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第十話「偽りの装填師」

 二日後の朝、クラリスは念入りに着飾った。

 舞踏会用ではないが、上質なドレス。髪は侍女に結わせて、耳には母から借りた真珠のイヤリング。手袋は新調した白い絹。魔導器は——もちろん、フィオナが調整した桃色のデバイスを手首に嵌めていた。

 出発前に居間を通りかかったフィオナは、その姿を一瞥した。

 桃色の魔導器が、クラリスの手首でかすかに輝いている。

(しっかり持っていくのね)

 当然だ。「自分が昨夜の装填師だ」と証明するためには、魔法を使ってみせる必要がある。そのために魔導器は必需品だ。

 フィオナは視線を外した。表情は変えなかった。

「いってらっしゃいませ、クラリス姉様」

「……あなたは今日も屋敷にいなさい」

 クラリスは振り返りもせずに言った。馬車の音が遠ざかっていく。

 フィオナは地下室に戻った。

 金のクリスタルを手に取って、静かに待ち始めた。


 ヴォルフハルト公爵邸の第三応接室は、来客用の中では最も小さな部屋だった。

 窓が一つ。長椅子が二脚。小さなテーブル。装飾は最低限で、余計なものが何もない。

 セバスチャンが意図的に選んだ部屋だ。

 華やかな空間では、人は「見られている自分」を意識する。虚飾が剥がれにくくなる。でも質素で小さな部屋では、人は思ったより早く、本来の姿を晒す。

 クラリス・アルトマンが通されたのは、その部屋だった。


「お越しいただきありがとうございます」

 セバスチャンが丁寧に頭を下げた。

 クラリスは部屋の質素さに一瞬だけ眉を動かしたが、すぐに取り繕った笑顔を作った。

「こちらこそ。お招きいただいて光栄ですわ」

「早速ですが」

 セバスチャンは前置きなく本題に入った。

「先日の舞踏会で閣下の魔導器を調整なさった方を確認するための、簡単な試験をお願いしたいと思います」

「ええ、もちろん」

「試験の内容はシンプルです」

 セバスチャンが、テーブルの上に小さなクリスタルを置いた。無色透明の、親指の爪ほどの原石。

「このクリスタルに魔力を通してください。それだけです」

 クラリスが首を傾けた。

「それだけ? 簡単ね」

「はい。それだけです」

 セバスチャンの声には、何の感情も乗っていなかった。


 クラリスは手袋を外した。

 白い手が、テーブルの上のクリスタルに伸びる。

 脳裏に、盗み読みしたフィオナのノートの内容が蘇る。「血の魔力伝導理論」。「強い感情の魔力を込めるほど、クリスタルとの共鳴が深まる」。「自分の魔力を、迷わず、強く、直接流し込む」。

 クラリスは深く息を吸った。

 できる。私にはできる。フィオナにできて、私にできないわけがない。あの地下室の灰かぶりにできることが——。

 その瞬間だった。

 クラリスの胸の中で、何かが膨らんだ。

 フィオナへの、七年分の感情。あの娘が邪魔だと思った夜の数。自分より上手くやることへの、嫌悪。あの目が気に入らなかった。あの指先が気に入らなかった。自分より劣っているはずなのに、何かを知っているような顔をしていることが——。

 気づかないまま、クラリスは魔力を流した。


 音は、小さかった。

 ぱきり、という、乾いた音。

 それからクラリスの手首の魔導器が——内側から、砕けた。

「っ——!」

 悲鳴が出る前に、衝撃が来た。

 魔導器の破片が手首に食い込む感覚。熱い。手のひらから指先にかけて、痺れと熱が広がる。クラリスは反射的に手を引いた。

 テーブルの上のクリスタルは、無傷だった。

 何も起きていないように、静かにそこにある。

「クラリス様」

 セバスチャンが、立ち上がった。

 その顔に、驚きはなかった。

「お怪我を」

「な——なんで、どうして——」

 クラリスは自分の手を見た。手袋をしていない白い手に、赤い筋が走っている。魔導器の破片で切れたのだ。深くはないが、血が滲んでいる。

 でも、それより。

(なぜ、砕けた?)

 理論通りにやった。強い魔力を、迷わず込めた。それなのに——。

「医師をお呼びします」

「待って」

クラリスは顔を上げた。

「もう一度やらせて。今のは——準備が足りなかっただけで——」

「クラリス様」

 セバスチャンの声が、静かに遮った。

 眼鏡の奥の目が、クラリスを真正面から見ていた。

「このクリスタルは、特定の魔力パターン以外を受け付けない設計になっています」

「…………」

「つまり」

 セバスチャンは一呼吸置いた。

「先日の舞踏会でこの設計を施した方の魔力でなければ、どれだけ強く込めても——同じ結果になります」

 部屋が、静まり返った。

 クラリスの顔から、血の気が引いていった。


 アルトマン家の馬車が屋敷に戻ったのは、昼過ぎだった。

 フィオナは地下室で、その音を聞いた。

 馬車の扉が閉まる音。玄関の扉が開く音。それから——しばらく、何の音もしなかった。

 誰も、何も言わなかった。

 クラリスが居間に向かう足音。ベアトリスが立ち上がる気配。小声で何かを話す声。でも言葉は聞き取れない。

 フィオナは金のクリスタルを指先で転がした。

 計画通りだ。これで、第一段階が終わった。

 しばらくして、階段を降りてくる足音があった。

 ベアトリスだ。

 地下室の扉が開いた。

「フィオナ」

 ベアトリスの声は、いつもより低かった。感情を抑えている声。

「クラリスの魔導器が壊れた。修理しなさい」

 フィオナは顔を上げた。

「……拝見しないことには、なんとも」

「持ってこさせる」

 扉が閉まった。

 フィオナは視線を落とした。

(修理。そうね、修理を頼んでくるのね)

 壊れた魔導器を持ってくる。フィオナに直させる。何事もなかったように。この家はいつもそうだ。都合が悪いことが起きると、全部フィオナに押しつけて、なかったことにする。

 でも今回は——直らない。

 クリスタルが内側から砕けた魔導器は、外殻を交換しない限り修復不可能だ。そして外殻の交換には、専門工房と相当の費用がかかる。

 フィオナにできることは、何もない。

 本当に、何も。


 夕方、クラリスが地下室に来た。

 包帯を巻いた右手を庇いながら、扉を開けて入ってきた。

 フィオナは作業台で壊れた魔導器を調べていた。外殻の亀裂。内部クリスタルの完全破砕。予想通りの状態だ。

「直る?」

 クラリスの声は、いつもより小さかった。

「外殻の交換が必要です。工房に出さないと」

「……費用は?」

「このデバイスのグレードなら、金貨二十枚は下らないと思います」

 クラリスが黙った。

 フィオナは壊れた魔導器を作業台に置いた。

「クラリス姉様」

「……なに」

「手の怪我は、きちんと医師に診ていただいてください。破片が残っていると、後々面倒なことになります」

 クラリスがフィオナを見た。

 その目に、今まで見たことのない何かがあった。怒りでも侮蔑でもない。もっと複雑な——何かを飲み込もうとしている目。

 でも、クラリスは何も言わなかった。

 踵を返して、地下室を出ていった。

 扉が閉まる。

 フィオナは壊れた魔導器を見つめた。

 砕けたクリスタルの破片が、かすかに光を反射している。

(第一段階、完了)

 静かに、そう思った。

 明日——カサンドラが、どう動くかだ。


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