第十二話
それからの私は、いつも通りだった。
凪くんのことを忘れたりもせず、美宙も私があまりに普通だから拍子抜けしていたようだった。
あっという間に放課後になり、凪くんが私の席にやってきた。
「目黒さん、この後って時間あるかな?」
「ううん、ないけど……どうして?」
「ほら、朝の話。今日考えて思いついたんだ。だから、お願いできないかなって」
まさか本当に考えてくれていたとは思わなかった。
凪くんが適当に話を合わせてくれたのかと思っていたのに、突然のことに私は固まる。
「あれ、やっぱり今日は無理かな? 突然だったもんね。無理なら別の日に――」
「ちがうの、まさか本当に頼んでくれると思わなくて……!」
「図々しかったかな?」
「そうじゃなくて、うれしかったから」
「変なの。うれしかったのは僕の方だよ」
「倉田くん……」
思わず凪くんを見つめてしまう。なんてやさしいんだろう、この人は本当に。
「ちょちょちょ……おまえら何意味ありげに見つめ合ってるんだよ!」
感動しているところに、焦った声が割って入る。
「それにお願いってなんだよ!」
大智くんが焦った表情で凪くんに訊ねた。
「この後目黒さんと出かけようかなって」
「はぁぁっ!? それって、デ……」
「うん、デート。目黒さんと」
さらっと答える凪くん。彼女がいるからデートではないけど、大智くんをからかっているんだろう。
そういえば、彼女がいるのに私と出かけるのってどうしてだろう? もしかして、彼女へのプレゼントを選んでほしいとか?
「なっ……!」
なぜか大智くんがまっ赤になっている。
「光莉とデートしても楽しくないぞ。色気ないから物足りないし、別の子にしとけよ!」
「失礼すぎるよ!」
私は怒りながらも、内心でほっとしていた。
今、大智くんにやさしくされるのは困る。とてもとても困る。
「僕はそう思わないけど? それに、頼んできたのは目黒さんの方だから」
悔しそうに言葉につまる大智くん。凪くんは私を見て、
「それじゃ、行こうか、目黒さん」
「うん」
二人でつれ立って教室を出ようとすると、
「ちょっと待て! 俺も行く!」
追いかけてきた大智くんが、必死の形相で言った。
……どうしてこんなことになったんだろう。
「別に光莉が気になるとかじゃないからな。光莉が変な男に引っかからないか心配してるだけで! 勘違いするなよ!」
バスの後部座席に凪くんと大智くんにはさまれて座っていると、左側からずっとごちゃごちゃと言い訳する声が聞こえた。
「デートについてくる大智くんの方が変な男だからね」
「その変な男と付き合ってたの光莉だからな」
「そうだね。何も覚えてないけどね」
「そんな悲しいこと言うなよ! 事実だけど!」
大智くんは反応の薄い凪くんを見やり、
「もしかして倉田知ってたのか? 邪魔してやろうと思ったのに……チッ」
聞こえるように舌打ちまでしている。
「倉田くん、ごめんね。うるさいのがついてきて」
「大丈夫だよ。渡会、よっぽど目黒さんのこと好きなんだね」
「そうなの。大智くんは私が大好きだから」
どうせ違うとかぎゃーぎゃー言うんだろうと、大智くんをちらりと見た。
「……」
大智くんは何かを考え込むように沈黙していた。
「大智くん?」
ちょっとからかいすぎた? と、私が反省していると、
「うん、かなり」
彼は真剣な顔でこちらに向き直った。
かなりって何? と考えて、すぐに理解する。私のことが、かなり好きだと言っているんだ。
「あ、からかってるの? また犬みたいってオチ? そうだよね、色気ないって言ってたもんね」
「嘘に決まってるだろ。俺は、女の子として光莉が好きだ」
「ど、どうしたの、いつもの大智くんじゃないよ!」
「そうだな。俺、このまま倉田と光莉がくっつくの絶対やだから。いつもみたいにやってる場合じゃねーなって」
言葉が出なくて、思わず彼から目をそらす。隣にいる凪くんがなぜか赤面していた。
「私は、いつもの大智くん好きだけどな!」
どうにか元の空気に戻したい。その一心でそう言うと、
「でも、好きになってくれねーじゃん。俺、光莉に好きになって欲しいんだ」
家だったら枕に顔を押しつけて、叫んでいるところだ。今叫んでいないのが奇跡に近い。
違う。別に大智くんを好きなわけじゃなくて、誰だって、こんなことを言われたらドキドキしてしまうわけで。ただそれだけだから。
脳内で訊かれてもいないのに誰かに必死に言い訳をしていると、
「ちょ、渡会。さすがにそれ以上は……僕が恥ずかしくて死んじゃうから」
赤い顔の凪くんがストップをかけ、大智くんは目を見はる。そして、その顔が凪くんに負けないくらい赤くなっていった。
「そ、そうだな。うん、俺も今になって恥ずかしくなってきた……! やっぱさっきのなしで! 聞かなかったことにしてくれ!」
私と凪くんは必死でうなずいた。
その後も、大智くんのことをからかったりはしなかった。というか、こっちが口に出すのも恥ずかしいくらいだった。
それから変な空気になってしまい、目的地に着くまでほとんど誰もしゃべらなかった。
「つ、着いたなー。って、病院? デートってここ?」
私達が降りたバス停は、病院の目の前だった。
「渡会がいるからデートじゃないけどね。目黒さんに会わせたい人がいたんだ。せっかくだから渡会も会っていってやってよ」
「おう。いいけど……誰か入院してんのか? 倉田の親とか?」
「ううん、親じゃなくて――」
二人の話も私の耳にはほとんど入っていない。……というのも。
(まずい。せっかく今日は調子よかったのに、こんなに大智くんがぐいぐい来るなんて反則すぎるよ! また凪くんのこと忘れたら今度こそ……)
ひたすら凪くんを忘れないように彼の一挙手一投足を目に焼きつけていると、
「目黒さん、目黒さん」
凪くんが私に身を寄せてささやいた。
「渡会といるの恥ずかしいのはわかるけど、そんなに僕のことを見られると落ち着かないよ」
「ご、ごめん! で、でもこれはどうしてもやめられないんだ。いくら倉田くんの頼みでも、こればかりは譲れないから」
「なんで!?」
私のすべてがかかっているんだ。
「目黒さんまで変だよ。と、とにかくよろしくね」
全く話を聞いていなかった。とりあえず、うなずいておく。
凪くんが受付を済ませ、静まりかえった廊下を歩き病室の前までたどりついた。
「入るよー」
そんな気安い声とともに、凪くんが病室の扉を開ける。
ベッドの上で読書をしていた女の子が、顔を上げた。長い黒髪がやわらかくゆれる。驚くくらい白い肌に、はっきりとした目鼻立ち。それなのに今にも消えそうな儚い雰囲気の子だった。
(この子、もしかして、凪くんの彼女!?)
もしかして彼女のプレゼントを相談されるかもとは考えていたが、まさか彼女本人と会わせられるとは思ってもみなかった。
「楓ちゃんだよな? 俺、倉田――じゃなくて、凪の友達の渡会大智だ。よろしくな」
私がとまどっている間に、大智くんが親しげな笑顔であいさつをしていた。
「ほら光莉、おまえもなんか言え」
大智くんに肘でつつかれる。
「え? えっと、倉田くんと同じクラスの、目黒光莉です。よ、よろしくお願いします。えっと、倉田くんの彼女さん?」
「え?」
「は?」
凪くんと大智くんの声が重なる。
「……彼女? お姉さん面白いねー! 私、妹です。兄がいつもお世話になってます」
女の子はぺこりと頭を下げる。
「あ、兄? え? 妹!? 倉田くんの!?」
言われてみればどことなく顔立ちが凪くんに似ている気がする。
「おっまえ、なんっにも話聞いてねーのな! さっき倉田が言ってたろ」
大智くんが呆れたように私の頭を軽く叩いた。どうやら病院に着いた時に凪くんが妹に会うと説明していたらしい。
「だって大智くんが変なこと言うからぜんぜん頭に入ってこな……あ」
失言だった、と気がついた時にはもう遅かった。
「そ、そうかよ……」
大智くんがちょっと顔を赤くして、そわそわと視線を泳がせる。
(だから、困るんだって、この空気……!)
「お姉さん達は付き合ってるの?」
無邪気な問いに、時が止まる。
「おう! よくわかったな」
「付き合ってないから!」
「今はまだ、な」
「この先もずっとないよ!」
楓ちゃんが、「夫婦漫才?」とちいさく首をかたむけた。
「光莉さんってお兄ちゃんと写真に写ってた人だよね? てっきり付き合ってるのかと思ってたのに、残念」
「こら、目黒さんに失礼でしょ」
「だってわざわざ遠足で女の子とツーショットとる? お兄ちゃんは光莉さんが好きなのかと思ったよ」
「それは色々事情があったんだよ」
本当は班行動のはずだったのに、私達は成り行きで二人きりでまわることになった。だから凪くんは私に仕方なく写真を撮るように頼んだんだ……。
(そうだよね。別に私と二人で撮りたかったわけじゃないよね)
そのことに意外なほどに傷ついていないことに気がついた。
「つまんないのー。ねぇ、お兄ちゃんって学校で彼女いないの?」
楓ちゃんは私と大智くんに視線を向ける。
「いないんじゃね? よく告白されてるのに断ってるって桧山が言ってたぞ」
「よく知ってるね……」
「まぁな。敵のことはちゃんと知っておかないとな」
大智くんは不敵な笑みをうかべた。それよりも、
(大智くん、桧山さんと仲良いのかな……って、ダメダメ! 今考えるのは本当にまずい!)
必死にその考えを頭から追い出した。楓ちゃんの前で凪くんを忘れてしまったら本当に洒落にならない。
「なんで作らないのー?」
「別に必要ないから。それより、僕のことはいいでしょ。せっかく二人が来てくれたんだから、二人と話してよ」
「じゃあ、お二人のなれそめを聞かせてください!」
楓ちゃんがきらきらの瞳をむけて言う。この状況は非常にまずい……!
「楓ちゃん、本当に付き合ってるわけじゃないから。私、他に好きな人いるから」
「じゃあ、大智さんの片思い?」
「だから今は、な!」
堂々と言える大智くんって本当にすごいと思う。……悪い意味で。
楓ちゃんもそう思ったらしく、
「なんで大智さんは自信満々なの? 普通、好きな子が別の人を好きだったら、もっと自信なくすんじゃないの?」
「まぁな。でも、光莉、そいつのことそんなに好きじゃない感じするから」
「!」
内心を見透かされて、激しく動揺する。
凪くんを好きと言いながら、大智くんにもゆれている。そんな自分が恥ずかしくなって、顔が熱くなる。
「だから俺頑張ってんだー。そういえば、楓ちゃんは好きなやついないの?」
別の話題にうつり、ひっそりと安堵する。
「いないよー。だって、お医者さんがおじいちゃんくらいしかいないもん」
「そっかー。それは辛いよな。あ、そういえば青山が彼女募集してたっけ。紹介する?」
「渡会! 冗談でもそういうことを言うのはやめてくれないか」
焦った凪くんが軽く大智くんをにらんだ。凪くんのそんな表情を見るのは初めてだった。よっぽど楓ちゃんが大切なんだろう。
(私、本当に凪くんのこと何を知らなかったな……)
これから知らないまま忘れていったら、と思うと悲しくなってくる。
「そんなマジになんなよー。楓ちゃんも、こんなシスコンの兄貴いたら彼氏できないだろ」
「楓に彼氏はまだ早い。それに、よりによって青山って。あんまり悪く言いたくないけど……女子なら誰でも良さそうな感じで」
凪くんは意外と辛辣だった。
「誰でもいいわけではないぞ。あいつ、ああ見えてものすげー面食いだから」
「ますます嫌だよ」
凪くんが顔をしかめる。ずっと笑顔の凪くんしか知らなかったけど、こんな顔もするんだ……。
「あ、あの、それじゃ私はダメなんじゃ?」
「楓ちゃんは可愛いよ」
楓ちゃんのまっ白な頬がみるみるまっ赤に染まっていく。
「ちょっと、人の妹を口説くのはやめてくれる?」
凪くんは穏やかな口調だったが、その声はいつもよりも幾分、低かった。
「思ったこと言っただけじゃん」
何が悪いの? と大智くんは言いたげだった。でも、そっか。楓ちゃんには「犬みたいで」なんて言わないんだ。そう考えて、胸がチクッとした。
「渡会はもう少し考えて発言した方がいいと思うよ」
「えー、そうか?」
「うん、それは私もお兄ちゃんの言うとおりだと思う。大智さん、そういうとこ気をつけないと光莉さんに嫌われるよ?」
「それガチ!? 光莉、俺のこと嫌いになった!?」
急に大智くんが顔をのぞきこんで、硬直した。だから顔が近いんだって!
「……大丈夫。元々好きじゃないから」
彼から視線を斜めにそらした。
「もう遅かったか……」とため息をつく楓ちゃんと、「なんで楓の言うことしか聞かないの?」と苦笑いする凪くん。
「つか、今日の光莉一段と冷たくね!? なんなの?」
「……それは渡会が強引に着いてきたからじゃない?」
凪くんがもっともなことを言う。
そこで私は本来の目的を思い出した。大智くんに振り回されていたけど、そもそも私は凪くんの役に立ちたくて今日ここに来たのだ。
「そ、そうだ。楓ちゃん、何かしたいことってない?」
「したいこと?」
「うん。こういう生活が長いと、やりたいことがあっても諦めたりしてるんじゃないかって。だから、もし楓ちゃんがやりたいこととか、欲しいものがあったら私に言ってほしいなって」
急に言われても困るかな、と思ったが、楓ちゃんはすぐに口を開いた。
「したいっていうか、憧れてたことならあったよ」
「へー、どんな?」
「うん、病室に友達が来てくれて、一緒におしゃべりしたり……最初は来てくれてたんだけど、みんな忙しくて来なくなっちゃったから」
控えめに笑いながら、楓ちゃんは言った。
そんなことが夢だなんて……。
彼女に会うまで、私は自分が恵まれていることすら気がつかなかった。日常生活が送れるのは当然だと思っていた。そんな自分が恥ずかしくなってくる。
大智くんと凪くんも、複雑そうな表情をしていた。でも、楓ちゃんは笑った。
「でも、それはもう叶ったんだ」
「叶った、って?」
「今日、光莉さんと大智さんが来てくれたから」
「楓ちゃん……」
私は今日まで、凪くんに妹がいることすら知らなかった。凪くんに言われなかったら来ることもなかった。それなのに、楓ちゃんはこんなにも喜んでくれている。
「もちろん光莉さんたちはお兄ちゃんに頼まれて来ただけって知ってるけどね。今日一日だけでも、友達って思っていいかな?」
「今日だけなんてさみしいこと言うなよ。俺らもう友達だろ! なぁ、光莉?」
大智くんが同意を求めてくる。
一瞬、迷った。
もし私が凪くんを忘れてしまったら、楓ちゃんのことも忘れてしまうんだろうか。もし友達なんて言って、忘れて傷つくくらいなら――。
楓ちゃんと視線がぶつかる。彼女はほほえみをうかべていたが、目は不安そうにゆらいでいた。それを見て私も決意する。
「当たり前でしょ。また私、ここに来るから」
楓ちゃんの手を握り、笑いかける。なんて細い手なんだろう。力を入れたら折れてしまいそうで怖くなった。
「ありがとう……光莉さん、大智さん」
細められた楓ちゃんの目から、涙が流れ落ちる。それはなんだか見とれてしまうほど綺麗だった。