第三話「姉たちの命令」
舞踏会の前日というのは、貴族の屋敷において一種の「嵐の前」だとフィオナは思っている。
使用人たちは忙しなく走り回り、ドレスの最終調整に仕立て屋が呼ばれ、髪結いの予約が入り、香水の瓶があちこちで開けられる。屋敷全体が浮き足立って、誰もが「明日」のことしか頭にない。
そういう日は、フィオナへの監視が薄くなる。
だから今日は、一番やりたいことができる日だ。
でも、そうは問屋が卸さないのが、アルトマン伯爵家だった。
「フィオナ。来なさい」
朝食も終わらないうちに、ベアトリスの声が降ってきた。
呼ばれた先は、継母の私室だった。
フィオナが足を踏み入れるのは久しぶりだ。薔薇の香水の匂いが、入った瞬間に鼻を突く。趣味の悪い金縁の調度品。壁一面の鏡。その前に、クラリスとカサンドラが並んで立っていた。
二人とも、すでにドレスを着込んでいる。
クラリスは白地に銀の刺繍。カサンドラは深紅に金のレース。どちらも舞踏会用の正装で、見るからに高価な品だ。フィオナの七年分の「働き」が、このドレスに変換されたのだと思うと、笑えないような笑えるような気持ちになる。
「最終確認よ」
ベアトリスが言った。椅子に座ったまま、フィオナを見もしない。手元の茶器を持ち上げながら、まるで備品の点検でも命じるような口調で。
「明日の舞踏会で、二人の魔導器が完全に機能するかどうか、今日中に確かめておきなさい。もし不具合が出たら、あなたの責任よ」
「……承知しました」
「それから」
ベアトリスがようやく視線を上げた。値踏みするような目。フィオナはその視線を、七年間受け続けてきた。
「今年の舞踏会には、ヴォルフハルト公爵が出席なさるという話よ。あの方のお目に留まれば、クラリスもカサンドラも箔がつく。分かる?」
「……はい」
「あの方は、装填師に並々ならぬ関心をお持ちだと聞いているわ。もし会話の機会があれば、クラリスが私の魔導器の設計を少し勉強している、とさりげなく伝えなさいな」
隣でクラリスが得意そうに顎を上げた。
フィオナは何も言わなかった。
言う必要がなかった。
(お好きにどうぞ)
確認作業は午前中いっぱいかかった。
クラリスの魔導器を起動させ、魔力の出力を測定し、問題がないことを確かめる。カサンドラの魔導器も同様に。どちらも、表面上は完璧に動いている。
フィオナが仕込んだ「罠」は、当然ながら今は微動だにしない。
それが作動する条件は、ただひとつ。
(「憎悪の魔力」を持つ手が、このデバイスに魔力を流した時)
魔力には感情が乗る。これは帝国装填師協会が公式に認めている事実だ。だから感情が激しい時に魔法を使うと、出力がぶれることがある。怒りの魔力は不安定で、恐怖の魔力は収縮する。
そして「憎悪」の魔力は——特定の結晶格子と、異常な共鳴を起こす。
フィオナはその性質を利用した。
姉たちが今フィオナに向けているような、七年間注ぎ続けた侮蔑と嫌悪の感情。それを「魔力として」デバイスに流した瞬間に、内部で設計した回路が逆流して、クリスタルが自壊する。
外から見ても、何も分からない。魔導器の外殻は無傷のまま。ただ内側が——砕け散る。
(さて。問題は、いつ「そういう感情」を流すか、だけど)
フィオナは無表情で確認作業を続けながら、淡々と計算した。
姉たちは普段、フィオナを「家の備品」として扱っている。憎悪というよりは、軽蔑と無関心に近い。
でも、舞踏会という舞台で——たとえばフィオナの存在が邪魔になった瞬間に——その感情はたやすく「憎悪」へと変質する。
そしてそのタイミングは、フィオナが作り出せる。
「終わりました。両方とも問題ありません」
「そう」
ベアトリスは茶を一口飲んだ。
「下がっていいわ」
昼過ぎ、フィオナは外出の許可を申し出た。
「舞踏会の会場近くに、クリスタルの消耗品が必要になった場合のための素材店がございます。念のため補充しておきたいのですが」
実際には、素材店に用はない。
でも、継母はあっさり許可した。フィオナが外出することに関心がないからだ。逃げるにしても金も伝手もない娘が、どこへ行けるというのか——そういう計算が、ベアトリスの脳裏にはある。
正しい計算だ。ただし、今日限りは。
フィオナが本当に向かった先は、帝都の外れにある小さな仕立て屋だった。
店の名前は「銀の針」。
表通りから一本入った路地にある、看板も小さな目立たない店だ。でも扉を開けた瞬間に、上質な布地と糸の匂いが漂ってくる。
カウンターの奥から、六十がらみの女性が顔を上げた。白髪まじりの髪。作業用の眼鏡。指先に針刺しをはめたまま。
「あら、フィオナちゃん。久しぶりね」
「ルーシーさん。お元気でしたか」
ルーシー・ハーン。かつてエリン・ヴェインの友人で、今はフィオナが唯一「外の世界」で信頼できる人物だ。継母には知られていない。
フィオナが六ヶ月前に持ち込んだのは、シンプルな依頼だった。
「舞踏会に出られる礼装を、一着作ってほしい。素材はこれを使って」
差し出したのは、フィオナが自分で染めた布地だった。地下室で、廃材の布と母の残した染料を使って作った、一点物。色は深い金色。金のクリスタルと同じ、内側から光を持つような色。
「代金は……これで」
小さな包みに入っていたのは、フィオナが半年かけて研磨した補助用クリスタルを三粒。市場価格で換算すれば、ドレス一着の代金には十分すぎる額だった。
「受け取れないわよ、こんな高価なもの」とルーシーは言ったが、フィオナは首を振った。
「いいえ。これは取引です。私はルーシーさんの腕を信頼しているから、それに見合う対価を払いたい」
ルーシーはしばらくフィオナの目を見て——それから静かに包みを受け取った。
今日、フィオナが取りに来たのは、その完成品だ。
試着室で、フィオナはドレスを身にまとった。
鏡の中に、見知らぬ誰かが立っていた。
金色のドレス。シンプルだが、布地の質感が光を受けてさざ波のように輝く。継母と姉たちの派手な装飾品とは正反対の、静かで鋭い美しさ。
七年間、灰色の作業着しか着ていなかった。だから鏡の中の自分が、少しだけ——本当に少しだけ——他人のように見えた。
フィオナは、ゆっくりと自分を見た。
身長は平均より少し高い。華奢に見えるが、七年間休まず指を動かし続けた上半身には、令嬢らしからぬ細い筋がある。手首から指先にかけては特に、腱が浮き出るくらいに引き締まっていた。
髪は、腰まで届く長さがある。色は——「暗い金色」と言えばいいのか、日の当たる場所ではブロンドに近く、翳ると焦げ茶に見える、曖昧な色だ。継母に「手入れが行き届かない色ね」と言われ続けたその髪は、今日は自分でゆるく編んで背中に流している。本当はもっと凝った結い方をしたかったが、鏡も道具も揃っていない地下室では、これが限界だった。
顔は——正直、自分では判断できなかった。
父に似た、やや彫りの深い輪郭。切れ長の目。睫毛は長いが、色素が薄いせいか主張が弱い。唇は薄い。頬骨が少し高い。全体的に「綺麗」というより「整っている」という印象で、笑顔を作れば可愛らしくなるのかもしれないが——七年間、人に向けて笑顔を作る練習をしてこなかった。
目だけが、少し違う。
灰がかった青緑色。母から受け継いだ、この目だけは、鏡の中でひっそりと光を持っていた。クリスタルの「声」を聴く時に自然と細くなる目。計算をしている時に、温度が下がる目。
ドレスを纏うと——その目の色が、金色の布地に映えた。
七年分の灰が、今夜だけ落ちたような。
そういう顔が、鏡の中にいた。
「似合うわよ」
ルーシーが穏やかに言った。
「あなたのお母さんに、少し似てきた」
フィオナは答えなかった。
代わりに、鏡の中の自分をもう一度だけ見た。
(お母さんに、似てきた)
その言葉が、胸の奥のどこかに静かに落ちた。
七年間、自分の顔をまともに鏡で見たことがなかった。見てどうするのかと思っていたから。でも今この瞬間だけは——。
(お母さん。私、ちゃんとやれてる?)
答えは、当然なかった。
フィオナは三秒だけ目を閉じて、それから開いた。
「ありがとう、ルーシーさん。明日の夜が終わったら、また来ます」
「……気をつけてね」
ルーシーの声には、何か含むものがあった。でもフィオナは聞かないふりをした。
心配される理由は、十分に分かっているから。
帝都の路地を歩きながら、フィオナは金色のドレスを紙に包んで抱えていた。
空は夕方の赤に染まり始めている。そろそろ戻らないと、継母に怪しまれる。
でも、あと少しだけ。
フィオナは足を止めて、空を見上げた。
夕焼けの中を、白い鳥が一羽横切っていった。
(明日、ね)
全ての計算は終わっている。罠は仕込んだ。逃走路も決めた。舞踏会の会場の見取り図も、一週間前に使用人から聞き出した。
唯一の未知数は——アリスター・ヴォルフハルト公爵、ただ一人。
「静寂化配列」が本当に彼の魔力に通じるかどうか。それだけは、実際に試してみるまで分からない。
(でも、通じなかったとしても)
フィオナの口元に、微笑みが浮かんだ。
(その時はその時で、別の手を打つだけよ)
彼女の計画に、「失敗した場合」の予備案は三つある。
どれを使っても、姉たちの破滅は確定している。変わるのは「フィオナがその後どこへ行くか」だけだ。
歩き出す。
金色のドレスを抱えたまま、灰かぶりは伯爵家への道を戻っていく。
明日の夜——舞台の幕が上がる。




