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傘と聖剣  作者: 梅田幻
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現実としての雨とすべてを濁すための雲

霧雨が視界を覆い、空間の境界は焦点を失う。


すべては水の前では虚無になる。


あらゆる概念が無差別に流されていく。

 雨が降っていた。


 とにかく長く打ち付ける水の粒。


 それはこの星が水に包まれていることを忘れさせない。


 雨が降っている。


 それは植物の嘆き。


 太陽を知らぬ蝉の死体。


 雨は止むことを知らない。


 夜を閉ざすのは闇ではなく轟音。


 星の涙をかき消す暗雲の蓋。


 雨は祝福する。


 荒れ狂う海に揺れる船。


 海流を乱しては人の世を混ぜ込む。


 雨は規則のように。


 その音は心臓の鼓動のように。


 


 生きるものが居る。


 ここには水がある。


 雨から隠れるように籠る人々がいる。


 顔を埋めるように傘を差す。


 傘。


 それは小さな世界。


 絶え間なくぶつかっては繋がり、滴り落ちる粒たち。


 湿気を取り込んでは、熱とともに排気する。


 この文明はもうじき死ぬ。


 雨は続いている。



「…………」


 男がホテルのフロントを歩く。それは膝丈まで積もった雪を長靴で進むように鈍い足取りで。


 波紋に感づいた熱帯魚がゆらりゆらりと足元を通る。


 赤と緑の鱗が鈍い光を反射する。


 部屋は籠るような湿気で黴臭さを増すばかり。


「…………」


 出入口まで進み、傘立てから黒い傘を抜き取る。


 自動ドアは開きっぱなしであり、究極のフリーパスと化していた。


 雨が強いことを感じた男は氾濫した河を避けるべく、高台の稜線に沿うように道路を進む。


 街往く人はいない。決して早朝や深夜の話ではない。


 雨音が耳を閉じ込める。


「…………」


 男は重くなった靴に疲れを感じたのか、立ち止まった。


 黒の傘をわずかに上に傾けては道を見つめた。


 閉店しぱなっしのケーキ屋。食品サンプルが入れられた硝子のケース。絶え間なく軌跡を描いては落ちる雨。あのスポンジがすべてを吸い取ることはない。


 男は再び歩き出す。水の嵩が低くなるにつれて、歩幅も本来のものに近づく。


 ただ、呼吸だけが響く。また、それすらも誰にも気が付かれることはない。


 電気が死んでから、男は寒波を乗り越えるべく対策を考え続けていた。


 雪になれば、物流は死んでしまう。除雪機にも限界はある。いつ動かなくなるかもわからない。


 雨が降っている。現実が囁いている。


「…………」


 もはや雨は時間であり、水の証左であり、雨音が描く空間であり、現実を刻む単位にすらなる。


 雨に試されている。死者の腐敗は進み、精神は閉ざされ、文明は淘汰される。


 長い雨を忘れるように大音量で音楽を鳴らす家があった。そう、この通りにある。


 彼らは雨を忘れることはできたのだろうか?いつしか、ピアノの高音も、打ち付けるシンバルも、すべては雨音になろう。聴覚を失えば、正気を取り戻せるかと問われたとしても、夢幻の慰めでしかない。


 雨は世界を肯定する。


 傘はそれを否定する。


 人の世の文明というものは順応の歴史であり、生物も同然である。


 雨に滅される種。


 光淡き昼。曇天は闇を編み込み、夜までの陰を繋ぎとめる。


「…………」


 男は雨水を舐めていると、ビニールローブを纏ったゴミ箱が目についた。


 ゴミ箱に近づいたところで、背の低い老人であることに気が付いた。丸い筒のような重ね着に黒のビニールを羽織っている。


「き、きみ…………若いの、兄さん助けてくれないか。食料…………を探している。このままでは、死んでしまう…………ないか?」


「……………………」

 男はポケットを探る。なけなしのチョコレートを老人の掌にねじりこんで去っていく。


「おお、神よ…………ありがとう。ありがとう」


 老人は濡れたままの手で包装を破いては中身を頬張った。


 雨はまだ降っている。

水分子は120℃程度に開かれた二股の水素分子を有する。


この力場ではわずかに電気陰性度の偏りを孕み、ダイナミクスを創生する。


雄弁な力学は世のエロスを訴えかける。


わたしは雨になりたい。


水が巡る世界を永遠に放浪していたい。

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