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第六話「静寂のビルド、発動」

会場が、揺れた。

 比喩ではない。文字通り、床が震えた。シャンデリアのクリスタル飾りが一斉に鳴り響いて、壁の燭台から炎が揺れる。貴族たちが悲鳴を上げて、ドレスの裾を翻して逃げ惑う。

 フィオナだけが、動かなかった。

 動けなかったのではない。動く必要がないと判断したからだ。

 震源は、目の前にいる。

 アリスター・ヴォルフハルト公爵の右手首のデバイスから、白い光が漏れ始めていた。応急処置で整えた回路が、急激に膨張した魔力に押し流されていく。ひびが、広がる。亀裂が走る。

 このまま五秒放置すれば——デバイスが完全に自壊して、制御を失った魔力が広間全体に解放される。

 どうなるかは、想像したくもない。

「公爵」

 フィオナは一歩、前に出た。

「手を、出してください。今すぐ」

 アリスターの顔に、かすかな緊張があった。自分の魔力が暴走しかけていることは、本人が一番よく知っている。でも、どうすることもできない。それがこの七年間の彼の日常だったはずだ。

「……近づくな。危険だ」

「知っています」

「分かって言っているのか」

「だから今すぐ手を出してと言っています」

 アリスターが、一瞬だけフィオナを見た。

 その目に浮かんでいたのは——警戒でも命令でもなく、奇妙なことに、困惑だった。こんなことを言う人間が、今まで一人もいなかったのかもしれない。

 それから、彼は右手を差し出した。


 フィオナは胸元に手を入れた。

 金のクリスタルを取り出す。

 薄暗くなった会場の中で、それは自ら光を放っていた。内側から湧き出るような、深い金色の輝き。逃げ惑う貴族たちの何人かが、その光に気づいて足を止めた。

 でも、フィオナには見えていない。

 今の彼女の世界に、他の人間は存在しない。

 アリスターの右手首に、壊れかけのデバイスがある。その中で魔力が暴走している。それを、この金のクリスタルを使って——内側から、整える。

(聴こえる? あなたの声が聴こえる)

 金のクリスタルを、デバイスのひびに押し当てる。

 瞬間、フィオナの指先に、嵐が流れ込んできた。

 さっきの比ではなかった。応急処置の時は「漏れ出す」程度だった魔力が、今は「溢れ出す」勢いで指先を叩いている。熱い。クリスタルを通しているのに、生の魔力の熱が指先に伝わってくる。

 でも、フィオナは手を離さなかった。

(方向を見つける。この嵐の、芯を見つける)

 目を閉じた。

 会場の騒音が、遠くなる。悲鳴が、足音が、割れるグラスの音が、全部遠ざかっていく。

 フィオナの意識が、クリスタルの「声」の中に入っていく。

 嵐の中は——静かだった。

 矛盾しているが、そうとしか言えない。外から見れば暴風で、内側から見れば——ただ、巨大なエネルギーが出口を求めて動いているだけだ。悪意も混乱もない。ただ、流れたい方向に流れようとしているだけの、純粋な力。

(なんて、きれいな魔力)

 思った瞬間、フィオナは自分が少し驚いた。

 きれい、などという感想を持つつもりはなかった。これは仕事だ、計算だ、復讐計画の一部だ——そう思っていた。

 でも、本当のことを言えば。

 今まで触れてきたどんなクリスタルの声よりも、この魔力の「声」は豊かで、複雑で、深かった。

 フィオナは——それが、少しだけ、好きだった。


 指先が動く。

 金のクリスタルを支点にして、アリスターのデバイスの内部回路を、外から触れながら再構築していく。壊れた回路を繋ぎ直すのではなく——回路の設計思想ごと、書き換える。

 「抑える」から「流す」へ。

 「制御する」から「整える」へ。

 エリン・ヴェインが「禁断の構築理論」と呼んだ設計思想。帝国装填師協会が封印した、静寂化配列の真髄。

 それを今、フィオナは——指先一つで、即興で、完成させていた。

 どれくらい時間が経ったか、分からない。

 フィオナの感覚では三分ほどだったが、後で聞いたら七分だったと教えられることになる。

 完成した瞬間、フィオナには分かった。

 嵐が——川になった。

 圧倒的な勢いはそのまま。でも方向を持って、きちんと流れている。あふれ出す前に巡回して、デバイスの中を滑らかに循環していく。制御、という言葉より——共存、という言葉の方が近い。

 フィオナはゆっくりと、金のクリスタルを引き離した。

 会場が、静まり返っていた。


 気づけば、揺れが止まっていた。

 シャンデリアの揺れも、床の震動も、全部消えていた。残っているのは、逃げ惑った貴族たちが残したドレスの乱れと、割れたグラスの破片だけ。

 フィオナは息を吐いた。

 指先が、じんじんしている。熱を持っている。生の魔力に長時間触れた後遺症で、しばらくは感覚が戻らないかもしれない。

 でも、金のクリスタルは無事だ。

 手の中で、静かに輝いている。

「……」

 アリスターが、自分の右手を見ていた。

 デバイスのひびは残っている。外殻は変わっていない。でも、その内側を流れる魔力の質が——全く別物になっていることは、本人が一番よく分かるはずだ。

「七年だ」

 静かな声だった。

「七年間、誰にもできなかった」

「理論の方向性が逆だったんです」フィオナは淡々と答えた。「あなたの魔力を抑えようとするから無理が生じる。あなたの魔力に、回路の方を合わせればいい」

「簡単に言う」

「簡単ではありませんでした。七年かかりました、私も」

 言ってから、また余計なことを言ったと思った。

 でも今度は後悔しなかった。なぜかは、分からないけれど。

 アリスターがフィオナを見た。

 さっきとはまた違う目だった。確信を持った目でも、値踏みする目でもなく——何か、深いところで何かが変わったような、そういう目。

 フィオナは視線を受け止めた。三秒。

 それから視線を外して、金のクリスタルをドレスのポケットに戻した。

「では、私はこれで」

「待て」

「舞踏会をお楽しみください、公爵」

「名前を聞いた。家名を教えろ」

「今夜は装填師です」

 フィオナは踵を返した。

 逃げるのではない。計画通りに、撤退する。今夜の目的は果たした。アリスター・ヴォルフハルト公爵の魔力は「静寂化配列」で制御可能だと、実証できた。

 それで十分だ。

 今夜は、十分だ。

 会場の端に向かって歩き始める。人だかりが道を開ける。誰も、フィオナを止めなかった。ただ、金色のドレスが通り過ぎるのを、息を飲んで見送っていた。


 バルコニーへの扉に手をかけた、その瞬間。

 ぐ、と足首に何かが絡んだ。

 フィオナは一瞬バランスを崩して——足元を見た。

 舞踏会用の床に敷かれた特殊な樹脂、ピッチだ。汗や水で溶けやすく、長時間の舞踏で柔らかくなって、靴底に絡みつくことがある。フィオナの靴はドレス用の薄底で、普段の作業靴と違って足首の固定が甘い。

 バランスを取り直した時——右の靴が、脱げた。

(しまった)

 拾う時間はない。

 フィオナは靴を一つ残したまま、扉を押して外へ出た。

 バルコニーの冷たい夜風が、頬を撫でた。足の裏に大理石の冷たさが直接伝わってくる。片足だけ靴がない状態で、フィオナは使用人通路へと足を速めた。

 後ろで、扉が閉まる音がした。

 それと同時に、会場の中でまた何かがざわめく気配がした。

 フィオナは振り返らなかった。


 控え室に戻り、暗い荷物部屋で金のドレスを脱いで作業着に着替えながら、フィオナは静かに息をついた。

 右手の指先が、まだじんじんしている。

 熱を持った指先で、金のクリスタルをそっと包む。

 クリスタルは、温かかった。

(…………まあ)

 フィオナは目を閉じた。

(きれいな魔力だった、とだけは、認めてあげる)

 それだけだ。それだけのことだ。

 復讐の計画は、予定通り進んでいる。金のクリスタルは無事で、姉たちへの罠も仕込み済みで、今夜の「実証実験」も成功した。

 全部、計画通り。

 なのに。

 金色の目が、頭の隅にある。

 フィオナはそれを、意識的に頭の外に追い出した。

 追い出そうとした。

 ——うまくいかなかったのは、まあ、今夜だけの話だ。


 一方その頃、大広間では。

 アリスターが、床に残された金色の靴を手の中に収めていた。

 周囲の視線など、どうでもよかった。

 手の中の靴は小さくて、華奢で、金色のドレスと同じ布で出来ていた。

 右の手首では、整えられた魔力が、静かに、川のように流れていた。

 七年間、一度も感じたことのなかった感覚。

 アリスターの金色の目が、フィオナが消えた扉を見た。

「…………」

 何も言わなかった。

 でも、その手が靴を離すことは——なかった。



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