第十一話
そして、放課後。
美宙と学校から電車に乗り、家へ向かう道を歩く。
彼女はずっと硬い表情で唇を引き結んでいた。私も今は明るく話せる元気はなかったので、そのまま黙っていた。
彼女が足を止めたのは、私の家の近所にある小さな神社だった。
彼女は賽銭箱の前にある石段にこしかけた。私もその隣に座る。
「なつかしいね、ここ。そういえば、美宙と仲良くなったのもこの神社がきっかけだったよね」
「うん」
うなずく美宙の声は硬い。
「それで、さっき言ってた美宙のせいってどういうことなの?」
「それは……」
美宙はうつむく。その表情は青ざめていて、鞄にのせた両手は震えていた。
「光莉、昔話した、この神社の言い伝えって覚えてる?」
「あ、えっと、なんだっけ? 縁結びの神社、とか。そうだ。この神社で願ったら運命の人と結ばれるんだよね」
遠い昔の記憶をたぐり寄せる。
小さい頃、美宙にこっそり教えてもらった。この神社には言い伝えがある。強く願うと、必ず運命の人と結ばれると。
けれど、その願いを叶えるには代償があるのだと。でも、具体的なことはわからない。
その代償は、運命の人との縁をつなぐために、今付き合っている人とも強引に別れさせることだと私と美宙は考えた。
そして美宙が、運命の人と結ばれたいけど『別れるのは怖い』って言ったんだ。
それで彼女を励ますために私が先にやることになった。自信満々で『絶対に別れるはずはない』って思っていたから。誰を好きだったのかは思い出せないけど、大智くん以外考えられない。
「小さい頃、ここで『運命の人と結ばれますように!』ってお願いしたんだ。なつかしいな……でも、なんで今その話を?」
「その願いの代償こそが、光莉が今苦しんでいる現象の原因そのものだから」
「え? どういうこと? 代償って……運命の人と結ばれるために今の付き合っている人と別れさせるってことだよね? あ、私たちが別れたのそのせいとか?」
もちろん、私はそんな話信じていないけど。それに、時期も違うような気がする。タイムラグがあるとか……?
もし私の運命の人が他にいて、そのために大智くんと別れさせられた。それが神社の願いの代償だと、美宙は信じているんだろうか。
「美宙が気にすることじゃ……」
「違うの。本当の願いの代償は、今の恋人を引き離すことじゃない」
「だったら、なんなの?」
「それは、無理やり今の恋を運命の恋にしてしまうこと。つまりね、もし誰かを好きになったら、前に好きだった人のことはぜんぶ忘れてしまう。そうしたら、今の恋が初恋で運命の恋になるから」
「――え」
頭が追いつかない。
違う。本当は理解してしまってる。
「それって……」
「うん。だから光莉は倉田くんを好きになったら、渡会くんを忘れてしまった。それは全部、この神社の願いの代償のせいなの」
「そ、そんなこと……違う、きっと私がおかしいんだよ。私、お母さんに言って病院に――」
「でも、光莉はそれ以外のことはちゃんと覚えてるしおかしくもない。光莉が忘れたのは、渡会くんと倉田くんのことだけ。そんな病気って、ある?」
「倉田くんは忘れてないッ!」
「そうだよね。ごめん」
「も、もしこの話が本当なら、願いをキャンセルしたりはできないの?」
「一度願ったものは取り消すことはできないよ」
「そう……なんだ……」
「ごめん。光莉。私のせいでこんなことに……私があんなこと言ったから、光莉は安心させようとして願ってくれたのに。私がそもそもあんな話をしなければ……ごめん、光莉……ごめん」
深くうなだれた美宙の横顔は、さっきのトイレで見た私の顔よりもずっとひどかった。
動揺する気持ちを無理におさえて、私は笑顔を作る。
「さっきから謝りすぎだよ。大丈夫、私が勝手にやったことだし」
「でも……」
「倉田くんのことを日記に書くよう言ったのも、私が忘れるって知ってたからなんだよね?」
「うん、久しぶりに神社のことを教えてくれた人に会って、本当の代償について聞いたの。慌てて光莉に電話したら、光莉は渡会くんを忘れてて……今度はそんな思いさせたくなかったから」
「そっか。ありがとね」
美宙なりに悩んで、私の記憶を残しておけるように日記を提案してくれたんだ。
あの日記がなかったら、もしかしたら今はもっと凪くんの記憶があやふやだったかもしれない。
「そういえば、美宙は結局神社にお願いしたの?」
「ううん、私はできなかった……別れるのが怖くて。意気地なしだよね」
「そっか。それならよかった」
そういえば、私は美宙は結局誰が好きだったんだろう。
あの時の美宙はかたくなで、私が何度聞いても「ないしょ」と笑うだけだった。
「そういえば、美宙が好きな人って誰だったの? もしかして既婚者と付き合ってるとかじゃないよね?」
「ううん、違うけど……」
「今でもその人が好きなの?」
「うん。全然相手にされないけどね」
「そうなの? 美宙に想われて別の人を好きになるなんて、見る目ないね。私なら絶対美宙えらぶのに」
あんなにモテる美宙でも、恋愛で悩んだりするんだ。
相手にされないといっても、今だけだ。これから彼女は、すごくかっこいい男の子と付き合うんだろう。
いいな、と思う。
私はもう恋愛なんて今まで通りにできる気がしない。
もしこのまま大智くんを好きになって凪くんを忘れてしまったら? 私は凪くんのことがすごく大好きで、この気持ちが消えてしまうなんて絶対に嫌だった。
そして大智くんを好きになって、また別の人を好きになって彼のことを忘れてしまうんだろうか。
彼のことは大好きだから絶対に他の人を好きになるわけがない!
もう幼い頃のように強く信じることなんてできそうになかった。だって、私は実際に凪くんを好きになって大智くんを忘れてしまっている。
もし大智くんと付き合ったりして、また大智くんを忘れて、彼を傷つけてしまうんだろうか。私はもう大智くんを忘れて彼を傷つけたくなかった。
「大丈夫。私、倉田くんのことが好きだから」
「え?」
「確かに、大智くんのこともちょっと気になってたんだと思う。でも、昔付き合ってたとか知ったら誰だって気になるじゃん。別に大智くんじゃなくたって気になってたと思う。だから、大丈夫。大智くんなんて別に、好きじゃない」
はっきりと言い切った。うかんでくる大智くんの笑顔を必死で頭から消しながら。
「そっか……でも、私が言うのもあれだけど、光莉は渡会くんを好きになっていいと思うよ。もし倉田くんに何か光莉が失礼なことしちゃったら、私が代わりに全力で謝るし」
軽い口調だったが、美宙の目は真剣だった。
「ありがとう。でも、美宙はそんなこと気にしなくていいよ。私が勝手にお願いしただけだから」
「そんなわけにはいかな――」
美宙が言いかけた時、彼女のポケットにあるスマホが震えた。美宙はスマホをとらないけど、それでもスマホは鳴り続けている。
「出ないの?」
「うん、多分お母さんだから。買い物頼まれてたけど、いつでも大丈夫だし」
「いいよ、出なって。私しばらくここにいるから、美宙は帰っていいよ」
美宙はしばらく迷っていたが、「ごめんね」と言いながら離れていく。
「もしもし、ごめんね、出られなくて。いいよ、それくらい全然。お母さんが忙しいのわかってるから……」
美宙が離れたのを確認すると、私は自分の膝の間に顔をうずめた。
私は一生、恋愛なんてできないのかもしれない……。
だって、こんな変な女、私が男の子だったらごめんだ。
私は凪くんの顔を思い浮かべる。凪くん。泣いている私にハンカチを差し出して、笑ってくれた。私の話を真剣に聞いてくれた。
高校に入って再会した時は本当にうれしかった。仲良くなれたらいいなって思って、思っているだけで一年が過ぎた。
一緒にお昼を食べた。緊張していてうまく話せなかったけど幸せだった。
それから遠足で同じ班になった。色々あって二人でまわることになったのに、私は大智くんを気にしてばかりだった。
肩がふれる距離で二人でクラゲの水槽の前で写真を撮った。それでも大智くんが気になっていた。
そんな私を凪くんは心配して、この時も話を聞いてくれたっけ。
凪くんは最初からずっと、優しい人だった。とても幸せな恋だった。
(凪くんを……忘れたくない……忘れたくないのに……!)
私は本当はわかっていた。この恋はきっと忘れてしまうと。
――だって。
(私、大智くんに惹かれてるんだ……)
美宙に言ったようななんとなく気になる程度じゃない。どんどん日に日に大智くんへの思いが大きくなっていくのを自分でも感じていた。
(ダメ。今ならまだ好きなのやめられる)
どうせまともな恋愛ができないのなら。せめて、せめてこの思い出は消したくない。
凪くんに優しくされたこと、全部忘れたくない。
だから、私は――。
(大智くんなんて、絶対に好きにならないんだから)
ぽたぽたと涙がスカートにしみこんでいく。大丈夫。まだ引き返せる。凪くんの笑顔を思い出しながら、決意する。
私は絶対に、凪くんを忘れたりしない。
「ね、知ってる? 倉田くんって、彼女いるんだって」
ふいに聞こえたその声に、私は持っていた上履きを落としてしまう。
そんな決意をした翌日の朝。隣のクラスの女子二人がひそひそと話をしていたのを聞いてしまった。
「えー、嘘! でも、特に仲良い女子っていなかったんじゃない?」
「うん、なんでも入院してる彼女がいるんだって。何度もお見舞いに行ってるらしいよ」
「何それけなげすぎる。さすが私の推しだわ」
「ねーっ! だから女子からの告白も断ってたのかな」
彼女たちは芸能人の話でもするように、凪くんの話をしている。
普段の凪くんが気さくに話しかけてくれるから忘れていたけれど、凪くんはモテるしかなりファンがいる。それはわかっていたけど、彼女までいたんだ……。
今までの私なら、ここで諦めていたと思う。でも、そういうわけにもいかなかった。このまま諦めたら凪くんを忘れてしまう。
(別にいいんじゃない? だって、凪くんは私のことなんとも思ってないよ)
もう一人の私がそうささやく。
凪くんのことを忘れたとしても、案外凪くんは気がつかないかもしれない。私達なんて、その程度の仲なのだから。
「……目黒さん?」
凪くんの声がして、空耳かと思った。でも、彼は不思議そうに私の落ちている上履きに視線を落としている。
「どうしたの? ぼーっとして」
「なんでもないよ」
まさかあなたに彼女がいるって知ってショックだったんです、なんて言えるわけがない。
「何かあった? 昨日も変だったよね」
昨日の美宙の話が衝撃的すぎて忘れていたけど、せっかく勉強を教えてくれていた凪くんに失礼な態度を取ってしまったことを思い出す。
「昨日はごめんね。せっかく教えてくれたのに……」
「そんなのいいって。ただ、何かあったのかなって心配で」
どうして、関係が薄い私のことをこんなにも心配してくれるんだろう。もしかして、って期待してしまう。
凪くんには彼女がいるのに――。
「その……私、倉田くんの力になりたい!」
「……うん?」
凪くんがとまどっている。当然だ。私もとてもとまどっている。
「えっと、ほら、倉田くんっていつも私が困ってる時助けてくれたから。今も心配してくれて、うれしかったんだ。だから、何か私も力になれないかなって」
下駄箱のまん中で力説する私を、何人かの生徒たちが迷惑そうに避けていく。
こんなことを突然言われた凪くんは、きっともっと迷惑だ。なんだか泣きそうな心細い気持ちになって、目をふせた。
「そっか。うん、ちょっとびっくりしたけど、わかったよ」
穏やかな声に私は彼を見る。凪くんは少し照れくさそうに笑っていた。
「わかったって?」
「今は何も思いつかないから、少し考えさせて。っていっても、やっぱりたいしたことはしてないと思うけどさ」
「な、なんで!?」
「なんでって、目黒さんから言ってきたんじゃないの? とにかく、元気になったみたいでよかったよ。って、すごく邪魔になってるね。またね、目黒さん」
凪くんはおだやかな微笑みをうかべると、てきぱきと上履きを出しその場から離れていった。その後ろ姿を見ながら、本当に泣きそうになってしまう。
――ああ、私はこの人が、本当に好きだ。
たとえ彼女がいたとしても、この気持ちは変わらない。