第九話「届かない呼び出し状」
手紙が来たのは、使者の訪問から二日後だった。
ヴォルフハルト公爵家の封蝋が押された、白い封書。宛名は——フィオナ・アルトマン。
フィオナがその存在を知ったのは、届いてから三時間後のことだ。
知らせてくれたのは、屋敷に残っている数少ない使用人の一人、老齢の門番のハンスだった。こっそり地下室の扉を叩いて、「お嬢さん宛に立派な手紙が来てたんだが、奥様が持っていかれた」と、申し訳なさそうに教えてくれた。
「……そうですか」
「すまんね、わしには止められなくて」
「いいえ」
フィオナは穏やかに答えた。
「ありがとう、ハンスさん。教えてくれて」
扉が閉まってから、フィオナは作業台に戻った。
表情は変えなかった。
変える必要がなかったから。
(来ると思っていた)
フィオナは金のクリスタルを指先で転がしながら、静かに考えた。
セバスチャン補佐官は、あの面会の場で答えを出していた。手を見た時の目が、全てを語っていた。だとすれば、フィオナに直接連絡を取ろうとするのは当然の流れだ。
そして継母がそれを握り潰すのも——当然の流れだ。
ベアトリスは賢い女だ。フィオナを「家の備品」として管理し続けてきた女が、その備品に公爵家から直接接触があったと知れば、どう動くかは自明だ。
手紙を隠す。フィオナを閉じ込める。そしてクラリスを代わりに動かす。
(お母さんのいない世界で七年間、あなたたちのことだけは完璧に予測できるようになったわ)
皮肉なことだとフィオナは思う。
虐げ続けた相手のことを、誰より深く理解してしまった。
予想は、翌朝に的中した。
朝食も終わらないうちに、クラリスが着飾って居間に現れた。舞踏会ほどではないが、外出用の上等なドレス。髪も丁寧に結い上げてある。
「どちらへ?」とカサンドラが聞いた。
「ヴォルフハルト公爵邸よ」
クラリスは当然のように答えた。
「補佐官から手紙が来ていたでしょ。昨夜、母様から見せてもらったの。内容は——まあ、私が直接伺った方が早いわ」
フィオナは黙って朝食を続けた。
クラリスの視線が、ちらりとフィオナに向いた。
「フィオナ。あなたは今日、屋敷にいなさい。クラリス姉様のご不在中に何かあってはいけないから、待機しておくように」
ベアトリスが、流れるように言った。
待機。
この屋敷での「待機」が何を意味するか、フィオナは七年間で学んでいる。地下室から出るな、という意味だ。
「……承知しました」
フィオナは頷いた。
クラリスが満足そうに踵を返した。
その背中を見送りながら、フィオナは静かに思った。
(行ってらっしゃい、お姉様。精々、頑張って)
クラリスが出発してから、フィオナは地下室に戻った。
扉を閉める。鍵はない——外からかけられることはあっても、内側からはかけられない設計だ。でも今日は、誰も来ないだろう。全員、クラリスのことで頭がいっぱいだから。
フィオナは作業台に座って、母の書物を開いた。
今日やることは、決まっている。
試験当日に備えた、最終確認だ。
クラリスが公爵邸に乗り込んで、「自分が昨夜の装填師だ」と主張する。セバスチャンはそれを信じないが、あえて試験を設定するだろう。賢い補佐官なら、泳がせることで何かを確認しようとするはずだ。
そして試験の場で——クラリスは「盗んだ理論」を使う。
問題はタイミングだ。
フィオナの仕込んだ罠は、「憎悪の魔力」を検知した瞬間に作動する。試験という場でクラリスが感じる感情は、緊張、見栄、そして——もしうまくいかないと感じた時の焦りと、フィオナへの憎悪。
引き金が引かれるのは、おそらく試験の最中だ。
でも、問題がある。
(試験がいつ行われるか、私には分からない)
フィオナは指先で書物のページを押さえた。
どんなに精密に計算しても、情報がなければ動けない部分がある。試験の日時と場所——それが分からない限り、フィオナは動けない。
(でも、分かる方法は、ある)
フィオナは顔を上げた。
棚の上に、小さな鉢植えがある。地下室の薄明かりでも枯れない、丈夫な草。その根元に、白い羽根が一枚挟まっていた。
昨日の朝、気づいたら置いてあった。
フィオナはその羽根を手に取った。軽くて、完璧に白くて、どこにでもある鳥の羽根のようで——でも、触れた瞬間に指先が温かくなる、そういう羽根。
(お母さん。あなたは本当に、ここまで考えてくれていたの?)
母の書物の「禁断の構築理論」には、本編の理論の他に、欄外に細かい書き込みがある。フィオナが最初の頃は「メモ」だと思っていたそれが、実は別の理論の断片だと気づいたのは三年前だ。
クリスタルを介さない、生物との「共鳴」理論。
白い鳥が原石を運んでくる理由。羽根が温かい理由。全部、母が組み上げた理論の産物だった。
そしてその理論の欄外には、こう書いてあった。
「必要な時に、必要なものが届く。信じて、待ちなさい」
フィオナはしばらく、その羽根を掌に乗せていた。
論理的ではない、と思う部分がある。
でも七年間、白い鳥は必要な時に必ず原石を届けてくれた。だとすれば——。
コツン、と小さな音がした。
地下室の小窓——採光のためだけについている、腕も入らない小さな窓——に、白い鳥が止まっていた。
くちばしに、小さな紙切れを咥えている。
フィオナは窓に近づいた。鳥がくちばしを開く。紙切れが落ちてくる。受け取る。
広げると、几帳面な細かい字で、こう書いてあった。
「四日後、午前十時。公爵邸の第三応接室にいらしてください。——S」
Sは、セバスチャンだろう。
フィオナは紙切れを見つめた。
補佐官は、フィオナが手紙を受け取れなかったことを知っている。だから別のルートで連絡を寄越した。四日後だ。
(先にあの人たちを行かせる、ということね)
セバスチャンの意図が、静かに読めた。
クラリスだけではないかもしれない。この家の人間が動けるだけ動いて、全員が「偽物」だと証明されてから——フィオナを呼ぶ。賢い段取りだ。
フィオナは紙切れを灯りにかざして、燃やした。
灰が、作業台の上に落ちる。
(つまり私は、待てばいい)
自分から動く必要はない。罠はすでに仕込んである。あの人たちが自分で引き金を引く。その後に——フィオナが呼ばれる。
これ以上ない、完璧な順番だ。
その夜遅く、クラリスが帰ってきた。
階上から、弾んだ声が聞こえた。上機嫌だ。うまくいったと思っているのだろう。
「試験を受けることになったわ! 明後日よ!」
カサンドラの歓声。ベアトリスの、満足そうな低い笑い声。
フィオナは地下室で、その声を聞いていた。
明後日。
(明後日、ね)
口元に、静かな微笑みが浮かんだ。
クラリスは明後日に試験を受ける。そしてデバイスが砕ける。カサンドラもきっと続く。全部終わった後——四日後に、フィオナが呼ばれる。
全部、セバスチャンが整えてくれた舞台だ。
フィオナは金のクリスタルを手に取った。
温かい。いつもの、あの温かさ。
あと四日。
七年間待ったのだから、四日など——瞬きほどの時間だ。




