第五話「静寂の舞踏会」
最初に振り返ったのは、フィオナの隣を通りかかった初老の紳士だった。
次に、その隣の婦人。
それが波紋のように広がって、フィオナが階段を三段降りる頃には、半径五メートルの貴族たちが揃ってこちらを見ていた。
フィオナは表情を変えなかった。
視線を正面に固定して、背筋を伸ばして、一段ずつ降りる。母の書物には魔力理論しか書いていなかったが、ルーシーが六ヶ月前にこう言った。「舞踏会に出るなら、歩き方だけは教えてあげる」と。
背中に視線を集めながら歩く練習を、フィオナは地下室で百回やった。
だから今、この視線は想定内だ。
(想定内。全部、想定内)
心臓が少し速い。それだけは、想定より少しだけ速かった。
大広間は、近くで見るとさらに広かった。
天井まで届く魔導灯のシャンデリア。壁一面の金細工。床の大理石は磨き上げられて、フィオナの金色のドレスを足元に映していた。
貴族たちの視線が、まだ集まっている。
当然だ。誰も見たことのない顔が、招待客の輪の中に現れたのだから。どこの令嬢か、どこの家の娘か——そういう詮索が、囁き声に乗って広間をめぐり始めているのをフィオナは感じた。
でも今、フィオナには関係ない。
目指す場所は、ひとつだ。
広間の中央から外れた場所にある「空白」。人が近づきたくても近づけない、不自然な円形の空間。その中心に立つ、黒い礼服の男。
近づくにつれて、「圧」が強くなる。
肌が粟立つような、密度の高い魔力の波動。フィオナの周囲の空気が、微妙に歪んでいる気さえした。会場の他の場所より、数度温度が高い。魔力が制御されずに熱として漏れているのだ。
五メートル。
三メートル。
フィオナが「空白」の縁に足を踏み入れた瞬間——男が振り返った。
顔を見た。
年齢は二十代の前半だろう。輪郭は鋭く、鼻梁が高い。整った顔立ちだが、笑っていない。笑い方を知らないというより——笑う必要を感じていない、そういう顔。
目が、金色だった。
髪と同じ暗い金ではなく、もっと明るい、真鍮に近い金色の虹彩。その目がフィオナを捉えた瞬間、空気が変わった気がした。
「……」
男は何も言わなかった。
フィオナも何も言わなかった。
二秒、三秒。
その間にフィオナは、近距離で感じる魔力の「声」を全力で聴いていた。
(すごい。これは本当に——津波じゃなくて、嵐ね。方向がない。ただ全方位に溢れ出してる)
制御という概念が存在しない魔力。器に収まろうとしない水。どんな回路を組んでも、これを「外から」抑え込もうとすれば、回路の方が先に耐えられなくなる。
でも。
(内側から整えれば——いける)
計算が、一瞬で組み上がった。
「失礼ですが」
フィオナは口を開いた。
声は、自分でも驚くくらい平静だった。
「少し、魔力が漏れていますよ。デバイスの調子が悪いのでは?」
男の目が、わずかに細くなった。
「……何者だ」
低い声だった。威圧しているわけではない。ただ、純粋に疑問として聞いている。それが逆に、静かな重みを持っていた。
「通りすがりの装填師です」
「装填師」
男は一音ずつ確かめるように繰り返した。それからフィオナの手元——正確には、指先を見た。
タコと傷だらけの指先。令嬢の手では絶対にない、職人の手。
「……今夜だけで、三人目だ」
「はい?」
「装填師を名乗って近づいてきた人間が、今夜三人いた。全員、デバイスを壊して逃げた」
フィオナは一秒だけ考えた。
「それは、外から制御しようとしたからです」
「…………」
「あなたの魔力を『抑える』設計では、どんな回路も持ちません。逆方向から設計する必要があります」
男の表情が、微かに変わった。
変わった、と言っても分かるかどうかのレベルだ。眉が数ミリ動いて、目の奥の何かが、わずかに揺れた。
「証明できるか」
「やってみなければ分かりません」
フィオナは正直に言った。
「でも、理論上は可能です。試させてもらえますか」
男——アリスター・ヴォルフハルト公爵は、しばらくフィオナを見ていた。
その視線には、値踏みも軽蔑もなかった。ただ、何かを測っている。嘘をついているかどうか、あるいは——本当に「分かっている」人間かどうか。
フィオナは視線を逸らさなかった。
逸らす理由がなかった。言ったことは全部本当のことだ。
「……右手首のデバイスだ」
アリスターが左手で、右袖をまくった。
手首に、黒いバンド型の魔導器がついている。素材はフィオナが見たことのない金属だ。高価な特注品だろう。でも、その表面には細かいひびが無数に入っていた。内側から圧力をかけられ続けた結果だ。
フィオナは手袋を外した。
素手の指先を、魔導器にそっと触れる。
瞬間——「声」が、洪水のように流れ込んできた。
(っ……!)
内心だけで、フィオナは息を飲んだ。
今まで扱ってきたどんなクリスタルとも違う。密度が違う。温度が違う。流れの速さが違う。指先から伝わってくる振動が、細かすぎて最初は何も掴めなかった。
でも。
(聴こえる。ちゃんと、聴こえる)
嵐の中に、芯がある。
滅茶苦茶に見えて、滅茶苦茶ではない。ただ器が小さすぎるだけだ。この魔力に見合う「川床」が、今まで存在しなかっただけ。
フィオナの指先が動き始めた。
魔導器のひびに沿って、指の腹で押さえながら、内部の回路の「歪み」を感じ取る。どこが詰まっているか。どこを開けば流れが変わるか。設計図は頭の中にある。あとは手が覚えている動きで——。
「……何をしている」
アリスターの声が、真上から降ってきた。
近い、とフィオナは思った。いつの間にか、彼がフィオナの手元を覗き込む距離に来ていた。
「調整です」
「道具も使わずに?」
「指先の方が正確です、私の場合」
アリスターは何も言わなかった。
でも、どいてくれなかった。
フィオナは構わず作業を続けた。外野の視線も、近すぎる体温も、全部遮断する。今この瞬間の世界は、指先とクリスタルと、「声」だけだ。
三分が経った。
フィオナは指先を離した。
「少し、魔力を流してみてください。ごく少量で」
アリスターが静かに魔力を流す。
フィオナは魔導器から伝わる振動を感じた。さっきまでの「溢れ出す洪水」ではなく——川が、流れていた。勢いはそのままで、でも方向を持って、きちんと流れていた。
「……」
アリスターが、初めて言葉を失った顔をした。
「どうですか」
「…………制御、できている」
信じられない、という響きが、抑制された声の奥に滲んでいた。
「少しだけです」とフィオナは言った。「本来なら、あなたの魔力量に合わせたクリスタルをゼロから組み直す必要があります。今夜の調整は応急処置でしかない」
「応急処置でこれか」
「本気でやれば、もっとできます」
言ってから、フィオナは少しだけ後悔した。
余計なことを言った。これは交渉の場ではない、今夜は逃げ切るのが目的だ。これ以上この男の関心を引いてどうする。
でも遅かった。
アリスターの金色の目が、フィオナを真正面から捉えていた。
さっきと違う目だった。測るような目ではなく——何かを見つけた時の、静かな確信を持った目。
「名前を」
「……申し上げる必要がありますか」
「ある」
即答だった。
フィオナは内心で舌打ちした。
「フィオナと申します」
「家名は」
「今夜は、ただの装填師です」
アリスターが口を開こうとした瞬間——会場の空気が変わった。
弦楽の音楽が止まった。
ざわめきが広間を走る。誰かが叫ぶ。グラスが割れる音。
フィオナは感じた。
「圧」の質が、変わった。さっきまで均一に漏れていた魔力が——何かに反応して、急激に膨らんでいる。
(まずい。デバイスが応急処置では持ちきれない何かに、反応している)
「公爵」
フィオナは瞬時に判断した。
「今すぐ、もう一度手を貸してください」




