嫉妬
谷地仁花
キュ、キュ、靴が地面を擦る音と地面を蹴る音、ボールが空中を行き来する音がひっきりなしに聞こえる。本人たちだけでなく見ている者の耳も目も休ませてくれない動きの全てに、なんだか疲れを感じる。
(いやいや、そんなの烏滸がましい。私は見ているだけだというのに)
きっとなにかをしているという確証が欲しいのだ。青春、努力、そんな社会で素晴らしいものとして受け入れられているものたちが飽和しているようなこの空間で、なにもしていないというのはなんだか罪のような気がする。
断発的に苦しそうな息が漏れて、選手たちのそんな音を聞くたび荒れていない自分の息が無性に苛立たしくなる。なにか苦しい、なにか痛い。ここは、私を痛めつけるなにかに溢れている。
(こんなに頑張っている人を加害者に仕立て上げてまで被害妄想なんて最悪すぎるな)
「仁花ちゃん、手、痛くない?」
突然空間に予想もしていなかった声が飛んできて、高鳴る心臓のままに横を向くと清水さんがいた。
「爪、すっごい手のひらに押し付けてたよ」
清水さんに言われて、自分がようやく手を強く強く握っていたことに気がついた。手をぱっと離すとグーで握った形のまま指4本分の爪痕が残されていた。その痛々しさに、少しだけホッとする。
「なんかやなことあった?」
清水さんが心配そうに覗き込んでくる。その優しさをありがたいと思うと同時に、その華がある美しい顔も、その向こうで響く音も全て私の世界から消してしまいたかった。
昔から、どう背伸びしたって届かない人にまで嫉妬して苦しくなるようなそんな醜い性質を持っていた。クラス中の生徒から好かれる先生、なにをしても完璧なクラスメイト、果てはテレビのスターまで。自分よりも優れた人を見つけるたび、喉の奥が引っ掻かれたかのような痛みが走った。ときには、生きていることを大声で謝りたくもあった。
私はずっと全てにおいて出来が悪かった。私よりも優れた人間なんて街を歩くだけで溢れていた。ただ街行く人を見ながら、自分よりもこの人たち全員何かにおいて優れているんだなと思って、それだけで耐え難い嫉妬に溺れた。
嫉妬ってね、自分が相手より優れているはずだっていう自惚なんだって。
中学一年生のとき、友達がテレビで言ってたーとその事実を教えてくれた。
そんなわけはない。私の感情は醜くて、それでもそれほど醜くはないはずだ。その頃は、才能とか生まれとかそんな運命論ばかりではなく、自分の選んできた人生全てが自分をここまで貶めていることを自覚していた。どこにも届かない深海で、人魚が人間の王子様に憧れたように日の光をきらきらと身に纏って生きる人たちを見つめる目線に、ただ嫉妬なんて言葉のつく感情が付随されているだけだと。自分の方が優れているという自惚なんて、するはずがなかった。
ばんっ!ボールが壁に強く打ち付けられる音がして、我に帰る。清水さんはもう練習風景に目線を戻していて、安堵するはずなのに寂しかった。練習中、みんなは本当に苦しそうでやっとボールが地面に落ちてくれたのにまたすぐに空中に放つ。その懸命さが眩しいほど暑苦しかった。
この人たちに嫉妬しているはずがない。だってこんなに努力している人のそばでただ突っ立っていることしか今していないのに。たった一つの仕事であるマネージャー業さえミスばかりなのに。
でも、だったらこのどす黒い感情はなんなんだ。
「…清水さんって」
自分で話しかけといて聞こえなければいいのにと思った。それなのに清水さんは振り向いた。うん?と小首をかしげる。なんでこんなに綺麗なんだろう。なんでこんなに綺麗な人と一緒にいないといけないんだろう。
「嫉妬ってなんだと思いますか?」
声が震えた。自分の醜い塊を見せているみたいで心臓が壊れそうだった。こんなの、嫉妬の感情を抱えていると告白するのと一緒だ。
「うーん」
清水さんが小さく笑って困った表情をする。綺麗。感嘆の感情に嘘偽りはないはずで、私はこの人より醜いことをずっと前から知っていると天にでも訴えたい気持ちになった。
「どうしようも勝てない相手を前に、自分が生きていること自体を謝りたくなるような強い劣等感、自分への嫌悪感」
清水さんの目は、もう練習を捉えてはいなかった。もうなにも見ていないかに見えた。
今、教室で私のバッグに入れられた本が少しだけ動いた気がした。演技も上手く、性格も良く頭もいいと評判の子役の子が、本に線を引いたり折り曲げてしまったりと本を丁寧に使っていない人が苦手だと言っていた。あれから本を扱うときはとても慎重になった。折り目ひとつない本、あの子の否定する人生を送るのが怖いと脅迫のように思った瞬間。
彼女の発言一つで、少しでも折れたり歪んだりした本が全てこちらに恨みを持って迫ってきているかに思えた本棚も。
「…私は最近、こんな感情も嫉妬に含まれると思ってる」
この人も、どうしても他者と比べてしまう感情に苦しんだことがあったんだろうか。美しさだけで人生を渡り歩けそうなほどなのに。
この人も、とてもこえられそうにない壁に出会ったのだろうか。この人も、とても追いつけない人に出会ったのだろうか。この人も、それを諦めたことがあったのだろうか。
清水さんは、バレーの音一切を遮断しているように見えた。
(ああ、この人も密度の高いこの空間から逃げたい瞬間があるんだ)
バレーの音は私に迫ってきていて、立ち止まっている人間を排除しようとしているかのようだった。甘んじて受け入れてしまいたい。清水さんの言った通り私も勝てないとずっと知っていたのだと、この空間に私は不要だなんて知っていたと。
「清水さん、マネージャーの仕事手伝います」
それでも今ここで逃げたら、もう2度と立ち上がれない気がした。もう2度と自分が生きていることを許せない気がした。
遠くに逃げていた清水さんの意識が、揺れながら戻ってきた。ボールの音も、靴の床と擦れる音も、荒れた息も遮るものはなにもない。
なにもなくても、マネージャーとしてやるべきことをしているときはぎりぎり自分がここにいることを認められるのだ。
そして、ちゃんと今日を乗り切ったらあの本に折り目をつけてやろうと思った。