第一話
電車がホームにとまりドアが開くと、あたたかい空気がふわりと入り込んでくる。春の穏やかな陽光があたためた空気を思い切り吸い込んだ。
……今日も、会えた。
鞄を持つ手に思わず力が入る。
私より一足先に電車を降りた男子生徒の姿を見失わないように、そっと視線で追った。
少し離れた距離でもわかる、すらっと伸びた長身。ふんわりとワックスがつけられた髪。隣を歩く友人に向ける晴れやかな笑顔。
倉田凪くんの周りだけ、四月のきらめいた空気にも負けないくらいきらきらしていた。
一目惚れだった。
凪くんは誰よりも落ち着いていて、ずっと年上のお兄さんのようだった。けれど、本当は誰よりも優しいことを私は知っている。泣いていた私にそっとハンカチを差し出してくれた彼。それから、私は恋に落ちたんだ。
私は彼を好きになってから、その気持ちを日記につづっている。自分でも乙女だなと思親友に好きな人ができたと話したら日記をプレゼントされたのだ。
最初は恥ずかしかったけど、だんだんと楽しくなってきて今日まで続いている。
凪くんは容姿端麗で、誰に対しても優しかった。そんな男子を女子が放っておくわけがない。私は見ているだけで何もできずにいた。
クラスの違う凪くんは、私には遠い存在だったから。
今年こそは凪くんと同じクラスになれますように――。
ふと、私の目にとまったのはいま上映されている映画のポスターだった。
制服姿の男女が見つめ合っている。その男の子が凪くんにどことなく似ていたのだ。
――わたしの初恋は一生キミだけ
ポスターに書かれたよくありがちなキャッチコピー。
その言葉がなぜか目に焼きついて離れない。
初恋の人を一生愛し続けるなんてできるんだろうか。
私の初恋は凪くんだ。だけどそれは流れる雲のようにあやふやで、この気持ちが一生続くようには思えなかった。
それでも、今が幸せだからいい。そう思っているのに、どうしてこんなに心が落ち着かないのだろう。
きっと今朝見た夢のせいだ。
時々、夢を見る。誰かに恋をしていた夢。でも、起きるとその夢の内容はほとんど忘れている。ただ、心に穴が空いたような切ない気持ちに襲われるのだ。
考えていると、いつの間にか凪くんは私の視界から消えていた。私は慌てて走り出す。凪くんのことがなくても、今日は始業式だ。初日から遅刻するわけにはいかなかった。
始業式が終わってホームルームを待つ教室は、いつも以上にさわがしい。
去年同じクラスだった人たちと固まって話していたり、緊張気味に「去年何組だった?」と話しかけている人がいたり。
(美宙、早く退院しないかな)
私は自分の席でそっと息をひそめていた。
椎名美宙は、小学校からの友人だ。とはいえ仲良くなったのは卒業式の直前で、中学校も別々だった。連絡を取りあっていたものの、ちゃんと再会したのは高校に入ってから。二年生になってようやく同じクラスになれたと思ったら、インフルエンザをこじらせてしまった美宙は欠席している。
私の席は窓際から二列目の一番後ろの席だった。
「倉田くん、同じクラスだね」
「今年も同じなんてうれしいな。よろしくね」
不意にそんな声が聞こえ、心拍数が増す。凪くんが女子と二人で楽しそうに話している。
凪くんと同じクラスなんて夢みたいだ。でも、凪くんと話せるなんていいな。話しかける勇気もないくせに、嫉妬だけは一人前だった。
凪くんの笑顔に複雑な気持ちになっていると、
「それじゃ、席つけー。ホームルームはじめるぞ」
担任の先生が教室に入ってくる。
みんなが席に着いたところで、先生は入り口のドアに目をやった。
「その前に、このクラスに新しい仲間が増えるぞー。おーい、入ってこい」
ガラリとドアが開き、みんなの視線が入ってきた男の子に集まっていく。
平均より少し高い身長に、焼けた肌と輝いた瞳が印象的な活発そうな男子だ。彼は教壇に立ち、堂々とした声で話す。
「こんちは。春から転校してきた渡会大智っす。昔はこの辺りに住んでて――え」
彼のはっきりした通る声が、とつぜんぴたっと止まる。
どうしたんだろう? と不思議に思っていると、彼はなぜか教室の窓際の後方――というか私を見て目を見開いていた。
「光莉!? お前、目黒光莉だよな!?」
そのまま教壇からこちらに走り寄ってきそうなほど、彼の表情ははずんでいた。
「おぉ、目黒、渡会と知り合いだったのか」
「はい! 幼稚園からずっと一緒で! や、こんな偶然あるんすね。まさか同じクラスだったなんて」
私に向けられた質問も彼は勝手に答えている。
……って、ちょっと待って。
はしゃいでいる彼には悪いけれど、私は渡会くんとは初対面なはずだ。
彼の言い方からすると小学校や中学校も同じなのだろう。でも、渡会大智なんて名前は聞いたことがない気がする。
人違い? でも、彼は私の名前をはっきり呼んでいた。しかも、フルネームで。
誰かと勘違いしているにしても、たまたま同姓同名で私と似たような顔の人物なんているのだろうか?
「じゃあ、渡会は窓際の空いているいちばん後ろの席に座ってくれ」
「はーい。って、光莉と隣じゃん。ラッキー」
私がとまどっているうちに、彼の自己紹介は終わっていたらしい。軽快な足音が近づいてきて、私の目の前で止まる。
「隣なんてついてるな。これからよろしく、光莉」
「う、うん……」
人なつっこい笑顔で挨拶してくる彼に、「誰?」なんて聞けなかった。
でも、ホームルームが終わればいくらでも時間はあるから大丈夫だろう。
「じゃ、全員そろったことだし順番に自己紹介してけー」
先生の声に、出席番号一番の男子が立ちあがる。
「青山陸です。去年は二組で、部活は野球部っす。よろしくお願いしま――え、もっと話せ? えー、彼女募集してます! 立候補者はぜひ俺のところに……ちょっと、もういいって先生ひどくないすか!?」
クラスから笑い声が起こる。隣の渡会くんも楽しそうに笑っていた。
って、渡会くんに気を取られている場合じゃない。頭の中で必死に自己紹介を考える。
そして、無事に自己紹介が終わった私が席に着くと、渡会くんがニヤニヤしながら耳打ちしてきた。
「お前、ちょっと緊張してただろ」
私はなんて返せばいいのかとまどっているうちに、彼は前に向き直っていた。
その横顔は思いのほか整っていて、男らしい顔つきとは対照的に長い睫毛が影を作っている。思わずじっと見ていると、彼が突然こちらを向いた。
「なになに? もしかして見とれてる?」
彼の言葉に反射的に顔がカッと熱くなった。
「え、まじ? 赤くなっちゃって……数年ぶりに再会する幼なじみがかっこよくなってたからって、そんなに見つめるなよぉ」
照れんじゃーん、と笑う言葉は冗談っぽく、とても照れているようには見えない。
「こらこら、まだ自己紹介は終わってないぞ。いちゃつくのはあとにしなさい」
「はーい、さーせんしたー」
苦笑しながら注意する先生に、軽い口調で謝る渡会くん。
「だってさ、光莉。俺を見つめるのは後にしてくれよな」
渡会くんが教室中に聞こえる声でおどけて言う。教室が軽い笑いに包まれた。
「そ、そんなつもりじゃ……」
私は何だか恥ずかしくなって下を向いた。
なんなの、この人。いくら何でも馴れ馴れしすぎない?
ホームルームが終わったら抗議してやる、と私が心に誓っていると。
「じゃ、自己紹介も終わったし、次は学級委員を決めたいんだが……」
先生の言葉でクラスにちょっと緊張が走る。自分はやりたくないから関係ない、と思っているのだろう。
先生もその空気を察したのか、
「あー、まだこのクラスになったばかりで慣れてないだろうし、とりあえず説明だけしておくな。また改めて聞くからもしやりたい人がいたら――」
「はーい! 俺、やりたいっす!」
元気よく手を挙げているのは、隣の席の渡会くんだ。
「渡会か。やってくれるのはありがたいが……転入してきたばかりで大丈夫か?」
「はいはい! 大丈夫です!」
先生の心配をよそに、明るく答える彼。彼は満面の笑みでこちらを向き、
「だって、俺には光莉がついてますから」
「はっ……?」
今この人、なんて言った……?
「光莉は俺と違ってしっかりしてるし、この学校のこともわかってるから任せられると思います。なっ、光莉? やってくれるよな?」
「え、は? 待ってよ、なんで私が……」
「そうだな。目黒はいつも真面目に授業聞いてくれてるし、うるさい渡会だけだと心配だから引き受けてくれるとありがたいが……」
「ちょっと、先生! 今俺のことうるさいって言った? 転校初日で緊張してるかわいそうな俺に冷たくない?」
「どの口が言ってるんだ……緊張してる奴が転入初日で学級委員に立候補するわけないだろ」
あきれている先生に、教室からくすくす笑いが漏れる。
「他に学級委員やりたい奴、いるかー?」
先生が問いかけるが、クラスの誰も手を挙げない。
それどころか、
「いいんじゃない? 渡会くんで」
「うん、なんか楽しいクラスになりそうだし」
クラスは渡会くんが学級委員になるのに賛成の流れだ。まずい、このままだと――。
「目黒さんなら真面目にやってくれそうだから、クラス崩壊はしなさそうだな」
「おい、誰だ今言った奴。俺一人だとクラスが崩壊するってか?」
「渡会、目黒さんに押しつけないでちゃんとやれよー」
「俺だってちゃんとやるわ!」
「……あの、私――」
なんとかして断らないと、このままでは私が学級委員をやることになってしまいそうだ。
私が思いきって口を開こうとした、その時。
「ちょっといいですか?」
静かだけど不思議と通る声がした。声がした方を見ると、ちょうど教室の真ん中の席に座っている凪くんが挙手している。
「おぉ……倉田か? どうした?」
「僕も渡会くんがやるのには賛成ですが……目黒さんの意見もちゃんと聞いた方がいいんじゃないでしょうか。この流れだと嫌でも断れないと思いますから」
凪くんの真剣な横顔に、胸が高鳴っていく。
もしかして、私が困っているのに気づいて助けてくれた……?
「そうだな。じゃあ、明日改めて学級委員を決めるから、目黒はそれまでに考えておいてくれ。それじゃ、今日はもう連絡事項もないし解散ー」
雑な感じにホームルームはしめられ、教室からガタガタを椅子が鳴る音がする。
凪くんは帰る支度が終わっているのか、鞄を持って立ちあがっている。私は急いで彼のところに向かった。
「あ、あのっ、な……倉田、くん」
凪くんと呼んでしまいそうになり、あわてて言い換える。凪くんは穏やかな笑みを浮かべてこちらを向いた。
「目黒さん。どうしたの?」
「さっきは、ありがとう。その……助かった」
「あはは、わざわざお礼なんていいのに。あの流れだったら押しつけられて断れなかったら可哀想だなって思ったから」
やっぱり、凪くんは私を助けてくれたんだ。
やさしさに胸がじんとあたたかくなっていると、
「でも、目黒さんなら案外、学級委員向いてそうだからやめるの残念な気もするけどね」
「え? 私が? どうして」
「なんとなく? 僕の勘だけどね」
「勘って、なにそれ」
私が笑うと、凪くんもほほえみ返してくれる。
凪くんの目はまっすぐに私を見ていて、このまま時が止まってしまいそうで――。
「光莉ー、やるよな、学級委員!」
無遠慮な声が割って入り、我に返る。
そうだ。凪くんのことで忘れていたけど、私には大きな問題があったんだ。
「うん、それは構わないけど……」
「ガチ!? さすが光莉! やっぱ俺と一緒にやりたかったんだな!」
渡会くんの目は子どもみたいにきらきらしている。
でも、あくまでも凪くんにすすめられた(?)からだ。決して、この人のためにやるわけじゃない。
「あの、ごめんなさい。渡会くん、何か誤解してるんだと思う」
「誤解って?」
「私達、初対面だよね? それとも昔、会ったことあったりする?」
「はぁ?」と、彼は怪訝な表情になる。それも一瞬のことで、
「あ、もしかして光莉、あのこと怒ってる? 悪かったって。色々あってなかなか連絡できなくてさ。でもそれを言うなら光莉だって――や、いいやそれは。だって光莉、学級委員やってくれるんだろ?」
「う、うん」
「よかったぁ……」
はぁぁ、と、大きな肩を落としてため息をつく彼。
「何が?」
「俺、もしかしたら光莉に嫌われてるのかと思ってたからさ。俺と学級委員やってくれるなんて、やっぱり光莉は変わってなくて安心したよ。とにかく、これからもよろしくな!」
「え? いや、だから!」
全然話を聞いてくれない。このことを凪くんに聞かれたら困る、と思って彼の姿を捜してみたら、彼はちょうど教室を出ていったところだった。
渡会くんのこと、誤解されたかな。それ以前に、そもそも興味ないよね……。
「なぁ光莉? 聞いてんのか?」
「え、うん。じゃあまた明日ね、渡会くん」
せめて、凪くんに学級委員やろうって決めたよって伝えたい。去年は同じクラスだったのに見ているだけだった。だからせめて――。
「ちょ、ちょっと待てよ光莉! そんなにあわてて帰らなくても……」
急に手を握られ、私は硬直した。
「もうちょっと話したりとか、色々あんだろ。大体、俺、光莉と連絡取れなくなったから心配して――」
私の手を握るその大きな手。ごつごつした感触。けれど、どこかあたたかくて――。
「……ご、ごめん! 痛かったか?」
焦った声とともに、ぬくもりが消えた。
「え?」
「わ、悪い、そんなに痛かったと思わなくて……だから泣くなって……」
そう言う渡会くんの方がよっぽど泣きそうな顔をしていた。
「別に泣いてなんて……」
何気なく手を頬にふれ、私は動揺する。私の手は濡れていた。
どうしちゃったんだろう、私。自分でもわけがわからなくなって、うつむくことしかできなかった。
「何? もしかして具合悪い? 保健室行くか?」
「だ、大丈夫! なんでもない」
「なんでもないようには見えねーけど。それともやっぱり痛かったか?」
こちらをのぞきこむ彼の顔つきは真面目だった。私もわからない、なんて言ったら余計に心配させてしまいそうだ。
「ごめん。コンタクトがずれちゃって……」
「コンタクト? 光莉、視力良かったよな」
なぜ彼がそんなことを知っているんだろう。
「なぁ、やっぱり変だぞ。具合悪いなら無理しない方が――」
彼は私が嘘をついていると確信しているようで、ますます心配げにこちらを見ている。
……どうしよう。もう何もかもがわからなかった。
どうして自分が泣いているのかも、どうして彼がこんなに心配しているのかも、どうして――彼といるとこんなに心がざわつくのかも。
逃げ出したい気持ちなのに、彼から離れたくない。
こんな感情、生まれて初めてだった。
「と、とにかく、保健室に――」
「おい渡会ー、なに女子泣かしてんだよ」
男子のの声で現実にひき戻される。気がつくと、涙も乾いていた。
「俺はそんなつもりじゃ――」
「ご、ごめん渡会くん、じゃあね!」
「え、ちょ……!」
渡会くんは何か言いかけていたけれど、私は聞こえないふりをした。これ以上彼といたら、自分がおかしくなりそうだったから。
自分を私の幼なじみだと言う、初対面の男の子。
――彼は一体誰なんだろう。