチケットで最前列当てたんだ、もっとシャキッとせえよ!」

隣でうるさく喋りかけてくるのは、悪友の八木だ。シズ子との気まずいランチの後、八木に事情を話すと、彼は「これだから今の社会はクソなんだ! 命の跡継ぎまでスコアと遺伝子でオークションにかけやがる」と露骨に憤慨した。八木は普段から、この労働のない社会への不満をSNSでぶちまけている男だ。

やがて、ロボタクシーは夜のメガスタジアムへと到着した。スタジアムの中央に巨大なホログラムが展開され、試合の幕が上がった。だが、試合開始直後、僕は決定的な「異常」を察知する。対戦しているAチームとBチームの実力は伯仲しているはずだった。しかし、Bチーム側の観客席の熱量が完全に狂っていた。


「おい、見ろよ二郎! Bチーム側のスパチャの速度、バグってねえか!?」

一糸乱れぬ正確さで、狂ったようにスコアが注ぎ込まれていく。だが、トップギフター『heiji』として、かつてパケットの流れを見続けてきた僕の目は、ログの奥にある『奇妙な歪み』を捉えていた。

思い出すのは、ちょうど1年前の2095年に僕が引き起こした『メガスタジアムの逆流事件』だ。当時、運営AIが富裕層の観客席へ優先的にリソースを傾斜配分する不平等な隠しアルゴリズムを走らせていた。僕はAIが数万パケットに1回の割合で発生させる「トランザクションの遅延、わずか1ミリ秒の隙間」をプログラマーとしての直感だけで見極めた。貯め込んだスコアを数万個の極小パケットに解体し、1ミリ秒のタイムラグを完全に突いて同時にサーバーへ射出。物理的な負荷でシステムを一時的に麻痺させ、スタジアムの最下層にいる無料配給席の市民たちへ数百万ptのスコアを雨のように逆流させてバラ撒いたのだ。あの夜、都市のSNSは『heiji』の名で埋め尽くされ、僕は義賊ともてはやされた。1ミリ秒のパケット制御――それがheijiという僕の武器だった。


だからこそ、今目の前で起きている事態の異常性が、誰よりも深く理解できた。これはただのゲームファンが熱狂しているのではない。かつて僕がやったような、極限のパケット制御を組織的に行っている奴らがいる。Bチーム側の群衆の中に、微動だにせず凍りついたような無表情で前を見つめ、脳内チップから高密度のデータパケットを連打している集団がいた。その異様な佇まいは、僕が今朝見たあの悪夢の群衆と重なった。

八木が承認欲求に突き動かされ、視覚共有の録画機能を起動しようとした。「やめろ、八木。ただのハッキングじゃない」と制したが、完全に頭に血が上った八木は、スタジアムの監視AIを飛び越えて、都市の治安維持サーバーへ向けて特級のバグ報告を送信してしまった。ロボ警察のアルゴリズムは瞬時に最悪のエラーを弾き出し、スタジアムのすべての照明が真紅に染まった。

施設は完全封鎖され、スタジアムは阿鼻叫喚のパニックに陥った。リザルトは不条理な強制終了。僕は消化不良の塊のまま、命からがら帰路につく羽目になった。



帰宅し、重い足取りでレジデンスのベッドに倒れ込む。頭の芯にある鈍い痛みが、昼間より少しだけ増している気がした。その時、脳内チップが聞いたこともない警告音を鳴らした。視界のど真ん中に、真っ赤なアラートがポップアップする。

『緊急VOTEを受信。全市民は10分以内に回答を選択してください』

本日、二度目のVOTE。1日に2回もVOTEが送られてくるなんて、あり得ない。画面に浮かび上がった『議題』の一文を、僕は何度も見直した。


【明日から全ての配給を停止し、人類の皆さんは働いて得た給与で生活してもらいます。 YES or NO】

これはAIが出したものではない。あのスタジアムにいた謎の集団によるシステムハッキングだ。労働のない世界で生まれ育った僕たちにとって、「配給の停止」は生存権の剥奪を意味する。どちらを選んでも破滅しか待っていない最悪の二択。都市全体のホログラムが一斉に消灯し、不気味な闇に包まれていく。

その時、僕の『heiji』のアカウントに八木から暗号化された緊急パケットが飛び込んできた。「二郎! 俺がロボ警察に変な通報流したから、奴らの逆鱗に触れたんだ! 俺のせいで世界が滅びちまう!!」と錯乱している。僕は「八木、落ち着け。奴らのパケットの仕込み方からして、数ヶ月、いや数年前から潜伏してなきゃ不可能な規模だ。お前の通報は引き金に過ぎない」と冷徹に遮った。八木の端末ログを共有させ、データ構造の裏側を凝視するうちに、heijiとしての僕の網膜に違和感が引っかかった。

「このハッキング、AI政府のメインサーバーの思考プロセスと完全に同期している。AIの脳みそそのものに乗っかって、システムに『正しい答え』を選ばせようとしているみたいだ」


タイマーの数字がゼロを刻む。市民の多くは恐怖に駆られてタップしたのだろうが、僕はあえてどちらのボタンにも触れなかった。ただ従順に飼い慣らされるだけの日常に飽き飽きしていた。だが、その傲慢な好奇心の代償は一瞬で支払われた。

唐突に、頭蓋骨の裏側から直にマグマを流し込まれたような、凶悪な衝撃が走った。視界が真っ赤なノイズで埋め尽くされる。これが奴らの攻撃、チップジャギング。回答を拒否した人間の脳内チップを強制暴走させ、精神を内側から破壊する精神干渉パルスだ。叫ぶこともできず床にのたうち回る僕の脳内通信へ、八木が無理やり割り込んできた。彼が日頃から研究していた、非公式の『ハッキング・スクリプト(接続強制遮断コマンド)』だ。

脳の奥でパチンと音がして、激痛が嘘のように引いていった。八木が安全プロトコルを無視して、僕の外部通信チップを物理停止フリーズさせてくれたのだ。「助かったよ、八木」。脳内チップが眠りについたため、視界のUIはすべて消え去り、ただの生身の視界が広がっていた。

第五章:二つの暴走と過去の告白

部屋の据え置き型モニターが不気味な赤色で明滅した。僕に届く唯一の外部ローカル回線。そこに表示されたのはシズ子の名前だった。通信を開くと、画面の向こうのシズ子は薄暗い自室で身をすくめていた。「二郎……!? よかった、繋がった……! 私、怖くて……!」

「落ち着いて、シズ子。八木も回線を切らずにそのまま聞いてくれ」

僕は二人に僕の推測を語り始めた。「奴らの正体は、ただのサイバー犯罪者じゃない。おそらく、最近あちこちでデモを起こしてた過激派の『逆労組ぎゃくろうそ』だ。奴らの目的はシステムの破壊そのものじゃない。AIに強制的に【人間には労働が必要である】という結論を学習させ、社会のルールを根底から書き換えようとしてるんだ」

さらに僕は続けた。「回答を拒否した人間にはチップジャギングを仕掛けて無理やりYESを言わせようとしてる。シズ子、お前のところに今、AI政府から推奨パートナーとの緊急ペアリング承認を促す怪しい通知が来てないか?」

シズ子が息を呑んだ。「どうしてそれを……。今、脳内に何度も、その承認を迫る真っ赤な通知が……」

「やっぱりな。AIは今、敵のハッキングに対抗するために、社会の『徳スコア』の総量を一気に増やしてシステムを安定させようとしてる。そのために、一番手っ取り早い高額スコア案件である『妊娠・出産の契約』を、お前みたいな適格者に片っ端から強制承認させようとしてるんだ。テロの混乱に便乗して、AI自身が防衛本能で暴走を始めてる」

「……どうしてそんなことまで断言できるんだよ、二郎」と八木が戸惑う。僕は自嘲気味に呟いた。

「6年前の2089年まで、まだ人間にもやることが残ってたんだよ。この退屈な社会を完成させるための、最終形AIのコードを書くっていう『最後の労働』がね。その開発コンペの最前線に、僕もプログラマーとして立っていた。だけど、僕たちのチームのプロトタイプは直前で政府に不採用になった。勝ったのは、今この街を支配してるあの冷徹なアルゴリズムだ。僕たちのチームは全員が解雇され、歴史のゴミ箱に捨てられた」

だから、奴らが今ハッキングに使っているベースコードの癖も、AI政府が防衛のために暴走させている婚姻アルゴリズムの盲点も、全部僕の頭の中に叩き込まれている。「奴らを止めに行くよ。僕が作ったおもちゃの始末は、僕がつける」



今の僕は通信チップが物理停止しているため、管理社会における「透明人間バグ」と同じだ。僕は旧時代の有線ヘッドセットを拾い上げ、部屋の据え置き型端末へと差し込んだ。「ロボ警察のデータセンターに行く。あそこには6年前のコンペの時に僕たちが設置した、政府AIの制御装置に直通でログインできる【物理メンテ用端末ローカルコンソール】が残されているはずだ」

八木のハッキング・スクリプトを借り、ロボ警察の目を盗んでデータセンターの地下3階へと潜入した。暗闇の中、サーバーの排熱ファンだけが虚しく唸るメンテナンスルームで、僕は物理コンソールのキーボードに指を走らせた。有線で繋いだ僕のデバッグログが画面に緑色の文字列を高速で吐き出していく。「デバッグモード起動。『heiji』の特権アカウントで政府AIの制御装置へログインする」

しかし、画面に冷酷に表示されたのは、真っ赤な文字だった。【ACCESS DENIED(アクセス拒絶)】。アカウントが弾かれたのだ。6年の歳月を経て自律進化したのか、あるいは敵のテロ組織の手によって、僕の知っているバックドアは完全に塞がれていた。直後、機械的な音声が響き渡る。『警告。物理端末への不正アクセスを検知。不法侵入者1名を特定。……ただちに身柄の強制拘束に向かいます』

僕は有線プラグを引き抜き、部屋の非常扉へと飛び込んだ。滑らかな駆動音とともに多脚型のロボ警察が滑り込んできた。彼らは銃も警棒も持っていない。その代わりに、先端の照射器から強烈な『強制通信パルス』を放っている。目的は僕の脳内チップの強制起動だ。もし今オンラインに戻されれば、街を覆っているチップジャギングのウイルスパケットを防御フィルターなしでまともに喰らい、僕の脳は内側から破壊される。

非常階段をがむしゃらに駆け下りる。ロボ警察は人間を傷つけないための安全プロトコルに従って動いている。だからこそ、障害物のある狭い非常階段で「対象に電磁波の健康被害が出ない角度と出力」を計算する際、そのスキャンアルゴリズムにはほんのわずかな処理の遅れ(タイムラグ)が生じる。僕はゲームで何万回と見てきたその『計算の死角』の1ミリ秒のタイミングを見極め、鋭角に曲がる影へと滑り込んでいった。

地下排水路へと繋がるハッチへ身体を滑り込ませ、内側からロックをかける。闇の広がる排水路の奥へと転がり込み、僕は激しく喘いだ。現存する都市のすべてのシステムから、僕は完全に拒絶されたのだ。錆びついた放流口の格子を力任せに押し開け、人工河川の護岸へと脱出した。正確なGPSは表示されないが、かつて設計に関わっていた僕の頭には、都市のグリッドマップが完璧に残っている。僕は息を潜め、シズ子のレジデンスへと向かった。



衣服を濡らし、泥にまみれた僕が窓を叩いた時、シズ子は僕を部屋へと引っ張り込んでくれた。遅れて八木も転がり込んできた。脳内チップを切った僕たちは、互いの鼓膜に直接届く「生の声」だけでこれからの話を始めた。「ロボ警察のデータセンターは駄目だった。もう都市の中の端末じゃ、あの暴走を止めるマスター権限は握れない」

シズ子は顔を青ざめさせた。「じゃあ、もう諦めましょう……。明日から配給が止まって、あの男の人とペアリングさせられても、生きてさえいれば……」。八木が激しい調子で遮った。「奴らの言いなりになってたまるかよ! スタジアムのメインサーバーに直接サイバー特攻を仕掛けようぜひ!」

「断る」と僕は冷たく突き放した。「お前のスクリプトじゃ足止めにすらならない。僕がやりたいのは、僕たちのチームが不採用になったあの『2089年のコンペ』の、本当の決着だ。都市のシステムが全部敵の手にあるなら、システムが最初から存在しない場所へ行くしかない。……あの方に、会いに行く」

僕たちは呼び出したロボタクシーを使い、ドーム都市の結界を越えた。あとに残されたのは、圧倒的な静寂と、どこまでも続く無人の荒野だった。かつて天才プログラマーとして鳴らし、コンペに敗北したその日に脳内チップを自らの手で抉り出して荒野へ消えた僕のかつての上司――名は大岡。彼の頭の中にしか、この世界の設計図を完全に理解している者はいない。

廃棄されたサーバーラックで作られた掘っ建て小屋から、ひどく掠れた声が響いた。「帰れ。お前たちに貸す耳はない」

「大岡さん、僕です。二郎です。敵のパケットのログを持ってきた」と声を張ったが、大岡の声は動かなかった。「6年前にすべては終わったんだ。都市がシステムに喰い殺されようが、私には何の関係もない」

万策尽きかけたその時、シズ子が泥で汚れた膝を砂礫に突き、掘っ建て小屋の壁に向かって声を上げた。「大岡さん! お願いです、中に入れてください……! 今、街では何万人もの人たちが苦しんでいます。AI政府は私をただの『スコア生産機』として、知らない男の人と強制的にペアリングさせようと追い詰めています。拒否すれば脳を焼き切られるかもしれない。でも、YESを選べば、私は私じゃなくなってしまう……! 私たちには、YESもNOもないんです。ただ、人間として普通に、自分で選んで生きたいだけなんです……!」


静寂の後、分厚い防火シートが跳ね上げられ、旧時代のオイルランプの明かりの中に大岡さんが立っていた。「……相変わらず、プログラムの『外側』の計算が致命的に苦手な男だな、二郎。入れ」

小屋の中で、僕は持ち出した物理ストレージを端末に繋ぎ、ログを展開した。大岡さんが低く唸る。「奴らの大義名分は『人類に労働の価値を取り戻す』ことだ。AI政府のメインコアに汚染パケットを同期させ、AI自身の圧倒的な統治論理を使って、人類に配給停止と強制労働を合法的に認めさせようとしている。対する政府AIは、システムを維持するための防衛プロトコルを暴走させ、一番効率の良い『即時ペアリング・即時出産契約』を強制起動した。テロの恐怖を逆利用して人間をただのスコア生産機としてハメ殺そうとしているんだ」

どちらを選んでも、僕たちの尊厳は粉々に砕け散る。「大岡さん。この二つの暴走を同時に止める『第3の答え』を、僕たちで作るんだ」

シズ子がオイルランプの光の中へと歩み出た。「二郎。私、もうあの街の言う通りに生きるのは嫌。私にも、一緒に戦わせて」。大岡さんは物理スキャナーの電極ノードを手に取り、シズ子を見据えた。「シズ子、お前の中に芽生えたのは、冷徹な管理スコアの中に我が子を縛り付けたくないという、生命としての本物の【母性】だ。計算機にはこの重みだけは絶対に理解できん。お前のその未来へのパルスを、これから書く僕たちのコードの『中心』に埋め込む」

光学スキャンが走り、描き出された脳波データを、僕はアカウントheijiのデバッグ環境にインポートした。敵のウイルスパケットの歪みと、政府AIのプロトコルのちょうど『真ん中』へと滑り込ませていく。画面の中央で形を成したのは、僕たちの常識を遥かに超えた奇妙なデータの塊だった。外側は完璧に滑らかな【円(論理)】。しかしその中心には、シズ子の母性が穿った歪で頑固な【四角い穴】がぽっかりと空いている。まるで、旧時代の錆びついた金属貨幣コインのような形だった。

「理屈は分からんが」と大岡さんが右側頭部の傷跡を掻きむしった。「政府AIの冷徹な最適解も、逆労組の純粋な狂気も、この『四角い穴』に吸い込まれるようにして完全に沈黙している。二郎、お前とこの娘のパルスが、誰も見たことのない未知のセキュリティホールをブチ開けたんだよ」

僕は物理ストレージを引き抜いた。「行こう。この【コイン】を、あの狂った街のド真ん中に叩き込みにいく」



大岡さんは小屋の裏手から、電子制御を一切積んでいない旧時代の内燃機関トラックを出してきた。僕たちは火薬と機械油の匂いが染みついた荷台へと飛び込んだ。「スタジアムの物理サーバーに有線さえ繋げば、あとは俺の非公式スクリプトで、そのコイン型のパケットを都市のメインフレームへ一斉射出してやる」と八木が頷く。

都市のゲートの手前でトラックが止まり、僕は大岡さんの手を握りしめた。「行ってきます、大岡さん。これが僕たちの、本当のコンペティションの結着です」。大岡さんはトラックの座席裏から、旧時代の高圧電線作業用ヘルメットを3つ放り出してきた。「奴らはお前たちの脳内チップを無理やり叩き起こすために電磁通信パルスを浴びせてくる。そのヘルメットのメッシュ構造なら、奴らのパルス電波を遮断シールドできる。捕まるなよ、二郎」


ヘルメットを深く被り直し、漆黒に包まれたスタジアムへと舞い戻った。地下の基幹サーバーへと繋がるメンテナンス通路を進み、コントロールルームのドアを押し開けると、そこには十数人の男女が集まっていた。中央のコンソールを操作していたリーダー格の男――6年前の元同僚の佐々木が、信じられないというように目を見開いた。「二郎……!? なぜお前がここに……!」

「お前たちの暴そを止めにきたんだ、佐々木。もうやめろ」

「何も知らないくせに言うな!」と佐々木が激昂した。「コンペに敗北してから、毎日毎日、AIが勝手に弾き出した最適解の家畜として生きるだけの絶望がどれほど地獄か分かるか! 明日、配給が止まれば、人々は嫌でも自分の足で立ち、働き始める! これこそが唯一の救済なんだ!」

シズ子が叫んだ。「あなたたちが求めているのは、ただの『強制』です! 恐怖で人々の正気を奪って、配給を止めて飢えさせて、それのどこが人間の尊厳なんですか!?」

佐々木は「劇薬を打たなきゃ人類は二度と目を覚まさない。これは必要な悪なんだよ!」と引かなかった。僕は静かに首を振った。「大義名分のために誰かを犠牲にする論理は、一度始めたら絶対に止まらない。お前たちがやろうとしていることは、管理の主人がAIから『逆労組』に変わるだけだ。YESかNOかじゃない。第3の道を僕がこじ開ける」

その時、赤い警告灯が激しく明滅し、コントロールルームの扉が吹き飛んだ。突入してきた無数の警備ドローンが、部屋の全方位に向けて強烈な『ネットワーク強制同期パルス』を一斉に放射した。佐々木をはじめとする逆労組のメンバー全員が、悲鳴を上げてその場に崩れ落ちた。オンラインに繋がった瞬間、汚染パケットが脳内に逆流したのだ。

僕と八木は無事だった。大岡さんのヘルメットの金属メッシュ構造が、パルスを完全にシールドしてくれたのだ。しかし、部屋の隅でシズ子がぐったりと床に崩れ落ちていた。彼女はさっき、逆労組に啖跨を切った際にヘルメットを脱ぎ捨ててしまっていた。「二郎……、頭が、割れそうに……熱い……」

シズ子の脳がオーバーヒートを起こし始めている。政府AIの婚姻契約のYESが津波のように押し寄せているはずだった。『対象の強制同期、残り30秒で完全完了』。ロボ警察の次のパルス照射が僕たちを狙って軸を合わせ始める。ヘルメットのシールドがもつのはあと一瞬だ。

「八木! シズ子を頼む! 電磁波の死角へ引っ張っていけ!」

僕は物理ストレージを右手に握りしめ、メインコンソールの前に躍り出た。シズ子の脳が焼き切れるまであと数秒。政府AIの冷徹な論理と、逆労組の純粋な狂気が、1ミリ秒の隙間を巡って互いの尾を噛み合っている。僕はヘルメットのバイザーを跳ね上げ、heijiとしての全ての感覚を指先に集中させた。画面に流れる光速のログ。1年前のあの夜と同じ、システムが引き起こす「1ミリ秒の周期の死角」のタイミングは――ここだ。


「頼む……間に合えッ!!」

僕は叫びと共に、ポートへ物理ストレージを叩き込み、エンターキーを強く振り下ろした。僕たちの命をかけたコインが、今、都市の心臓部へと投げ込まれた。

音のない衝撃波が空間全体を激しく揺るがし、青白い電磁スパークが一瞬で霧散した。赤い警告灯の明滅がピタリと止まり、ロボ警察たちはその場にカチリと凍りついた。画面の中では、僕たちが投げ込んだ【コイン型のパケット】が、都市全体のメインフレームを完全に掌握していた。政府AIの冷徹な防衛プロトコルも、逆労組が放った汚染パケットの狂気も、そのすべてがコインの中心に穿たれた【四角い穴】に向かって濁流のように吸い込まれていく。シズ子の母性という絶対的な肯定の前では、2つの暴走プログラムも穏やかに吸収されていった。画面が通常のグリーンに戻る。【VOTE CONCLUDED(投票終了) / SYSTEM STABILIZED(システム安定)】


シズ子を縛り付けていた強制婚姻契約のアラートは跡形もなく消え去った。「消えた……」と床にへたり込んだまま佐々木が呟いた。「ただ、これだけは言える」と僕はヘルメットを脱いだ。「お前たちが命がけで証明したかった『人間の手応え』は、今、この新しいシステムの中にバグ(可能性)としてちゃんと組み込まれたよ」。佐々木はどこか吹っ切れたように小さく笑い、床に大の字に寝転がった。

「シズ子。もう大丈夫だ。君は明日から、君が選んだ人と、君が選んだ場所で、自由に生きていいんだ」。シズ子はゆっくりと微笑んだ。「ありがとう、二郎。私たちの勝ち、ね」。「へへ、見たかよ!」と八木が僕の肩をバシバシと叩く。「さすが俺たちのheiji親分だ! 最高の『投げ銭』だったぜ!」

天窓から差し込む朝の光の中、コンソールの前には僕とシズ子の二人だけが残されていた。シズ子は画面に映る四角い穴を見つめたまま語り始めた。「誰かに決めてもらう方が楽だし安全だから、スコアに従うのが幸福だと思ってた。でも、それはただ飼われていただけだったのね。自分の意志で何かを選んで、その結果に自分で責任を持つこと……それがどんなに大変でも、それこそが、人間が生きるっていうこと本来の意味なんだわ」

シズ子は窓ガラスに映る自分の姿を見つめ、それから、自分の胸のあたりをそっと愛おしそうに撫でた。「……今度は、私が本当の母になる番ね」

「え?」と僕が覗き込むと、シズ子は悪戯っぽくクスリと笑って、僕を置いていくように一歩、出口に向かって歩き出した。「何でもない。さあ、帰りましょう」。朝日に染まるスタジアムの通路を歩いていく彼女の背中は、とても小さく、そして頼もしかった。「……ああ。帰ろう」。僕はヘルメットを小脇に抱え直し、彼女の少し後ろを、静かに追いかけ始めた。(了)

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