第十一話「試験前夜の誤解」
クラリスの失敗は、夕食の席でも話題にならなかった。
ベアトリスが「話すな」と言ったのだろう。三人とも、何事もなかったような顔で食卓についていた。クラリスの右手に巻かれた包帯だけが、今日何があったかを無言で語っていた。
フィオナは末席で、残り物の夕食を食べた。
いつも通りだ。
でも、テーブルの下で、三人の足が落ち着きなく動いているのを、フィオナは気配で感じていた。特に——カサンドラ。
次女は今日、ずっとそわそわしている。
夜半過ぎ、地下室の天井越しに、足音が聞こえた。
二人分。カサンドラとクラリスだ。どこかの部屋に移動して、扉を閉める音。それからくぐもった話し声。
内容は聞こえない。
でも、フィオナには想像できた。
クラリスが今日の試験の内容を話している。何をしたか。何が起きたか。そして——どのノートを参考にしたか。
(カサンドラに、引き継ぐのね)
フィオナは作業台に肘をついた。
これも、想定の範囲内だ。
クラリスが失敗した。ならばカサンドラが代わりに挑む。この姉妹はいつもそうだ。片方がうまくいかなければ、もう片方が出る。二人で組んで、交互に攻めてくる。七年間、フィオナへの嫌がらせも、搾取も、そうやって続けてきた。
問題は——カサンドラが、クラリスの失敗から何を学ぶか、だ。
正しく学べば「あの理論は罠だ」と気づく。
でも。
(カサンドラは、正しく学ばない)
フィオナは確信していた。
カサンドラは頭が悪いわけではない。でも、自分が見たいものしか見ない。都合の悪い情報を、無意識に弾く。クラリスの失敗を聞いて、彼女が導き出す結論はひとつだ。
「お姉様のやり方が足りなかっただけ。私ならもっとうまくできる」
そして——それは間違いではない、とカサンドラは思う。
なぜなら、「血の魔力伝導理論」のノートにはこう書いてある。「強い感情の魔力を込めるほど、共鳴が深まる」と。
クラリスの感情が足りなかったのだとカサンドラは解釈する。自分ならもっと強い感情を込められると思う。
だから——もっと深く、もっと強く、魔力を流そうとする。
(それが、あなたの終わりよ、カサンドラ)
フィオナは目を閉じた。
悲しくはない。怒りもない。ただ——静かな、冷えた確信がある。
七年間、この家で生きてきた。この家の人間がどう動くか、どう考えるか、フィオナは誰より知っている。
知りたくて知ったわけではない。
でも、知ってしまった。
翌朝。
カサンドラが地下室に来た。
単独で来たのは珍しかった。いつもはクラリスかベアトリスと一緒だ。でも今朝のカサンドラは一人で、どことなく決意めいた表情をしていた。
「フィオナ」
「はい」
「聞きたいことがあるの」
カサンドラは作業台の前に立った。フィオナの手元——今朝は別の小さな原石を研磨していた——を一瞥して、それから顔を上げた。
「昨日、クラリス姉様の魔導器が砕けたのは——強さが足りなかったから?」
フィオナは手を止めた。
一秒、考えた。
嘘をつくべきか。
でも——嘘をつく必要はない。本当のことを言っても、カサンドラは自分の解釈でしか受け取れないから。
「強さ、というより」フィオナは静かに答えた。「魔力と、クリスタルの相性の問題です」
「相性」
「はい。どれだけ強く込めても、相性が合わなければ通らない。むしろ——強く込めれば込めるほど、反発が大きくなることもあります」
カサンドラが、ゆっくりと頷いた。
フィオナは続けた。
「ですから、無理に強い魔力を流すのは、あまりお勧めしません」
「…………」
カサンドラがフィオナを見た。
その目に、ほんの一瞬——何かが揺れた気がした。
でも、すぐに消えた。
「そう」
カサンドラは踵を返した。
「ありがとう」
扉が閉まった。
(聞こえていた? 聞こえていなかった?)
フィオナは原石に視線を戻した。
正直なところ、カサンドラが「やめておこう」と思ってくれれば、それでよかった。罠を発動させることが目的ではない。この家から、完全に自由になることが目的だ。
でも。
カサンドラの目に浮かんで、消えた「何か」——それは、聞く耳ではなかった。
強がりと、見栄と、「クラリスより私の方がうまくやれる」という意地だった。
(やっぱり、聞こえていない)
フィオナは静かに確認した。
「強く込めるほど反発が大きくなる」という言葉は、カサンドラの頭の中で「じゃあ相性さえ合えば、強く込めるほどいい」という解釈に変換されている。
「相性が合わなければ」という条件を、自分には当てはまらないと思っている。
自分なら相性が合う。自分なら通じる。私はクラリスとは違う——。
そういう確信が、カサンドラを動かす。
止めることは、できない。
いや——止める気が、フィオナにはなかった。
七年間、この家でフィオナが受けてきたことを、フィオナは覚えている。カサンドラがやったことを、全部。
食事に灰を混ぜられた夜のことを。
母の形見の布を燃やされた朝のことを。
「お前みたいな汚い手で作ったものなんか使いたくない」と言いながら、翌日には当然のようにデバイスの修理を押しつけてきた、その矛盾を。
(全部、返ってくる)
因果応報。
グリム童話の世界では、意地悪な姉たちは必ず報いを受ける。
この世界でも——同じだ。
その夜。
カサンドラが単独で外出した。
ベアトリスが許可したのか、抜け出したのかは分からない。でも夜の九時を過ぎて、馬車が一台、裏門から出ていく音がした。
フィオナは小窓から夜空を見上げた。
星が出ていた。
公爵邸は、夜間の来客も受け付けているのだろうか。それとも、カサンドラは別の場所に向かったのか。
分からない。
でも——どこに向かったにせよ、カサンドラはもうフィオナの手の届かないところにいる。仕込んだ罠は、カサンドラのデバイスの中にある。引き金を引くのは、カサンドラ自身だ。
フィオナはできることをした。
止めようとした——正確には、止まれるだけの情報は渡した。
あとは、カサンドラが選ぶことだ。
白い鳥が、小窓の外に止まった。
今夜は何も咥えていない。ただ、フィオナを見ている。
「……見ていてね、お母さん」
フィオナは小さく呟いた。
「全部、終わらせるから」
白い鳥が、一度だけ鳴いた。
それから夜空に溶けるように、消えていった。




