第44話 赦される前に裁いた人
「今日は罪と赦しについてお話ししたいと思います」
「はい」
この日は2回目の勉教会、水曜日なので仕事を定時で上がって私は牧師館に来ていた。
前回同様、書斎に案内されている。
「罪と赦しはキリスト教の根幹のテーマでもあります。正直辛い話にもなります。しんどくなったらおっしゃってください」
「分かりました」
私は姿勢をただす。
「まずキリスト教には原罪と言う言葉があります。創世記で出てくるアダムとエバ、彼らが神様の言いつけを破り禁断の実を食べた。そこから人類の罪は始まっている、と言う考えです。だから人間は弱く迷いやすく間違いを犯しやすい、罪を背負ってるがゆえに人間が完璧でいられるはずがない、それがキリスト教の考えの基本です」
「……なるほど」
「そして、この罪、そして赦しについて語る上で避けられないのがイエス様の十字架刑です」
「……」
イエス様は最期、十字架にはりつけにされ亡くなった。
それは知識として知っているけど、何でそうなったのかはいまいち分かってなかった。
「まず史実に基づいた話をすると、前回話したように、イエス様は公然と律法学者、そしてその中でもエリート層であるパリサイ人を痛烈に批判しました。そしてそれが人々の信頼を得ることにも繋がり、当時は相当影響力があったようです。しかしそれを見て、律法学者が面白いわけがありません。なので当時の総督であるポンテオ・ピラトに『イエスは政治犯の反逆者だから処刑してほしい』と進言したんです」
「え……」
「聖書ではポンテオ・ピラトはイエス様は無罪だと判断したと記載がありますが、当時律法学者以外のユダヤ人の中にイエス様に反感を抱く者が多かったそうです。その動きも制御不能になったことから、ポンテオ・ピラトはイエス様の処刑を承認しました」
「……」
そう言う流れか……。
今までの話を聞くと腑に落ちる。
我が身の危険を省みず正論で論破しまくっていたイエス様だから、目をつけられてもおかしくない。
「イエス様はこの事は予知されていて、何度も弟子たちに『私は殺されるが甦る』と説いておられました。でも弟子たちはあまり理解していませんでした」
「最後の晩餐の時はどうだったんですか?」
「あの時も弟子たちは半信半疑でした。神の子がまさか人によって殺されるとは信じられなかったんでしょう。でも翌日イエス様は逮捕され、連れていかれてしまいました」
「そのとき弟子たちは?」
「逃げました」
「え……?」
逃げた?
「厳密に言えば一人一人反応は違います。ペテロは連れていかれるイエス様の後をついていきますが『イエスの弟子か?』と聞かれ三回も『知らない』と答えました。後はパニックを起こすもの、放心状態になるもの、行方知れずになるものもいました。最期、十字架にかかったイエス様の元まで寄り添ったのはヨハネだけだと言われています」
「……」
この間のポンコツ上司を弟子がお世話するほほえましいチームのイメージが、がらがらと崩れていった。
でもこれが人間の本質なのかもしれない。
「……あの、ユダっていましたよね。イエス様を裏切ったっていう。彼は?」
「ユダはイエス様の情報を金で売りましたけど、イエス様の死刑判決が出た後に後悔し金を返そうとするも拒否され、それを神殿に投げ込んで自殺しました」
「え……」
「彼は赦される前に自分を裁いてしまったんです」
「なんでユダはイエス様を裏切ったんでしょう?」
牧師は首を振った。
「それは今も謎とされています。ユダは元々真面目で穏やかな性格だったらしく、会計係も任されていました。実はそのお金を着服していたらしいのですが、イエス様はそれも赦されていたのです。最後の晩餐でイエス様が『この中にわたしを裏切った者がいる』と言われましたが、みんなまさかユダじゃないだろうと思ったそうです」
「……なんだか人間の心理が凝縮されてますね」
「そしてイエス様は十字架にかけられました。十字架刑は当時でもっとも重い刑罰だったそうです。詳しく知りたいですか?」
そう問われ、うなずいた。
「はい」
「十字架刑は、十字架に手のひらと足首のみに釘を打たれそのままはりつけにされます。とどめを差しません。はりつけにされた人は自身の重みで体が下がり、気道が詰まって呼吸困難になります。苦しさから体を持ち上げようとしますが、徐々に力も失われ、最終的に息を引き取るんです。苦しみが長く続く処刑法です」
「……」
久しぶりに自分の眉間にシワが寄るのが分かった。
「……イエス様はそれを受け入れておられたんですか?」
牧師は淡々と続ける。
「聖書にはその記載があります。連行されるときも穏やかであったと。でもところどころで弟子たちに不安や苦しみを打ち明けていたとも書かれています」
「……そうですよね。イエス様にも感情がおありですよね」
「十字架にかかったイエス様は何度も天に向かって『主よ、この者たちをお赦しください。彼らは自分が何をしているか分からないのです』と繰り返されました。自分を処刑しようとしている人たちですら赦してほしいと神様に訴えたんです」
そこで私はまた99匹の羊の話を思い出した。
私はあのとき罪を犯さない99匹の羊は放置か?と牧師に聞いたけど、罪に気づいてないことが最大の罪だと教わったのだ。
ここで全てが繋がっていく。
「でも、イエス様は最期こうも叫びました。『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』訳すると『我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』」
「……」
言葉がでない。
「今もこの言葉の意味は神学者の間で議論になっています。僕も正直、正解にはたどり着けていません」
「……」
今までなんとなくイエス様は、自分の信念に基づき迷いも悩みもなく突き進んでいく人だと思っていた。
でもイエス様の中では不安と葛藤があったのかもしれない。
「イエス様の死後、ヨハネと付き添っていた女性たちによってご遺体は下ろされお墓に納められました。しかしその3日後、イエス様は復活されました。このお祝いがイースターです」
なるほど、そうやってキリスト教の行事がめぐっていくのか。
ようやく腑に落ちる。
「ヨハネ以外の弟子たちは、その後どうしたんですか?」
「聖書によるととても後悔し、自分を責め悲しみの日々を送っていたそうです。でもイエス様は復活し、赦しのお言葉を掛けられました。そしてペンテコステで聖霊が降臨し宣教の命を受け、自殺したユダ以外の全員はその後宣教に身を捧げました。……ただ、ヨハネ以外は、残酷な処刑法で殺されてますが」
「……なんだかこれから、十字架にかかったイエス様像はまともに見ることができなさそうです。行友教会がプロテスタントでよかったかも」
そう言うと榊原牧師は表情を緩めた。
「十字架が人間の罪の象徴ですからね。ざっとですが、2回目の罪と赦しについての勉強会はこれで終わりです」
言って牧師は腰を上げ、書斎の扉を開けた。
「お腹すかれてるでしょう? よかったら夕飯も食べていってください。夕香が白菜と鶏肉が安かったから大量の鍋を作るって言ってたので」
「ありがとうございます。ご馳走になります」
そう言って、ヘビーな内容の2回目の勉強会は終わった。
一緒に鍋を囲もうと言ってくれた牧師は、そんな私の心の負担を考えてくれたのかもしれない。
その心遣いに感謝した。




