プロローグ「灰の中の声」
地下室には、いつも灰の匂いがした。
石造りの壁。染み込んだ湿気。天井の隅に張りついた蜘蛛の巣は、もう何年も誰に払われることもなく、埃を纏って白く変色している。
唯一の明かりは、フィオナ・アルトマンが自分で設置した魔導灯ひとつ。それも、燃料代を節約するために最低限の光量に絞ってある。薄暗い黄色の光の中で、彼女は今夜も床に胡座をかいていた。
十七歳にして、アルトマン伯爵家の「灰かぶり」。
それが、この家での彼女の立場だ。
「……そこじゃない」
呟きは、誰にも届かない。
フィオナの膝の上には、親指の爪ほどの大きさの原石が乗っていた。薄紫色をした魔導クリスタルの原石。本来なら専門の装填師が工房で削り出すべき代物を、彼女は素手で、指の腹だけで研磨していた。
道具なんて、最初からなかった。
継母のベアトリスが「使用人の娘に贅沢品は要らない」と言った日から、フィオナの手元にあるのは母の遺した古い書物一冊と、ハシバミの木の下で白い鳥が運んでくる原石だけだ。
それだけで十分だった。
なぜなら、フィオナには「声」が聴こえるから。
(もっと右……そう、そこ。あなたの本当の面はそこにある)
クリスタルは喋らない。当然だ。鉱石に言葉などない。
でも、フィオナには判る。指先に伝わる微細な振動。結晶格子の歪みが生み出す、目に見えない「抵抗」のパターン。どこを削れば内部の魔力回路が最適化されるか、触れた瞬間に身体が知っている。
母が「天才」と呼ばれた理由が、今なら分かる。
これは才能ではなく、言語だ。クリスタルと対話するための、生まれながらの言語。
くるり、と原石を回す。
指先が動くたびに、薄紫の石が光を孕んでいく。さっきまでただの石ころだったそれが、今や内側から蛍火のような輝きを漏らし始めていた。
「そう。それがあなたの本当の声よ」
フィオナは微笑んだ。
誰にも見せたことのない笑顔で。
この家で笑顔を見せると碌なことにならない、と学んだのはいつ頃だったか。
父が再婚したのは、フィオナが七歳の時だった。新しい母と、二人の義姉。クラリスとカサンドラ。華やかで、社交的で、貴族の娘らしい娘たち。
そして父は、一年後に病で逝った。
そこからは早かった。
使用人たちは次々と解雇され、フィオナの部屋は地下の物置に変わり、食事は残り物だけになった。十歳になる頃には、フィオナはすでに伯爵家の「備品」だった。
クリスタルの研磨。魔導器の整備。姉たちが壊したデバイスの修理。全部フィオナがやった。装填師を雇う費用を浮かせるために。フィオナの「才能」がある限り、外に頼む必要はないから。
才能だって?
(笑わせないで)
フィオナは指先で石を撫でながら、静かに思う。
これは才能じゃない。母が血と執念で積み上げた理論を、七年かけて独学で読み解いた、ただの努力だ。地下室で、灰にまみれて、指を何度も削って、泣きたい夜を歯を食いしばって乗り越えた、努力の結晶だ。
それを「使えるうちは使い倒してやれ」と思っている家族に、提供し続けてきた。
でも。
もう少し。
あと少しで、全部終わる。
石が、完成した。
親指の爪ほどだった原石は、今や完璧な六角形の結晶へと変貌していた。カットのひとつひとつが、フィオナの設計通り。内部の魔力回路は、市販品の三倍の効率で魔力を循環させるよう最適化されている。
これが、フィオナの最高傑作。
【絶対連環】。
クリスタルの「声」を聴き、その性能を百二十パーセント引き出す最適配置を、瞬時に算出する。それがフィオナの、誰にも渡さない唯一の武器だった。
金色の光が、薄暗い地下室に満ちる。
フィオナは完成した結晶を、そっと掌に乗せて見つめた。
こんな美しいものを作れるのに、自分はここで灰にまみれている。
こんな理論を組めるのに、自分はあの女たちの道具として消費され続けている。
怒りは、ない。
正確には——怒りより深いところに、もっと冷たいものがある。
この美しい理論を、凡庸な人間たちが「使えるから」という理由だけで汚し続けることへの、静かで、根深い、嫌悪感。
「帝都大舞踏会まで、あと三日ね」
フィオナは呟いた。唇の端に、微笑みが浮かぶ。
今度は誰にも見せるための笑みだ。
「ちゃんと仕掛けておいたわよ、お姉様たち。あなたたちが盗んだ私の理論は——」
金色の結晶が、ぱちり、と光を弾いた。
「——私の手の中でしか、正しく動かない」
地下室に、静寂が戻る。
灰の匂いの中で、フィオナ・アルトマンはひとり、完璧な復讐の設計図を胸に抱いて、微笑み続けていた。




