勇者 不在
そのころ桜は……という話です。
■1日目■
優司が城を去った。
「悪いな。俺の人生はもう、お前の『物語』の一部じゃない」
そんな言葉を残して。
「どうしてそんなことを言うの?!」
問いかけには答えが返ってこなかった。
ただ背を向けて歩くその姿を、桜は呆然と見つめていた。
その後すぐに王に呼びつけられ、大勢の人の前で怒鳴られた。
玉座の間に、ざわつく声が満ちていた。
貴族たちが見守る前で、王は玉座から桜を見下ろしている。
「お前の言葉を信じたのが、間違いだった!」
その一喝が、広間の空気を震わせた。
桜ははっと顔を上げる。
昨日まで友好的だった周囲の視線が、今や冷ややかさに変わっていた。
「優司はお前の言うことを聞く? 従順で、忠実な駒だと? ――貴様……我が命を、王の威を、なんだと思っている!」
階段を一段ずつ踏み締めながら、王の怒りは増していく。
桜は一歩、また一歩と下がった。玉座の間の床が、やけに冷たく固く広く感じられる。
「私、そんなつもりじゃ……」
言い訳めいた声を絞り出そうとした瞬間、王が腕を伸ばす。
「黙れ!」
王の叫びは、金属のように鋭く響いた。
臣下たちが息を呑む中、王の手が桜の肩を乱暴につかむ。彼女の高価なドレスの肩紐が、片方、ずれ落ちた。
「貴様の口車に乗ったせいで、この国は笑いものだ!
何が『聖なる乙女』だ?! 勇者は出ていったぞ。
魔石鉱山が枯れたのが余のせいか? 違うだろう!
大量の魔石を使って勇者召喚するのは、神が認めた御業だ。勇者ごときが、王の命に逆らうだと?!
余が召喚してやったというのに、恩知らずが!
あの者は勇者ではない。裏切り者だ。処刑してやる!
無能どもがっ! この王の名のもとに、一人残らず処すぞ!!
戦に意味がない? あるに決まっておろう! 余がやると決めた、それが意味だ!
そなたらが無能だから、王が苦労しておるのだ! わかるか!
余の命令が軽んじられるなぞ、国辱と呼ばずして何と言う!
お前たちがきちんと動いていれば、勇者に逃げられることもなかったのだ!
責任? そんなものは下々が取るものだ!
口を慎め! 王を諫めるなど、千年早いわ!」
唾が飛ぶほどに怒鳴られ、桜の頭がくらりと揺れた。
視線の先に、臣下たちの無表情な顔が並んでいた。意見できる者など、王の周りに残っていないのだ。
その時、初めて桜は理解する。
ここではもう、誰も自分を「姫」扱い……特別扱いしてくれないのだと。
玉座の間での叱責のあと、桜は自分の客室に戻してもらえなかった。
侍女に連れられて通されたのは、宮殿の裏手。今朝まで優司が使っていたという、質素な使用人棟の一室だった。
「……ここ?」
あまりに簡素な扉と、素っ気ない板張り。歩いてきた廊下は、冷たい石畳だった。
今朝までいた、黄金に縁どられた客室とは比べものにならない。ドアの取っ手を握る手に、自然と力がこもった。
「礼儀作法も知らない女にはお似合いでしょう」
同行していた年若い侍女が、目を伏せながら言った。
桜は返事もできず、そのまま部屋に足を踏み入れる。
薄暗く、カーテンも粗末で、装飾というものは一つもない。小さな机と椅子、寝台が一つ。
こんなところで優司は暮らしていたのか。「勇者」というだけで、自分と同じ境遇を得られたというのに?
召喚された当初を思い出した。
「どうして優司は、あんなに勇者扱いを嫌がるのかしら。能力がしょぼいのは残念だけど。
私は特別扱いされるの、大好き。だって、それだけ自分が『選ばれた存在』って感じがするじゃない? 皆にちやほやされて、必要とされて、期待されて……そんなの、最高!」
彼女はソファにふんぞり返りながら、嘲った。
「それを拒むなんて、なんだか損な人生よね。せっかくの主役なのに、どうして喜ばないのかしら。ねえ、私だったら——喜んで王様の命令、聞くのに!
召喚に巻き込んであげた、私に感謝すべきよね」
……。
仕方なく腰を下ろすと、ベッドが軋んだ。
肌寒い。静かすぎる。誰も訪れない。
――ここが、今の自分の居場所。
王の怒声が、まだ耳の奥に残っている。
「究極の特別扱いって、きっと『王様』よね。
誰も逆らえなくて、いつも中心にいて、何もかも自分の思い通り……あれが、私が望んだ姿?」
桜はそうつぶやいて、ふと黙り込んだ。
「……ぞっとする」
自分が望んでいたのは、注目や称賛のはずだ。
けれど、それが度を超えれば、あんなふうに孤独で傲慢になる。
何を言っても自分が正しいと怒鳴りつければ、誰も本音を隠して黙り込む。優しさも、忠誠も表面だけ、すべて裏があるかもしれない世界。
「そんなの、耐えられないよ……」
桜は顔を伏せた。自分が憧れていたものの正体に、初めて背筋が凍る思いがした。
「違う、あんなんじゃない。絶対に違う」
小さく震えて、膝を抱えようとして……できなかった。
重たくボリュームのあるドレスでは、思うように身動きが取れない。冷たい古びた木の床に、不似合いな光沢を持つ裾が広がっている。
いつもなら、侍女が脱がせてくれる衣装だ。自分では、背中のボタンすら外せない。
仕方なく、部屋の扉を開けて廊下をのぞく。
「誰かいませんか……?」
情けなく思いながらも、声を出す。
しばらくして、通りかかったメイドが足を止めた。年の近い、小柄な娘だった。
桜はできるだけ穏やかに微笑む。
「ごめんなさい、このドレス、一人じゃ脱げなくて……手伝ってくれる?」
娘は驚いたように目を瞬かせたが、やがて小さく頷いた。
部屋の中に入ってもらい、手早く背中のボタンとリボンをほどいてもらう。脱がされたドレスは、静かに床に落ちた。
「ありがとう。……あの、服を借りられないかな。なにか、動きやすいもの」
「今ちょうど、予備の作業服を持っていますので」
彼女が差し出してくれたのは、簡素な灰色のメイド服だった。襟元にレースも飾りもなく、布も厚手で実用的。
桜はそれを受け取り、一人で袖を通す。
胸元から上だけが映る鏡の前に立つと、自分でも笑いそうになった。
贅沢なドレスに包まれていた「聖なる乙女」の姿は、もうどこにもない。
粗い布の感触が、華やかさとは縁のない現実を肌に伝えてくるようだった。
「……こんなの私じゃない」
では、どんなのが「私」らしいと? ぞくりと悪寒がして、桜は頭を振った。
朝食は食べた。けれど、それきり何も口にしていない。
夕方に差しかかる頃、とうとう空腹が限界を訴え始めた。
ふらふらと、食べ物の匂いを頼りに建物の中をさまよう。
ほんのりと漂う小麦粉の香りや、古びた油のにおいがする。
たっぷりのバターや香ばしい肉の匂いならまだしも、そうではないのが腹立たしい。
空腹のせいだろうか、イライラしている。考え方もどんどん後ろ向きになる。
今の自分が、とても惨めに思えて仕方がなかった。
薄暗い石の廊下の先に明かりが見えた。
先に食事を済ませたらしい使用人たちが、ぼそぼそと談笑しながら部屋から出てくる。皿を手にした者、パンをかじりながら歩く者――誰も彼女に気づかないかのように通りすぎた。
桜は立ち尽くした。扉の中に入っていいのか分からない。
声をかけようと口を開きかけたそのとき、ひとりの少女が桜の前で足を止めた。
「……おひさしぶりですね。桜様」
その声に、心がきゅっと収縮した。
フィリーネ。かつて、話し相手として侍っていた侍女。今は簡素な作業服に身を包んでいる。
「あなたも、ここに……?」
「ええ。あなたが癇癪を起こして投げつけたカップの破片で顔に傷がつき、王の寵愛を失いましたから」
笑みを貼り付けたその顔に、憎悪が浮かんでいた。
寵愛? そういう関係だったの? 顔の傷なんて知らない! 見かけなくなったと思っていただけで……。
美しく白魚のようだった手は、無残に荒れ果てていた。
「食堂に入ったら、右の列に並べばいいですよ。パンとスープがもらえます。サラダと肉を食べる権利はないので手を出したらいけません。
食器は自分で取って、使ったら洗ってください」
桜は言葉を失い、ただ頷くしかなかった。
フィリーネはくるりと背を向けて歩き出す。
けれど、数歩進んだところでふと振り返った。
「――王様の愛を、高価な贈り物で測るのは、もうやめたほうがいいと思います。
だって、王様が自分で苦労して稼いだお金じゃないでしょう?
思い入れもないまま、ただ買って与えているだけなら、その『買ってくれる』という行為に愛情は籠もってないと思うんです」
淡々とした言葉だったが、彼女の苦い後悔が混じっている。
「そんな関係じゃない!」
思わず声を荒げた。
注目を浴びているのに、私はそれに気づきもしなかった。
「でも、周りはそう思ってますよ。
だって、同郷のあんなにいい男を下に見てたのは……お金がなかったからでしょう?
それで贅沢にふけってたら、そりゃあ、ね。そう見えるわ」
あんな脂ぎったオヤジと? 王様だからって、そんな関係ごめんだわ!
いくら贅沢させてくれたって……いや、ちょっと待って。
そもそも、私が贅沢できたのは、どうして?
勇者を引き留めるためだけ? 私自身が可愛いからじゃ……ない?
……いや、そんなわけ、ないよね?
どこまでわがままが許されるか。
それで愛情を測っていた? そんなの、優司相手じゃあるまいし――。
……え? 私、優司にやってた?
嘘……。
桜は呆然と立ち尽くしていた。
誰かが、その手を引いた。目の前に置かれた食事を、黙って咀嚼する。
着替えがないので、そのままベッドに横たわった。
固くて眠れないと思った瞬間、枕から優司の匂いがした。
桜の目から涙が流れ、それが耳に入ってとても不快だった。
■2日目■
朝の食堂は騒がしかった。
あくびをしながらパンとスープを運ぶ者、つかの間のおしゃべりを楽しむ者。
そこまでなら日常風景だった。
そこに、慌ただしく走って出て行く者たちがいた。遠くから大声が聞こえることもあった。
それが異常事態の兆しだと、ここで初めて朝を迎える桜は、気づけなかった。
何をしたらいいか分からず、桜は再び使用人棟の簡素な部屋へ戻った。
着替えの予備もなく、話し相手もいない。
唯一の娯楽は、窓の外に広がる石畳の中庭を眺めることだった。
昼前。
視界の片隅に、見知った顔が映った。
「……フィリーネ?」
あの元侍女が、二人の兵に腕をつかまれ、連行されていく。 その様子に、桜の背筋がひやりと冷えた。
扉をノックもなく開けたのは、使用人棟の住人の一人。朝、食堂で目が合ったきりの男だ。
無遠慮に室内へ踏み込み、桜の斜め後ろに立ってフィリーネを見る。
「見たかい? あの子、王の愛人として捕縛されるんだってさ。権力の近くにいるってのは、怖いねえ」
軽く笑いながら、桜の両側に手をつき、腕の中に桜を閉じ込めた。
空気が変わる。桜は男の腕に触れないように身を小さくしようとしたが、さほど意味はなかった。
「……な、何の用……?」
「逃げ場なんて、ないぜ? あんた、もう『勇者様』でも『姫君』でもないんだろう?
昨日、親切に飯を食わせてやっただろうが」
ぐいと手首を掴まれ、ベッドに押し倒された。
乱暴に胸元に手を伸ばされ、ボタンがちぎれる。
嫌だ! 優司の匂いが消えちゃう。気持ち悪い! それに、息が臭い!
必死に抵抗していると、扉が弾けるように開いた。
「神殿連絡室の者だ。現行犯として確保」
男が振り返るより早く、後ろに控えていた兵士が動いた。
男はベッドから引きずり下ろされ、床に組み敷かれる。
「この者は拘束します。……貴女も、同行願います」
……助かった。
喉の奥がひりついて、息を吸うたびに痛みが走る。もう、頷くことしかできなかった。
そのまま桜は、城の地下にある小さな牢に入れられた。
寒くて、湿っぽくて、薄暗い陰気な場所――それでも、先ほどの部屋よりは、ずっと安心できる。
牢屋まで歩いてくる間に、城内が奇妙な緊迫感でざわついているのに気付いた。
使用人の服に、高価なハイヒールを履いている桜の姿は異様で、普段なら人目を引いただろう。
貴族がすれ違いざまに嫌味を言ったり、連行する人より地位が高い暇人が立ち塞がって絡んだり……そういう人が一人もいなかったのだ。
侍女たちの顔がこわばり、煌びやかな近衛兵の姿は少なく、無骨な軍服の男たちが闊歩している。
建物から文官が走り出てきて、何かを喚いていた。
他の牢から聞こえる声から推測したところ、将軍によるクーデターがあったようだ。
つまり、あの王様が、「王様」をクビになったのね。
王様から「王様」を取ったら、何が残るんだろう?
それなら、私は……?
とりあえず、桜はこんな感じでいいですかね。「微ざまあ」くらいですが。
将軍の手の者じゃなく、神殿連絡室が来たので、そんなに悪い扱いにはならない予感。
ものすごくポジティブな性格なので、復活ストーリーになりそうで「それはまた別の話」かなぁ、と。