第十話・五「本物の声」
翌日の午後、セバスチャンから白い鳥が来た。
小窓にとまった鳥のくちばしに、小さな紙切れ。
「明日の午前十時、公爵邸にお越しください。正式な場をご用意します。——S」
フィオナは紙切れを読んで、燃やした。
灰が、作業台に落ちる。
(正式な場)
セバスチャンが何を考えているか、フィオナには分かった。
クラリスが公式記録に失敗を残した。その記録を上書きするためには——本物が、同じ公式の場で、正しく成功する必要がある。
偽物の失敗と、本物の成功を——同じ記録に残す。
それが、最も鮮やかな決着だ。
(やっぱり、賢い人ね)
フィオナは金のクリスタルを取り出した。
明日。
いよいよ、表舞台に出る。
翌朝、フィオナは早く目が覚めた。
眠れなかったわけではない。ただ、身体が自然に起きた。
地下室の薄暗がりの中で、フィオナはしばらく天井を見ていた。
今日、全部が動き出す。
七年間、ここで待っていた。灰にまみれて、指先を削って、誰にも届かない場所で理論を積み上げて。
今日——その全部を、公式の記録に刻む。
フィオナは起き上がった。
顔を洗う。作業着ではなく——ルーシーが仕立ててくれた、深い緑のワンピースを着る。舞踏会のドレスほど華やかではないが、きちんとした装填師が着るべき品のある服だ。ルーシーが「公式の場用に一着持っておきなさい」と言って、追加で作ってくれていた。
髪を丁寧に編む。
金のクリスタルを、内ポケットに入れる。
準備が整った。
問題は、屋敷を出ることだった。
今日も、ベアトリスはフィオナを屋敷に縛り付けるつもりでいる。昨夜の様子から、それは分かっていた。
でも——今朝の屋敷は、フィオナの予想より静かだった。
ベアトリスの部屋から、物音がしない。クラリスも、カサンドラも、まだ眠っている時間だ。昨夜遅くまで起きていたせいだろう。
フィオナは地下室の扉を、音を立てずに開けた。
廊下。誰もいない。
玄関。ハンスが門番をしている。
「ハンスさん」
「……お嬢さん。今日は」
「少し、外に用があります」
ハンスは一秒だけフィオナを見た。いつもの作業着ではない服装を見て、何かを察したように頷いた。
「お気をつけて」
それだけだった。
フィオナは門を出た。
ヴォルフハルト公爵邸の大応接室には、昨日より多くの人がいた。
帝国装填師協会の立会人が、今日は四人。昨日の二人に加えて、上位の認定官が二人増えていた。認定官の制服は、立会人より格が上の、金の徽章だ。
セバスチャンが入口でフィオナを迎えた。
「お越しいただきありがとうございます」
「昨日より人が増えていますね」
「昨日の記録を受けて、協会側が関心を持ちました」セバスチャンが静かに言った。「クリスタルが特定の魔力パターンにのみ反応するという事実が、協会の技術部門の興味を引いたようです」
「そうですか」
「準備はよろしいですか」
フィオナは内ポケットの金のクリスタルを、指先で確かめた。
「はい」
テーブルの中央に、昨日と同じクリスタルが置かれていた。
四人の立会人・認定官が、羽ペンを手に待機している。
セバスチャンが、正式な口調で述べた。
「ヴォルフハルト公爵家専属装填師認定試験、第二被験者。フィオナ・アルトマン様です」
フィオナは全員に向かって、静かに頭を下げた。
「フィオナ・アルトマンと申します。亡き母エリン・ヴェインの理論を継いだ装填師です」
認定官の一人が、顔を上げた。
「エリン・ヴェイン——白金級の」
「はい」
「……続けてください」
フィオナは椅子に座った。
手袋はしていない。最初からしていなかった。
テーブルの上のクリスタルに、素手で触れる。
「声」が、聞こえた。
静かで、澄んだ声。昨日、クラリスの憎悪の魔力を受けて少しだけ乱れていたクリスタルの格子が——フィオナの指先に触れた瞬間、静まり返った。
(ちゃんと覚えていてくれたのね)
フィオナは魔力を流した。
ごく自然に。川が流れるように。設計した通りに。
クリスタルが——金色の光を放った。
深く、静かに、内側から湧き出すような光。
部屋の全員が、息を飲んだ。
認定官の一人が、椅子から少し身を乗り出した。
「……これは」
「静寂化配列です」フィオナは静かに答えた。「クリスタルの内部構造に合わせて、魔力の流れを外から整えるのではなく、内側から最適化する設計思想です。母の遺した理論を基に、独自に発展させました」
「舞踏会でヴォルフハルト公爵の魔力を制御したのも、この理論で?」
「はい」
認定官たちが顔を見合わせた。
羽ペンが、一斉に動き始めた。
試験が終わった後、認定官の一人——白髪の、七十がらみの男性が——フィオナに近づいた。
「少し、よろしいですか」
「はい」
「エリン・ヴェインの理論書を、あなたは読んでいる」
「はい。地下室で、七年間」
男性が、フィオナを見た。
「協会は、あの理論書を封印した。危険思想として」
「存じています」
「あなたは、それを使った」
「はい」
男性が、しばらくフィオナを見た。
「危険だとは思わなかったのですか」
「危険なのは」フィオナは答えた。「理論ではなく、理論を理解せずに使う人間だと思います」
沈黙があった。
それから——男性が、静かに笑った。
「エリンも、同じことを言っていた」
フィオナは止まった。
「ご存知でしたか、母を」
「若い頃に、一度だけ。同じ目をしているな。あの、全部見透かすような目が」
男性が頭を下げた。
「フィオナ・アルトマン殿。本日の試験結果は、協会として正式に記録します。白金級見習いとしての認定申請を、推薦しましょう」
フィオナは——一瞬だけ、言葉が出なかった。
白金級。母が持っていた、最高位の認定。
「……ありがとうございます」
声が、少しだけかすれた。
男性が去っていった後、フィオナはテーブルの上のクリスタルを見た。
金色の光は消えていた。でも、クリスタルの内部に——かすかな温もりが残っていた。
フィオナは指先でそれに触れた。
(お母さん。聞こえてる?)
心の中だけで、問いかけた。
答えは——なかった。
でも、クリスタルが、ほんの少しだけ、温かかった。
公爵邸を出る前、セバスチャンがフィオナに言った。
「閣下が、ご挨拶したいとおっしゃっています」
「今日ですか」
「今日でなくても、と閣下はおっしゃっていますが——」
セバスチャンが眼鏡を押し上げた。
「今日の方が、よいかもしれません」
フィオナは少し考えた。
今日の方がいい。セバスチャンがそう言うなら、きっとそうだ。
「では、少しだけ」
案内された部屋で、アリスターが待っていた。
窓際に立っていた。フィオナが入った瞬間に振り返った。
金色の目が、フィオナを——上から下まで、一度だけ見た。
「……服が、違う」
「今日は正式な場でしたので」
「そうか」
アリスターが、フィオナに近づいた。
「試験は」
「通りました。白金級見習いの推薦をいただきました」
「当然だ」
フィオナは少しだけ目を細めた。
「当然、とは随分な言い方ですね」
「事実だ」
アリスターが、フィオナの右手を取った。
傷だらけの、タコだらけの、装填師の手。
「この手が——今日、公式の記録に残った」
フィオナは答えなかった。
「七年分が、ようやく」
アリスターの声は、低くて、静かだった。
フィオナは視線を自分の手に落とした。
七年分。
そう言われると——胸の奥で、何かが動いた。
「……はい」
声が、また少しだけかすれた。
アリスターが、フィオナの手を——両手で、包んだ。
温かかった。
フィオナは顔を上げなかった。
でも、握られた手を——少しだけ、握り返した。
公爵邸の窓から、白い鳥が一羽、空を横切っていった。




