第七話「逃げた金の結晶」
翌朝のアルトマン伯爵家は、嵐の前の静けさだった。
いや、正確には嵐の最中だった。ただしその嵐は、フィオナの地下室には届いていなかった。
降りてくるのは声だけだ。
階上から、ベアトリスの鋭い声。クラリスの甲高い声。カサンドラの混乱した声。三人が同時に喋っているせいで、内容はよく聞き取れない。でも、フィオナには大体分かった。
帝都中に、噂が広まっているのだろう。
昨夜の舞踏会で何が起きたか。ヴォルフハルト公爵の魔力が暴走しかけたこと。それを止めた、金色のドレスの謎の女のこと。そして公爵が、その女が残していった靴を——手放さなかったこと。
フィオナは作業台に座って、昨夜の指先の状態を確認していた。
熱は引いていた。じんじんする感覚も、朝には消えていた。指先の硬いタコが、生の魔力の熱をある程度吸収してくれたのだろう。
(丈夫に育てておいて、よかった)
七年分の傷とタコに、初めて素直に感謝した。
昼前に、ベアトリスがフィオナを呼んだ。
居間に入ると、三人が揃っていた。昨日と同じ構図。でも昨日と違うのは、三人の表情に「興奮」と「焦り」が混在していることだ。
クラリスの目が、爛々としている。よくない兆候だ。
「聞いたわよ、フィオナ」
ベアトリスが口を開く前に、クラリスが前に出た。
「昨夜の舞踏会で、ヴォルフハルト公爵の前に現れた女がいたって。金色のドレスで、装填師で、公爵の魔力を制御したって」
「……はい」
「その女、あなたでしょ」
フィオナは一秒だけ間を置いた。
「なぜそう思われますか」
「とぼけないで」
クラリスの目が細くなる。
「あなたが昨夜、控え室から消えていた時間がある。馬丁の子が言ってたわ。それに——」
クラリスが一歩近づいた。
「金色のドレス。あなたが六ヶ月前から地下室でこそこそやってたのが、何なのか分かったわ」
フィオナは答えなかった。
答えは、肯定と同じだ。クラリスも、それを分かって言っている。
「……それで、何かご用ですか」
「用?」
クラリスが笑った。笑い方が、フィオナは昔から苦手だ。楽しいから笑うのではなく、優位に立ったから笑う、そういう笑い方。
「あなたが何をしたか、母様に全部話す前に、提案があるのよ」
提案の内容は、単純だった。
帝都では今、噂が広まっている。ヴォルフハルト公爵が「昨夜の装填師を探している」という噂。正式な布告ではないが、公爵の側近が「昨夜の金色のドレスの女を探している」と動き始めているという情報が、すでに社交界を駆け巡っていた。
クラリスの提案はこうだ。
「あなたが昨夜やったことを、私がやったことにしなさい」
「……」
「あなたには技術がある。でも家名がない。使用人の娘が公爵に近づいたところで、何にもならない。でも私なら違う。アルトマン伯爵家の長女なら、公爵妃の候補になれる」
カサンドラが横から口を添える。
「それにほら、フィオナが昨夜勝手に抜け出したこと、継母様に言わなくてすむじゃない。お互いのためよ」
ベアトリスは黙って座っていた。
この提案を事前に知っていたのか、それとも今聞いているのか——フィオナには分からなかった。でも、止める気がないのは明らかだった。
フィオナは三人を見渡した。
(あなたたちは本当に、何も変わらない)
七年間、ずっとそうだった。フィオナの技術を、フィオナの知恵を、フィオナの努力を——自分たちのものとして消費し続けてきた。
そしてまだ、それが通じると思っている。
「……少し、考えさせてください」
フィオナは静かに言った。
「今日中に返事をします」
クラリスが満足そうに頷いた。
地下室に戻ったフィオナは、扉を閉めてから、初めて小さく息を吐いた。
笑いたいような、呆れたいような気分だった。
(考えるまでもないのだけど)
作業台に座って、金のクリスタルを取り出す。
昨夜の熱を覚えているのか、触れた瞬間にじわりと温かさが指先に伝わった。フィオナはそれを、しばらく掌の中で転がした。
クラリスの提案を呑む気はない。最初から、ない。
でも——「考えさせてください」と言ったのには理由がある。
フィオナの頭の中では今、複数の計算が同時に走っていた。
まず、アリスターが靴の持ち主を探していること。これは想定外だった。計画では、舞踏会で「静寂化配列」を実証したら、それで終わりのはずだった。公爵の関心を引くつもりはなかった。
でも——引いてしまった。
(想定外は、想定外のまま置いておく。今は関係ない)
次に、クラリスが「自分がやったことにしろ」と言ってきたこと。
これは、むしろ好都合だ。
なぜなら。
(クラリスが「自分が昨夜の装填師だ」と公爵の前で主張するためには——公爵の魔力を制御できると証明しなければならない)
そしてクラリスが頼るのは、盗み読みした「読ませる用のノート」の理論だ。
正確だが、不完全な理論。「血の魔力伝導」の項目だけが、意図的に誤解させるように書かれたあの理論。
読んだ者が「自分の魔力を強く込めれば込めるほど出力が上がる」と誤解するように設計された、精巧な罠。
(そしてクラリスが「強い感情の魔力」をデバイスに流した瞬間——)
フィオナの仕込みが、動く。
罠の引き金は「憎悪の魔力」だ。公爵の前で必死に「自分こそが」と証明しようとするクラリスが、その過程でフィオナへの憎悪を魔力に乗せる瞬間は——必ず来る。
七年間の侮蔑と搾取の感情が、魔力として流れた瞬間に。
デバイスは、内側から砕ける。
(あなたが自分で引き金を引くの、お姉様)
フィオナは金のクリスタルをそっと布に包んだ。
表情は変えない。でも、胸の中で何かが静かに、確かに、動いていた。
怒りではない。
これは——決意、だ。
夕方、フィオナは返事をしに居間へ行った。
「分かりました」
クラリスが目を輝かせる。
「協力します。ただし、条件があります」
「条件?」
クラリスの目が細くなる。
「あなたが条件を言える立場だと思っているの?」
「一つだけです」
フィオナは続けた。
「公爵の前で実演する際、私も同席させてください。デバイスの調整は繊細な作業なので、何かあった時のために」
クラリスが考える顔をした。
フィオナは内心で、静かに待った。
(断っても、呑んでも、どちらでも構わない。断ったなら断ったで、別の手がある)
でも——クラリスは頷いた。
「いいわ。あなたがいた方が、何かと都合がいいし」
都合がいい。
そう、都合がいいのは——フィオナも、同じだった。
その夜。
フィオナは母の書物を開いて、静寂化配列の「応用第八式」を確認した。
第七式は昨夜使った。これは次の段階だ。
もしクラリスのデバイスが自壊した後に、何らかの余波がアリスターの魔力に影響した場合の、緊急対処法。
全ての結末を、フィオナはすでに考えている。
姉たちの破滅。実家の終わり。その後、フィオナがどこへ行くか。
全部、計算の上だ。
ただ——一点だけ。
昨夜、金色の目が自分を見た時の感覚が、まだ指先に残っている気がした。
(関係ない)
フィオナは書物に視線を戻した。
(全部終わったら、きれいさっぱり忘れる。それだけの話よ)
金のクリスタルが、棚の上でかすかに輝いた。
まるで、笑っているみたいに。




