第二話
「おかえり、光莉。始業式どうだった?」
家に帰ると、カレーの匂いが漂ってきた。夕ご飯の準備をしていたお母さんが尋ねてくる。
「うん、美宙と同じクラスになれたよ。でもまだ入院してるんだけどね」
「そっかぁ、美宙ちゃん早く学校に来られるといいわね」
そうだ。お母さんにも一応、渡会くんのことを聞いてみよう。
本当は美宙に聞きたかったけど、まだ体調がよくない彼女にわざわざ連絡するのも気が引けた。
「ねぇお母さん、あのさ、今日変な男子が転校してきて――」
リビングに置いたお母さんのスマホが震えている。
「あ、ごめん光莉! ちょっと鍋見ててくれる?」
「うん」
お母さんはあわててスマホを手に取り、「もしもーし」と誰かと通話している。
「そう、そうなのよ。うちの光莉も今日が始業式で! たぁちゃんも? え、これから塾なの? へぇ、すごいわね。もう進路決まってるの!? うちなんて全然よー、遊んでばかりで」
お母さんの交友関係はなんとなく把握しているけれど『たぁちゃん』って誰なんだろう。新しくできた友達だろうか。
黙々とカレーのあくをすくっていると、程なくしてお母さんが戻ってきた。
「ごめんね光莉、ありがと」
「別にいいよ。でも、たぁちゃんって……」
「あ、光莉にはまだ言ってなかったわね! ほら、小学校が一緒だったたぁちゃんよ。でも、低学年の時に転校しちゃったから光莉は覚えてないわよね。実は昔お母さんがお世話になってて、なんと今日久しぶりに再会したのよ! たぁちゃんたち、こっちに戻ってきてたんだって。こんな偶然あるのねぇ」
「……そうだったんだ」
お母さんの話を聞いても、いまいちピンとこない。
ん? たぁちゃん……?
確か渡会くんの下の名前って、大智だったような。
もしかしてたぁちゃんって、渡会くんのこと……?
「ねぇ、たぁちゃんって――」
「たぁちゃん、もう進路決まってて塾にも通ってるんだって。光莉も塾に通った方がいいのかしら。ねぇ、光莉ってちゃんとどこの大学行きたいか考えてるの?」
「ええっと、これから将来に備えて勉強しなきゃいけないからごめん!」
話が長くなりそうな予感がして、私はその場から逃げ出した。
「全く……」と、お母さんのため息が聞こえてくる。
私は自室へ続く階段をのぼりながら、安堵していた。
思い込みが激しくて怖いと思ってたけど、どうやら本当に同級生だったらしい。小学校低学年の時なんて、どうりで覚えていないわけだ。
覚えていなかったのは申し訳なかったけど。そんな昔のことを覚えていなくて非難されるのもちょっと納得がいかない。
でも、謎は一応解けたし、すっきりしたんだ。
私は自分にそう言い聞かせた。心のもやもやは、いつまで経っても晴れなかった。
雲一つない透きとおった空に、淡いピンク色の花びらがひらひらと落ちてくる。花びらの一つが、凪くんの髪の毛の上に着地した。
彼は気づかずに今日も穏やかな笑みをたたえ、友達と登校している。
昨日言われた言葉を思い出し、にやけそうになるのを抑えていると、
「はよーっす、ひっかりー!」
ドーン、と肩を押され思わずよろける。
「い、いった……!」
ふり返ると、してやったりといった感じの笑顔で渡会くんがいた。
「朝からぼーっとしてんなよ!」
そう言う渡会くんは、朝から元気すぎる。
それにしても、低学年の時のクラスメイトだったとは。それなのにあんなに親しげにするなんて、彼の感覚はちょっとわからない。
彼の顔をながめていると、彼は眉をひそめた。
「そういや、昨日大丈夫だったか?」
「何が?」
「何が、じゃねーよアホ。もう体調はいいのかって聞いてんだよ」
「うん、大丈夫」
本当は体調が悪かったわけではないのだけれど、話がややこしくなりそうなので黙っておく。
「つーか、変な嘘つくなよな、コンタクトがどうとか。俺に気を使ったんだろうけど、隠された方が困るから」
私の隣を当然のように歩いている彼はムッとしている。
「ごめん……」
「ま、わかればいいけど。嘘つかれたら光莉が困っても何もできないだろ」
さらっと言われた言葉に、私はドキリとする。
彼はすっかり機嫌を戻し、「今日って早く帰れんのかな」と話しかけてきた。
「午前中で終わると思うけど……転入してきたばかりなのに、もう帰ること考えてるの?」
「あぁ。今日こそ光莉と帰れるかなと思ってさ」
「えっ?」
「何その反応。嫌なの?」
渡会くんは、ちょっと不機嫌そうに口をとがらせる。
彼のことは嫌いではないけれど、一緒に帰るような仲になりたいかというと話は別だ。本当に知り合いだったとわかって少し警戒心は薄くなったものの、私が好きなのは凪くんだ。
「嫌っていうか……渡会くん、転入してきたばかりなのに私ばかりと話してていいの? もっと友達作った方が……」
「あぁ、俺は人気者だから焦らなくてもそのうちできるだろ。あのクラスもみんないい奴そうだしな」
すごい自信だ。でも、昨日の様子だと、渡会くんも初日から先生やクラスメイトにいじられていたし、あっさりなじめるのかもしれない。
「つーか何、渡会くんって!? その呼び方やめろよ」
「えーっと、じゃあ、……たぁちゃん?」
思い切って呼んだのに、渡会くんはきょとんとしてから、「なんでだよ」と声をあげて笑った。
「普通に大智でいいよ。その呼び方もある意味新鮮だけど」
「そう? でも……」
さすがによく知らない男子をいきなり呼び捨てにするのは抵抗がある。
私が渋っていると、彼も押し黙ってしまう。いつも喋り続けている彼が急に黙るのはちょっと怖い。もしかして怒ってるんだろうか?
「そういうことならわかった。俺も配慮が足りなくて悪かったな」
「え?」
さすがに距離感が近すぎるってわかってくれたんだろうか。私が期待していると、
「みんなの前で名前呼ぶの恥ずかしいんだろ。呼び捨てで呼び合ってたらからかわれたりもするもんなー。しょうがない。いいよ、渡会くんで。ただ、二人きりの時は大智って呼べよな」
……だめだ。全然わかってない。
「光莉は恥ずかしがり屋で可愛いなー。このこのっ」
やたら古くさい動作で私の腕を肘でつついてくる。
「じゃ、放課後期待してるから。光莉が『大智♡』って呼んでくれるの」
「ん、放課後?」
「放課後、一緒に帰るだろ。今日は逃げるんじゃねーぞ」
彼はビシッと私に人さし指を突きつけ、得意げな顔をしていた。
この人、なんでこんなに私にこだわるんだろう? もしかして、転入してきたばかりで本当は不安なんだろうか。
こんなにうるさいのに、案外繊細なのかもしれない。
「はいはい。わかったよ」
とはいえ、本人も言っていたように彼はすぐにクラスになじめるだろう。
それまでの短い間だけ、私も適当に付き合ってあげよう。
「渡会くんも大変なんだね」
「はぁ? 何その優しい笑顔。なんか腹立つんだけど……」
渡会くんは釈然としない表情だったが、「おーす、転入生!」と親しげに声をかけられて笑顔であいさつを返していた。
……やっぱり、そんなに不安になることないと思うんだけどな。
そのままクラスメイトと仲良く話をしながら下駄箱に入っていく彼を見ながら、私は不思議だった。
渡会くんが転入してきて一週間が経った昼休み。
私が一人でお弁当箱を広げようとすると、視線を感じた。顔を上げると、渡会くんがこちらを見ている。
「……何、お前一人で食べんの? さみしい奴だな」
ばかにしたような笑みを張りつける彼に、私はムッとした。
「おまえ、ガチで友達いないのな」
渡会くんはそう言って笑っているけど、私に美宙以外の友達ができないのは彼にも原因がある。
彼は休み時間のたびに私に話しかけてきて、放課後まで一緒に帰ろうとしてくる。これでは、友達なんて作れそうもない。
それなのに――。
「しょうがねぇから、俺が一緒に食ってやるよ。これで光莉もさみしくないな」
にやにやしながら、勝手に私の前の机を移動させくっつけている。
「いいよ、一人で食べるし」
「そんなこと言うなよー。ほんとはさみしいくせに」
「一人で食べるって言ってるじゃん」
私の話を聞かずに、彼は向かいに腰をおろす。
「渡会ー、また目黒にフラれてんじゃん」
「お前、いい加減諦めろよー」
「はっ!? ちっげえし、誰がこんな奴……!」
「俺らと食う約束してたのに、素直になれって」
「なぁ。わかりやすくてある意味面白いけど」
「話聞けよ!?」
クラスの男子にからかわれ、言い返す彼を見て私はため息をつきたくなる。
……渡会くんはそれはもう、思いっきりクラスになじんでいた。本当はもっと前から当たり前にクラスにいたかのように。
こんなになじんでいるくせに、いまだに私にからみ続けている。
そのしつこさから、クラスメイトは渡会くんが私を好きだと本気で思っているようだった。
一体いつになったら私は解放されるんだろう。
このまま渡会くんに心配して付き合っていたら、私の方が友達できなかったなんてことになりそうだ。
私はそっと立ち上がる。渡会くんが驚いたように目を見はった。
「おい、光莉? どこ行くんだよ?」
「さっき忘れ物したから取ってくる」
「え、弁当箱持って? って、おい……」
教室を出ていく私の背中には、「ガチでフラれてんじゃん」「渡会しつこすぎなんだよ」とげらげら笑う男子の下品な声が響いていた。
勢いで教室を出てきたものの、私は廊下で立ち尽くしていた。
……どうしよう。誰も一緒に食べる人がいない。
一年の時に仲良かった子たちは、みんな新しい友達ができているようだ。教室で仲良くお弁当を食べているところに割って入るのはさすがに申し訳ない。
お弁当箱を持ったまま廊下をさまよい、いつの間にか外に出ていた。
四月だけど今日はちょっと肌寒く、私は身震いする。
でも、さすがに外で食べていている人はいないだろうと中庭のベンチに向かうと、そこには先客がいた。
手に持った文庫本を読む表情は真剣で、長い睫毛が影を落としていた。
その姿に、どきっと心拍数が上がる。
ただ本を読んでいるだけなのに、綺麗だな、と思う。
凪くんは他の男の子とは違って品があって、何をしても様になるのだ。
私がその場を動けずにいると、
「……目黒さん?」
凪くんの視線が文庫本から私に移っていた。
「目黒さん、ここでお昼食べるの?」
「あ、う、うん、でも邪魔だよね、私、違うベンチに……」
凪くんを前にするとうまくしゃべれなくなる。顔が赤くなってないか気になって落ち着かない。
「待って。他のベンチは昨日の雨で濡れてるから、よかったらここ座りなよ」
凪くんは微笑んで指さす。そこは……凪くんの隣!?
「で、でも、読書の邪魔じゃない?」
「全然。あ、そうだ。そろそろ僕もお昼食べようと思ってたんだよね。よかったら一緒に食べない?」
「――っ!?」
叫びだしそうになって、どうにかこらえる。
「う、うん……」
凪くんがちょっとずれてくれて、おずおずとその隣に座る。さっきまで凪くんが座っていたからか、あたたかかった。
凪くんは丁寧な所作でお弁当箱を開きながら言う。
「もう新しいクラスには慣れた?」
「ううん、全然……まだ友達いなくて、ちょっとやばいかも」
苦笑しながら答えると、凪くんは不思議そうに、
「渡会は? 友達じゃないの?」
「えっと、どうなんだろ……友達というか、学級委員仲間? みたいな?」
凪くんの前で渡会くんを悪く言うのも気が引ける。曖昧に濁すと、凪くんは苦笑した。
「あー……渡会、かわいそうに。脈なしだな」
凪くんまでそう思っているのか。
実は転入したばかりで不安で、小学校低学年の時ちょっと一緒だった私にすがっているだけとはわからないんだろう。
「でも、僕、うれしいかも」
「えっ」
うれしいって、私が渡会くんをなんとも思ってないことが!? そ、それって……。
凪くんの意味深な言葉にどきっとすると、
「目黒さん、学級委員になってくれたから。楽しいクラスになりそうで」
その希望は一瞬で打ち砕かれる。
そりゃそうだ。凪くんが私を好きなんてあり得ない。
「でも、目黒さんって渡会のこと苦手っぽいのに、なんで学級委員引き受けてくれたの?」
凪くんが純粋に不思議そうに私に視線を向けた。思わずからあげをつかんでいた箸が止まる。
「それは、その……」
ごまかしてしまおうかと思った。でも、凪くんと一緒にごはんが食べられるなんて……ううん、凪くんとちゃんと話せるのはめったにない。もしかしたらこれで最後になる可能性だってあるのだ。
「それは?」
「倉田くんが……言ってくれたから」
もにょもにょと小さな声で言う。
凪くんが目をしばたたかせた。
「学級委員やってみるのも、悪くないかなって」
早口でごまかすように言うと、凪くんは穏やかに微笑んだ。
「そうだったんだ。なんだか照れるけど、僕もうれしいよ」
至近距離の爽やかな笑顔に、くらくらしてしまいそう。
凪くんのこの笑顔だけで一生生きていける気がする……。
「あ、ごめんね。食べるの邪魔しちゃったね」
私の手つかずのお弁当を見て、凪くんは申し訳なさそうに眉を下げた。
「ううん、気にしないで!」
どうせ凪くんが隣にいたら緊張して箸なんて進まないんだから。とはいえ、さすがに食べないのはまずい。私がお弁当を口に運んでいると、
「ねぇ、目黒さんのお弁当って手作りだよね?」
凪くんが私のお弁当をじっと見ていて、息がとまりそうになる。
「う、うん、お母さんが作ってくれて……」
「いいお母さんだね。僕なんて作ってくれないから、自分で作ってるよ」
「え……、偉いね」
「今日は寝坊してコンビニのおにぎりだけどね。目黒さんがうらやましいよ」
彼はそう言ってくれたけれど、私は何だか恥ずかしくなった。私はお弁当を自分で作るなんて一度も考えたことはなかったのに。
「あの、これ、よかったら食べる? 倉田くん、からあげ好き?」
「いいの? でも、僕、目黒さんにあげられるの何もないよ」
「いいよ。倉田くんいつもお弁当作り頑張ってるから……」
口にしながら、頬がカッと熱くなってくる。私、変なこと言ってない!?
「目黒さん……」
凪くんは驚いたように私を見ていた。やっぱりおかしかったかな!?
なんだか泣きそうな気持ちになっていると、
「ありがとう。じゃあ、もらっていいかな?」
凪くんがほほえんで、私のからあげをひょいっとつまんだ。
「うん……おいしい、目黒さん、僕がわびしい食事してるから気を使ってくれたんでしょ?」
違う。私はただ、自分が恥ずかしかっただけだ。
でも、何も言えない。そんなことを言ったら、凪くんに嫌われてしまいそうで。
「目黒さんって本当にやさしいよね」
凪くんが目を細める。その時、ひときわ強い風が吹いて細い髪がふわりとなびく。
……やっぱり、凪くんは綺麗だ。
お弁当の味なんて何も感じなかった。ただ、このやさしい時間が、永遠に続けばいいのにと願った。