第十四話
「ねー、渡会。なんでそんな離れてんの? 濡れちゃうし」
「別に大丈夫だよ」
「肩濡れてんじゃんー! もう、えいっ」
「ちょ……くっつくなって」
「もー、照れんなし」
(なんの嫌がらせなの……)
学校を出て駅まで向かう道で、大智くんと桧山さんはなぜかずっと私達の前でイチャついていた。
気まずいので距離を置こうとゆっくり歩くと、「靴紐ほどけたし」と、急に桧山さんがしゃがみ込んだり、逆に追い越そうとすると、「電車間に合わねーじゃん」と、急に歩くスピードを上げたりする。
私達は諦めて、大智くん達の数歩あとを歩いていた。
「映画、楽しみだね」
「うん……」
凪くんも気を使って話しかけてくれるけど、いまいち盛り上がらない。
(大智くん、楽しそうだな……)
狭い傘の中で身を寄せ合い、二人は笑顔で話していた。
ずっと思っていたけど、大智くんには私よりもノリがいい桧山さんの方がお似合いなのかもしれない。
二人、あのまま付き合っちゃうのかな。ううん、もう付き合ってるのかも?
大智くん、私のこと嫌になっちゃったのかも。だって、私はずっとはっきりしない態度を取っていた。あれ、なんで? 私、ずっと大智くんが好きだったのに――。
「きゃっ!」
その時、前から悲鳴が聞こえた。何かにつまずいたのか、桧山さんの体がかたむいていく。
「あ、あぶねっ!」
傘を持っていない方の手で、大智くんが彼女を受けとめる。
「ちゃんと前見て歩けよ。大丈夫か?」
「だって目黒さん達が気になって――」
「俺のせいか。危ない目に合わせてごめんな」
大智くんが、やさしい眼差しで桧山さんを見ている。その間も二人の手はしっかりつながれたままだ。
「――目黒さん、突然立ち止まったら危ないよ」
すぐ近くから聞こえた声で我に返る。大智くんたちが立ち止まったのにつられて立ち止まっていた。
「えっ?」
だけど、私の足は固まったように動かない。見たこともない男の子と同じ傘を差していた。意味がわからない。
「目黒さん? 大丈夫?」
突然その人の顔が近づいてくる。何、怖い――!
「誰? や……やだっ!」
私はその人の胸を、思いっきり突き飛ばした。彼は尻もちをついて、傘が飛んでいく。私のお気に入りの傘。どうして彼が持っているの?
「め、目黒さん? ちょっと、どうしたの?」
なんで私の名前を知ってるんだろう。その人は立ちあがって、こちらに近づいてくる。
「や、やだ」
逃げたいのに、体が動かない。足に力が入らなくて、私はその場にしゃがみこんだ。じわりと目に涙がうかぶ。誰かが近づいてきて、思わず目を閉じて耳をふさぐ。
「嫌……来ないで……!」
「光莉? どうしたんだよ!?」
ふさいだ耳から聞こえたのは大智くんの声だった。
私は目を開ける。謎の男を指さし、声にならない声で「助けて」と訴えた。
「倉田てめー! 光莉に何したんだよ!?」
大智くんがその人の胸ぐらをつかんだ。
「ぼ、僕は何も……」
「嘘つけよ! 何もしてなかったらあんなに光莉がおびえるわけねーだろ!」
「ちょ、ちょっと渡会。一回落ち着きなって」
「はぁ!? 落ち着けるわけねーだろ!」
「さすがに暴力はやばいよ。とにかく倉田の話聞こう」
あの人は倉田というらしい。大智くんと桧山さんは知っているようだった。
「目黒さん、大丈夫? 倉田に何かされた? あたしでよければ話せる?」
桧山さんが私の傘を拾って差しかけてくれた。でも、彼女は雨に打たれてびしゃびしゃだ。いつも綺麗にセットされている髪がぴったりと張りついている。
遠巻きに何人かがこちらをちらちら見ていた。
「それは、あ、の人が……」
つっかえながらなんとか言葉にする。困ったようなあの人と目が合った。気持ち悪いと思っていたあの人は、なぜかこちらを心配するような視線をむけていた。
その綺麗な目を見て、思い出した。
「……あ……あぁ……」
全身から血の気がひいていく。
(私、なんてことを……)
「目黒さん?」
「ご、ごめんなさい……! 倉田くんは、何も悪くないから!」
それだけをどうにか吐き出すように言って、私は震える足で走り出した。
「光莉!?」
もう無理だ。これ以上凪くんといたら、私は何をするかわからない。
(映画、見られなかった。ううん、それより、凪くんをあんな目に合わせて……)
凪くん、突き飛ばされて痛くなかったかな。雨にも濡れてしまった。その上、大智くんには胸ぐらをつかまれていた。
最悪だ。映画なんて断ればよかった。私はきっと、彼を傷つけたことも忘れてしまうんだ。
わけもわからないまま、めちゃくちゃに走る。全身には大粒の雨が叩きつけられて、息がうまく吸えない。ポケットの中でスマホが振動しつづけている。
(私、本当に……もう、凪くんを忘れてしまう……)
怖くてたまらなかった。凪くんを忘れたら、自分が自分でなくなってしまいそうで……。
一体どれくらい走ったんだろう。私がようやく足を止めたのは、見慣れたあの神社を見つけたからだ。
この神社になんて願ってしまったから、私は――。
鳥居の前まで走り、鞄から財布を取り出そうとしたところで気がついた。鞄、持ってきてない……。
お賽銭はないから効果はないかもしれない。そもそも、こんなことをして効果があるとは思えない。
それでも、私は鈴を鳴らすと、ぎゅっと目を閉じて手を合わせた。
「お願いします! あのお願い、キャンセルしてください! 私はもう、運命の人なんていりません。一生結婚しなくてもいい。だから、だから……倉田くんの記憶、消さないでください!」
「……どういうこと?」
後ろをふり向く。膝に手をついて肩で息をした大智くんが、とまどったように私を見ていた。
「い、今の、聞いて……」
「あのお願いって、なんだよ。それに、まさかとは思うけど……倉田のこと忘れてんの?」
「た、大智くんには関係ない」
「は? ふざけんなよ」
「やめてよ……もう、私に関わらないで……困るんだよ、いつも、いつも……どうしてそんなに優しくするの? 私、大智くんを忘れちゃったんだよ? 優しくしてもらう資格、ないのに」
「まだそんなこと言ってんの? 言っただろ。光莉は光莉だって」
大智くんはため息をつくと、鞄からとりだしたタオルをばさりと私の頭に乱暴にかけた。
「さすがに風邪引くぞ。話なら後にしようぜ。とりあえず帰ろう、送ってくから」
「いいから、放っておいてよ。桧山さんはどうしたの?」
「あぁ、あれは、ほら、光莉を嫉妬させようとして桧山に協力してもらっただけだから」
大智くんはタオルで私の髪を包みこんだ。そのやさしい手つきに、そのまま彼にすがりついてしまいたくなる。
でも、今彼にすがったら、きっと私は……あれ? なんだっけ?
「つーか、さっき倉田となんかもめてたのって、倉田のこと忘れたから……とか、だったりする?」
「え、倉田? 誰? あ……え?」
さっきもめてた? なんだっけ?
しばらく思考がフリーズした。
「やっぱり、そうなのか」
大智くんが何か確信したように言った。
また思い出す。そうだ。私は凪くんを忘れて、パニックになって、逃げ出してここに来たんだ。
「あ、ちが、違う、わた、私――」
「とにかくちょっと落ち着けよ。大丈夫だから」
まるで子どもをあやすように、大智くんが私の背中をポンポンと撫でる。
「う、うぅっ……」
堰を切ったように涙があふれ出す。彼に見られたくなくて、制服の肩口に顔を埋めた。
「落ち着いたら病院に行こう。不安なら俺もついていくから」
「違うの、そうじゃ、なくて……覚えてる? ここの神社の言い伝え」
「言い伝え? あー……なんだっけ? 確か、縁結びの神社とか? なんか子どもの頃光莉が言ってたような……」
「ここの神社で願うと、運命の恋が手に入る。でも、代償があるの」
「代償?」
「今の恋を無理やりにでも運命の恋にしてしまう。もし新しい人を好きになったら、過去に好きだった人のことは忘れてしまうの。だから、私、倉田くんのことを――」
忘れてしまった。さすがに口にしたくなくて、言葉にならなかった。
「光莉。それって……」
大智くんが息をのむ。
「つまり、光莉はもうほぼほぼ倉田を好きじゃないってことか?」
「えっ?」
今問題なのはそこじゃないような……。
「それは……」
「じゃあ、俺のこと、どう思ってんの?」
「私、もう誰とも付き合う気ないから」
「……何言ってんだよ?」
「だって、さっきの倉田くんの時みたいに、私、好きな人のことを忘れて傷つける。だから、恋愛なんてできないよ」
「確かにあれは倉田もかなりびっくりしてたな。ま、でも、あいついい奴だし、謝れば許してもらえるって。あんまり怒ってなかったぞ? むしろ光莉のこと心配してたし」
「倉田くんは優しいから、さっきのことももしかしたら許してくれるのかもしれない。でも、それって、倉田くんが私のことを好きじゃないからでしょ? 好きじゃないから、忘れられてもそんなに傷つかないんでしょ?」
「そういうもんか? でもさ、別に好きな人でも嫌いな人でも、傷つけたら謝ればいいだけじゃね?」
大智くんはあっさり言う。でも、
「……忘れたら、謝ることだってできないじゃん」
「光莉。やっぱり俺を忘れたこと気にしてんの?」
「え……」
「まぁ、忘れたことは悲しくないって言ったらもちろん嘘になるけど。俺、光莉に忘れられることより、光莉が俺じゃない誰かと付き合う方が正直、嫌だし」
それに、と、真剣な声色で彼は言う。
「好きな人がいるのに恋愛を避けて幸せになることを諦めてる光莉の方が、もっと嫌なんだけど」
彼の言うことはいつも正しい。でも、そんな風に考えられるのは大智くんが強いからだ。
私は大智くんみたいにはなれない。好きな人を傷つけるくらいなら、最初から諦めてしまった方がいい。
「だからさ、そんなに気にすんなよ。それに、今好きな人の記憶は忘れないんだろ? だったら、いいじゃん」
「大智くんには私の気持ちなんてわかんないよ。私と同じ経験してない人に、気にするなとか言われたって何も心に響かない! もういいから放っておいてよ!」
彼の制服の肩口から顔をあげ、私は彼を睨んだ。涙と雨でぐちゃぐちゃのひどい顔。私は彼のようには生きられない。
彼はしばらく何かを考えこむように押し黙った。そして、
「確かに、それはそうだな」
言いすぎたかもしれない。でも、大智くんに嫌われるならそれでいい。
彼がそばにいたら、私はどんどん彼に惹かれてしまう。だからこれでいいんだ。
大智くんは突然鞄を探り、財布を取り出す。何をしているんだろう、と私が困惑していると、彼は賽銭箱の上で何かを投げた。
ひらりと紙が舞う。一万円札の肖像画が見えて、私はぎょっとする。そして、彼は小銭入れを開けるとそれを賽銭箱の上で逆さまにする。じゃらじゃらと小銭が吸いこまれていった。
「……神さま、お願いします! どうか俺に、運命の恋をください!」
彼はガランガランと勢いよく鈴を鳴らすと、ぱんっと両手を合わせた。
「ちょ……はっ!? 何してるの、私の話聞いてた!? 冗談だと思ってる!? ねぇ、バカ! やめてよ!」
「聞いてたよ。ほら、俺らこれで同じだろ?」
大智くんは笑う。
私の話を本気にしていないのかと思ったけど、違った。本気にした上で――大智くんはそれでもいいって心から思ってるんだ。
「ど、どうするの!? もし別の人好きになったら、私のこと忘れちゃうんだよ? 将来結婚して別の人好きになったら――子どものことだって忘れちゃうかもしれないんだよ!?」
「そんなん、別の人を好きにならなきゃいいだけだろ」
「簡単に言うけどさ! そんなの、無理だって」
どうしよう。私のせいで大智くんの人生がめちゃくちゃになってしまった。
今ならわかる。美宙もこんな気持ちだったんだ。もちろん、私が自分の意思でしたことで美宙のせいではないんだけど。
「無理じゃねーよ。実際、俺、光莉以外好きになったことないし」
「で、でも、それは大智くんが子どもだからで……大人になったら変わることだってあるじゃん」
「その時はその人にこのこと説明して受け入れてもらうから大丈夫。俺、そんな心狭い人好きにならねーし。ま、他の人好きになるとかありえねーけど」
問題ないだろ? というように大智くんは笑う。
「えぇぇ……」
あんなに思いつめてた私のほうがおかしいんだろうか。
でも、私が自分の記憶がないとわかってもおそらく以前と同じように接しているような大智くんには、たいした問題じゃないんだろう。
「でもさ、よかったよな光莉」
「何がっ!?」
ぜんぜんよくない。
「もし光莉が病気になって苦しんでたとしても、俺はその苦しみをわかってやれないけど。これなら俺も、光莉と同じ気持ちになれるから」
「――っ」
大智くんはおかしい。
ただ私を安心させるためだけに、こんなことをしたのか。
涙が次々にあふれてきて、しゃくりあげる。泣きつづけたせいで息が苦しい。
「えぇ、なんで泣くんだよ……」
「大智くんはもっと自分を大切にしてよ。私は、自分が辛い思いしてる時に、大智くんにも同じ思いしてほしくないのに」
「そっか。ごめんな、光莉」
「これからは絶対しないで」
「そうだな。光莉が泣くのは、俺も嫌だし」
なんだか泣きそうな顔で笑って、彼は私の頭の上にぽんと手を置いた。
私の頭を遠慮がちになでる。いつも元気な彼とは思えないくらい、壊れ物にふれるようなやさしい手だった。
――ごめんなさい。
私はさっき思い切り突き飛ばした、顔も思い出せない男子を思う。
顔も名前も声も、もう全然思い出せない。でも、彼と隣にいた時、私は確かにドキドキしていた。それは嫌な感じじゃなくて、幸せな緊張だった。
「俺、ずっと光莉のことだけが好きだから。それだけは絶対、約束する。だから光莉、俺のこと好きになれ」
この人は本当に不思議な人だった。
突然現れて、私の幼なじみだって言い張って、強引に私を学級委員にした。なんで引き受けたのかはわからなかったけど、断れなかったのかもしれない。それとも、私は彼にあの時から惹かれていたんだろうか。
普段はうるさいって思ってたけど、いつも私を助けてくれたり、遠足では美宙とケンカした私を心配してくれていた。
桧山さんと付き合っちゃうのかと内心ものすごく不安で、彼をとられたくないって思った。
いつも自信満々で、堂々と距離を詰めてきて。
でも、私が落ち込んでいる時は必ず気づいてくれた。優しくしてくれた。
こんなの――気にならない方がおかしい。
……私は、大智くんが好きだ。
「うん、好き、私、大智くんが好き……」
言いながら、また泣けてくる。
「俺も好きだ、光莉」
彼はそっと私の涙を指でぬぐうと、私の背中に手を回した。
「一生、大切にするから。今度は絶対、俺のこと忘れさせないから」
「うん……!」
私も大智くんのことをぎゅっと抱きしめた。
――呪いなんて関係がなかった。
私は昔、彼のことを忘れてしまったらしい。でも、きっとそれは私が幼かったからだ。
大智くんと離れて、不安に耐えきれなくなったのかもしれない。
でも、今の私は絶対に大丈夫だ。彼以外の人を好きになるのなんてありえない。
この気持ちは永遠に続く。私はそう心から信じていた。