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第二話「ハシバミの白い鳥」

 アルトマン伯爵家の裏庭の隅に、一本だけ場違いな木が生えている。

 ハシバミの木。

 薔薇と噴水と手入れされた芝生が整然と並ぶ庭園の端で、その木だけが誰にも構われず、でも誰にも切られることもなく、毎年きちんと葉を茂らせていた。

 継母のベアトリスが一度「邪魔だから切りなさい」と使用人に命じたことがある。でもその日の夜、ベアトリスの寝室の窓に白い鳥が一羽飛んできて、窓ガラスを嘴で叩き続けた。夜通し、夜明けまで。

 翌朝、青ざめたベアトリスは「あの木には触れるな」と命じた。

 それ以来、ハシバミの木は庭の異物として、静かにそこに在り続けている。


 フィオナが母の墓に花を供えられるのは、週に一度だけだ。

 決まって早朝。継母と姉たちがまだ眠っている時間。フィオナは地下室から抜け出して、誰にも見られないように裏庭の隅へ向かう。

 墓といっても、大層なものではない。

 ハシバミの木の根元に埋められた、小さな石。名前だけが刻まれている。

 エリン・アルトマン(旧姓・ヴェイン)。

 父が再婚してからは、墓碑にも花が供えられなくなった。フィオナが気づいた時には、もう雑草に埋もれていた。だから今は、フィオナが週に一度だけ草を抜いて、野花を一輪だけ置いていく。

 それだけが、フィオナにできることだった。

「ただいま、お母さん」

 誰も聞いていない。

 それでも、フィオナは必ずこう言う。ここだけが、この屋敷で「ただいま」と言える場所だから。

 しゃがんで、雑草をひとつまみ抜いて。野花を根元に置いて。冷たい石の表面を、指先でそっと撫でた。

(お母さんの手は、柔らかかったな)

 七歳の時の記憶は、もう輪郭がぼやけている。でも、手の感触だけは覚えている。研磨で荒れたフィオナの手とは違う、温かくて柔らかい手。でも同じように、指先だけがひどく硬かった。

 エリン・ヴェイン。

 かつて帝都を支えた伝説の装填師。帝国最高位の「白金プラチナ級」認定を受けた、この時代でただ一人の女性装填師。

 その娘が、今は灰かぶりで伯爵家の備品だ。

(笑えないわね)

 笑えないけど、フィオナは笑わない。笑うには、まだ早い。


 ふわり、と白い影が降りてきた。

 ハシバミの枝の上に、白い鳥が一羽とまっている。

 種類がよくわからない鳥だ。鳩より少し大きくて、鷺より随分小さい。真っ白な羽根に、透明感のある目。フィオナが物心ついた頃からいる気がするが、鳥の寿命を考えると同一個体のはずがない。

 でも、フィオナは毎回この鳥を「お母さんの使い」だと思っている。

 論理的な根拠はない。ただ、そう思う。

「今日は何を持ってきてくれたの?」

 白い鳥は答えない代わりに、くちばしをハシバミの枝に打ちつけた。

 かつん、かつん。

 一定のリズムで三回。すると枝の股のところから、何かがぽろりと落ちてきた。フィオナは反射的に両手を伸ばして、それを受け止めた。

 掌の中に収まったのは、親指の爪ほどの大きさの原石だった。

 深い、金色をしている。

(……これは)

 フィオナは息を飲んだ。

 金色のクリスタル原石は、極めて稀少だ。産出量が少ない上に、魔力の保有量が他の原石の比ではない。帝都の宝石商に持ち込めば、令嬢一人が一年暮らせるくらいの金額にはなる。

 でも、フィオナがこれを売ることは絶対にない。

 なぜなら、この石の「声」を聴いた瞬間に、もうわかってしまったから。

(これは、あの人のための石だ)

 脳裏に浮かぶのは、帝都中の噂になっている一人の男の姿。

 アリスター・ヴォルフハルト公爵。帝国最強の魔力を持ちながら、その制御が不可能なために「バグ」と呼ばれる若き権力者。

 どんな装填師が組んだ魔導器も、彼が使えば数秒で自壊するという。帝都一の名門工房も、王室御用達の老舗も、全員さじを投げた。

 そして舞踏会で——フィオナは彼と「出会う」ことになる。

 計画通りに。

(お母さん、やっぱりあなたはご存知だったのね)

 フィオナは金色の原石を胸に抱いた。

 白い鳥が、もう一度だけ鳴いた。それからハシバミの枝を蹴って、朝の空へと飛んでいった。

 見えなくなるまで、フィオナは見送った。


 地下室に戻ったフィオナは、母の遺した書物を棚から取り出した。

 革張りの表紙は、もう端がほつれている。何度も読み返したせいで、ページの角は丸まって、フィオナが特に重要だと思った箇所には細い字で注釈が書き込まれている。

 エリン・ヴェインが遺した「禁断の構築理論フォービドゥン・コード」。

 帝国装填師協会が「危険思想」として封印しようとした理論書。なぜ危険かというと、この理論で組んだ魔導器は——「普通の人間の魔力では扱えないほど高性能になりすぎる」からだ。

 規格外の魔力にしか対応できない設計。

 それは裏を返せば、規格外の魔力にだけ、完璧に対応できる設計でもある。

(お母さんは最初から、こういう使い手のためにこれを書いたのかもしれない)

 フィオナは金色の原石を作業台に置いて、書物を開いた。

 付箋が挟まっているページ。タイトルは「絶対連環の応用・第七式:静寂化配列」。

 フィオナがこの理論に初めて辿り着いたのは、十四歳の時だった。意味が分かるまでにさらに二年かかった。完全に再現できるようになったのは、つい半年前のこと。

 静寂化配列。

 暴走する魔力を、外から「鎮める」のではなく——内側から「最適な流れに整える」技術。嵐を止めるのではなく、嵐そのものを音楽に変換するような、そういう設計思想。

(アリスター・ヴォルフハルト公爵の魔力は「嵐」どころか「津波」らしいけれど)

 フィオナは少しだけ考えた。

 正直なところ、彼に興味はない。どんな顔をしているかも知らないし、権力者だからといって特別に思うこともない。

 ただ——。

(「誰にも制御できない」という問題が、私の理論で解けるかもしれない。それは、少し、面白い)

 そこだけが、純粋な知的好奇心だった。

 復讐の計画に、たまたまこの問題が組み込まれているだけのことで。


 原石に触れる。

 金色の「声」は、他のどんな石よりも豊かで、複雑で、高いところで鳴っていた。オーケストラで例えるなら、管楽器と弦楽器が同時に鳴り響いているような——そういう複雑さ。

(これを「静寂化配列」で組んだら……面白いことになる)

 フィオナの指先が動き始める。

 削る方向を決める。どの面を立てて、どの面を伏せるか。魔力の通り道をどの角度で設計するか。全部、声が教えてくれる。

 作業に入ると、時間の感覚がなくなる。

 継母の声も、姉たちの笑い声も、地上の世界の全てが遠くなって——フィオナの世界はクリスタルと、その声と、指先だけになる。

 これだけが、本当に「自分の時間」だとフィオナは思う。

 七年間、この時間だけが彼女のものだった。

 だから誰にも渡さない。奪わせない。この理論も、この声も、この指先も。

(舞踏会まで、あと二日。仕上げは明日の夜までに終わらせる)

 金色の原石が、少しずつ、その本当の形を現し始めた。


 同じ頃。

 屋敷の二階では、クラリスとカサンドラが声を潜めて話し合っていた。

「ねえ、見た? フィオナが裏庭から戻ってくる時」

「見た見た。何か持ってたわよね、手に」

「あの子、最近変よ。地下室に閉じこもって、何かこそこそやってる気がして」

 クラリスが眉を寄せる。

「まあ、どうせ私たちのデバイスの修理でしょ。それ以外にできることなんてないんだから」

「そうよね」

 カサンドラはすぐに納得した。深く考えるのが苦手な娘だ。

「でも、舞踏会のデバイスの調整、ちゃんとできてるのかしら。あの子、最近少しぼんやりしてない?」

「なら私が確認するわ」

 クラリスは立ち上がった。

「フィオナの理論は、もう私が全部読んで理解したもの。いざとなれば、あの子に頼らなくたって自分でできるから」

 廊下を歩きながら、クラリスは笑う。

 フィオナが書き残したメモを盗み読みした、先月のことを思い出しながら。あのノートには、クリスタルの配置理論が細かく書き込まれていた。「血の魔力伝導」とか、「感情の魔力と結晶格子の共鳴」とか、難しい言葉が並んでいたけれど——要するに、「自分の魔力を強く込めれば込めるほど、デバイスの出力が上がる」ということだとクラリスは理解していた。

 舞踏会で一番目立つのは、私よ。

 そのためならなんだってする。


 地下室では、フィオナが作業を続けていた。

 姉が自分のノートを盗み読みしていることは、とうに気づいていた。

 だから「読ませる用のノート」を用意してある。正確だけど、不完全な理論。読んだ人間が「理解した」と錯覚するように設計された、精巧な罠。

(クリスタルは嘘をつかない。でも、人間には嘘が必要な時がある)

 金色の原石が、また少し輝いた。

 フィオナの口元に、あの微笑みが浮かぶ。

(さあ——二日後、舞台は整う)



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