それぞれの帰る場所
ちょっと長くなりました。一万字を超えてます。
神殿の裏庭。
昼下がりの陽が柔らかく差し込む中、優司は荷車から物資を降ろしていた。
ひと息ついた彼の隣に、祈りを終えたエラがそっと腰を下ろす。
野営や携帯食が続いた引っ越しのときよりも、疲れているように見えた。
「荷物より、人の期待のほうが重いのかな」と優司が耳元でささやくと、エラは驚いたように目を見開いた。
「…『神の声』を聞きに来る人って、『こういう声がほしい』って期待しているんですよ。
もう、自分の中に答えがあるの。
『こう答えろ』って、目で訴えてくる人もいるわ」
「ああ、背中を押してほしいのか」
ふたりはしばらく黙っていた。鳥の声が遠くに聞こえた。
「自分で決めるのは……確かに怖いかもしれない。誰かに委ねたくなって来るんだろうな」
「そうなの。言葉が誰かの人生を変えてしまうかもしれないと思うと、本当に恐いわ。
でも、やらないと、ひもじい生活に逆戻りよって自分を叱咤するの」
エラは、かすかに眉を寄せて微笑んだ。
風が枝葉を揺らし、重たい心を少しだけ軽くする。
「……エラの仕事を軽んじるつもりはないが、言葉を聞いた後にどうするかは、その人が選んでいると思うぞ」
エラが首をかしげると、彼はぽつりぽつりと語り始めた。
「例えば俺の親父が、エラを通して『神の言葉』を聞いたとしてさ。
『それはやめなさい、人生がめちゃくちゃになる』って言われたとしても、たぶん……従えなかったと思うんだ」
優司の父は、勤務先の社長の息子が犯した酒気帯びによる事故の身代わりとして出頭した。
その後に解雇され、家計は急激に傾く。優司自身も、学校で「犯罪者の息子」と噂が立ち、いつの間にか孤立していた。
「お袋は親父を責めるだけで、自分が働こうとはしなかった。
家を手放したけど、『住宅ローン』……借金は払いきれなかった。
……じいちゃんは俺たちに相談もなくデコトラを売って、借金の足しにしろと言ってくれたけど、焼け石に水だ。
結局、親父が自殺して……保険金で借金を返した。
お袋は、役所や保険の手続きの途中で倒れて、あっけなく死んじまった。」
彼の声は淡々としていたが、その奥に痛みがにじんでいた。
「どうせ死ぬなら、もう少し早く死んでくれてたら、家は残ってたし、じいちゃんもトラックを売らずにすんだ。
……そんなふうに考える自分が、一番イヤだった。」
優司は唇をかみしめる。
「そもそも、身代わりになってクビになるなら、最初から断ってクビになればよかったんだよ。
でも、親父は『家族を食わせなきゃ』って、それができないなら……って最悪の道を選んだんだと思う。」
高校を卒業して、仕事に選んだのは運送業だった。
祖父がデコトラを手放してしょんぼりしていた姿が、胸に刺さった。
「俺、トラックで稼いで、じいちゃんを励ましたかったんだ。
俺が子どものころは、トラック運転手って『稼げる自由な仕事』って言われててさ。深夜走ったりする人は、かなりの高給取りだった。
……輸送の許認可制度が緩くなって、運送業界に参入するのが簡単になったんだ。
運賃の値下げ競争は、利用する側にはいいことだったろう。
けど、運ぶ方の収入は減っていった。待遇が悪くなったり、超過勤務しても未払いにされたり、稼げない時代になっていく。
けど、それでも俺にとっては、子どものころからの夢が一つ叶ったんだ。嬉しかったよ」
優司は爪が手のひらに食い込むほど握った。
「だから、じいちゃんが精魂込めたデコトラを手放した気持ちが……余計に辛くなった。
親父を含めた俺たち家族のためだったのに、なんで親父が逃げるんだよ」
そして、最後にぽつりとつぶやく。
「すべての元凶は、親父が社長の懇願を断れなかったことだ。
けど……優しくて気が弱くて、頼まれたら断れない性分でさ。
あの性格じゃ、たとえ神様に『やめろ』って言われても、断れなかったと思うんだよな」
風が静かに枝葉を揺らし、エラは目を伏せたまま、優司の言葉を胸に刻んでいた。
エラはそっと優司の拳の上に、手を添える。
「エラは、『神の声』をそのまま仲介すればいいだろう?
正義感とか賄賂でねじ曲げることがなければ、それが正しいんだよ、きっと。」
エラは涙をこらえながら、笑みを浮かべた。
「ありがとう、ユージさん」
「ま、泣いてても走ってても、トラックは前に進むし、走った分だけ金もついてくるってわけよ。人生、意外とシンプルだろ?」
「ふふ、わかりやすくて、いいですね」
言葉は、そこでふいに途切れた。
そっと手を繋ぎ直した二人は、互いに視線を交わすでもなく、ただ寄り添うように並んで座っていた。
葉擦れの音が静かに耳をくすぐり、風に揺れる木々の影が、ゆるやかに足元をなでていく。
その静けさの中に、言葉以上の想いが満ちていた。
「なあ、クライド……ちょっと、相談があるんだけどさ」
荷車から手を離し、優司はそわそわと、馬から降りたクライドに話しかけた。
昼下がりの兵舎の前。人々が行き交う中で、彼の声は妙に小さい。
「ん? また荷の積み下ろしのルートか? それとも訓練の日程か?」
「ちげえよ……あの、ほら……デートって、どういうところがいいのか、わかんなくてさ」
「デート!?」
クライドが大声を出したので、周囲の兵士たちが一斉にこちらを振り返った。
優司は慌てて手を振り、「いやいやちげぇ! 仕事の話だよ!」と強引に誤魔化す。
「……バカ、声でかいって……」
「すまん、すまん。でもマジか、お前がデートの相談とか、明日雪でも降るんじゃねぇか?」
クライドはニヤニヤと口角を上げた。
優司は頬をかきながら視線をそらす。
「……王都の道は分かるけど、そういう店? 人気のある店とか、全然知らなくてさ。
どこ行けば、女の子って喜ぶんだ?」
「ふーん……相手は、あの女神官ちゃんか?」
優司はうっすら赤くなって黙った。それで十分だった。
クライドは口笛を吹きながら腕を組む。
「よし、じゃあ俺のおすすめをいくつか教えてやろう。
んで、今の気分で一番イイと思うのは……そうだな、『スカイロール』だ!」
「……空パン?」
「そう、空飛ぶパン屋。浮遊魔導車で王都中をふよふよ飛びながら、パン売ってんだ。
たまにしか現れねぇし、どこで会えるかは運しだい。
言ってみりゃ、空に浮かぶ幸運のパンだ!」
「そんな不確かなもん……本当にデートで行って大丈夫か?」
「そこがいいんだよ。
追いかけながら、ああでもないこうでもないって話せるし、何より『探す』って行為がわくわくするだろ。ダメでも笑い合える相手がいいと思うわねぇ?
目的がパンでも、一緒に探した時間ってのは意外と記憶に残るんだぜ」
「……なるほどな」
「それに、スカイロールのシナモンアップルパンは絶品だぞ」
「パンに振り回されるデートか……俺に似合ってるかもな」
聞き耳を立てていた兵士たちが、次に出現する日と場所を次々に推理してくれた。
恥ずかしくて堪らないが、助けを借りよう。
「じゃあ、明日午前中に王都南門前広場だ。だいたいそのあたりを張っておけ。
見逃すなよ?」
「……ああ。ありがとな、クライド。みんなも、ありがとう」
賑やかにみんなが食堂に入っていくのを見送った。
クライドが小声でささやいた。
「礼はいいから、パン買ってこいよ。俺の分もな!」
クライドの愛馬がヒヒンと鳴いた。馬はパン食わねえよな?
「えっとさ……明日の午前中、空いてるか?」
祈りを終えたエラが聖堂から出てきたところを、優司は待ち構えて声をかけた。
落ち着きなく視線をさまよわせる。
「明日……ですか?」
「その……王都で空飛ぶパン屋が出るらしくて。
スカイロールって言うんだけど、たまにしか出ねぇし、うまいらしいんだ」
エラは目を瞬かせた。少し考えて、口元を緩める。
「空飛ぶパン屋……なんだか楽しそうですね」
「じゃ、行くか?
俺も、探すの初めてなんだけど……まあ、見つからなくても、散歩にはなるし」
「ええ。行きましょう」
笑顔が返ってきた瞬間、優司は内心でガッツポーズを決めた。
翌朝。王都南門前広場はすでに人通りで賑わっていたが、スカイロールの姿はまだ見えなかった。
「空に浮かぶ車って、どんな感じなんでしょう」
「なんか、青い帆布張った箱がぷかぷか浮いてるって話だ。見つけたら、叫んでもいいからな」
「叫ぶのは、ちょっと……」
二人は笑いながら、石畳の広場を歩いた。
商人たちの声が飛び交い、子どもたちが走り回る。
「ん、あれじゃねえか?」
優司が指さした先に、空中にふわふわと浮かぶ青い物体が見えた。人々が「あっ、スカイロールだ!」と騒ぎ始め、追いかけていく。
「よし、行くぞ!」
「待ってください、速いですっ」
はぐれないように手を繋ぎ、優司は人混みの中を器用に抜けていく。エラも笑いながら走った。
空飛ぶ車はゆっくりと回転しながら、路地の上を進んでいた。
ようやく角の開けた場所で止まったスカイロールに、列ができ始める。二人も並んで、リンゴとシナモンの甘い香りに包まれながら、順番が来るのを待った。
「お待たせしました、スカイシナモンアップルパン、ふたつ!」
優司が受け取った紙包みから、湯気がふわっと立ちのぼる。
「……すごく、いい匂い」
「だろ? クライドの情報は当てになるからな」
二人は小さな噴水の縁に座って、パンをほおばった。
優しい甘さとふわふわの生地、シナモンのスパイシーな香りに、思わず顔がほころぶ。
そのときだった。
「うわっ!」
転んだ小さな男の子が、勢いよく地面に膝を打ちつけて泣き出した。
近くにいた親が慌てて駆け寄るよりも早く、エラが立ち上がって彼に手を差し伸べていた。
「大丈夫? 痛かったね」
エラはひざをつき、子どもの膝の土を指先でそっと払った。人に気付かれないように、小さく癒やしをかける。
彼女の笑顔に、子どもの泣き声が少しずつ小さくなる。
「ありがとう、お姉ちゃん……」
「ううん、気をつけてね」
そこへ母親が駆け寄り、深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました……神官様?」
「いえ、今日は神官じゃなくて、普通のひとですから」
そう答えたエラの笑顔には、どこか肩の力が抜けたような柔らかさがあった。
戻ってきた彼女に、優司は預かっていたパンを返しながら、そっと尋ねる。
「……なんか、いつもと違う感じだったな」
「そうかもしれません。普段は『神の媒介』として感謝されるけど……今日みたいに『ただの私』にお礼を言われると、不思議と心がじんと震えるような……」
彼女はパンを見つめながらつぶやいた。
「なんていうか……『神官としての価値』じゃなくて、『私自身』が誰かの役に立てたみたいで」
その横顔は、いつもの祈りの場で見せる神聖な表情とは違っていた。もっと柔らかく、もっと――人間らしかった。
「……エラは、神官じゃなくても、ちゃんと頼りになる人だってことだよ」
優司の言葉に、エラは驚いたように顔を向けた。だがすぐに、ふわりと笑った。
「……ありがとうございます、ユージさん」
青空の下、スカイロールの影がゆっくりと遠ざかっていく。
パンの温もりと、気持ちを分かち合えたような温もりが、二人の心にじんわりと残って……。
「しまった! クライドの分を買うの忘れた!!」
「……すみません。私も、うっかりして……食べかけじゃ、ダメですよね」
「仕方ない、また、今度ってことで」
「……また、ですね」
それは、次のデートの約束のようで……こんな瞬間がずっと続けばいいのに、と思った。
優司は、口にしていたパンの残りを手のひらに置きながら、空を見上げる。
王都の空は広くて、今日の雲はやけに遠くに見えた。
「……俺もさ」
思わず、口をついて出た言葉に、自分で驚く。
「……?」
エラが静かに振り向く。
優司は苦笑して、こぼした。
「俺も、もう『運搬勇者』とか呼ばれるの、疲れてきたのかもな。そもそも、勇者って柄じゃねえし」
荷物を運ぶだけの仕事に、称号はいらない。
権力者たちに利用され、妙な期待が重くのしかかるだけだ。
「……この世界に呼ばれてからずっと、何かがズレてた気がする。
ここの国民でもないし、命令される理由なんか、ないんだよな」
言いながら、自分でも驚いた。
その違和感に、ずっと気づかないふりをしていた。
「……もう一度、ただの運送屋に戻ろうかな。荷車で、荷を積んで、町から町へ。
人の役に立って、笑って『ありがとう』って言われて……それで、いい気がしてきた」
城にいるより、戦場にいるより。
こうしてエラとパンを味わい、人の暮らしに近い場所にいたほうが、俺はずっと――自分らしくいられる。
「……素敵ですね」
「いや、すげえ普通の生活がしたいだけ。俺にはそれが合ってるんだよ」
ふたりの間を澄んだ空気が流れた。パン屋を追いかけて、ほてった体に気持ちいい。
エラはふわりと笑った。
「じゃあ、私もその時は、荷物を運ぶお手伝いしますね。
神器って重たいし、儀式の間ずっと持っていなくちゃいけなくて。力仕事もお手のものです」
「マジか。なら、動きやすい服が必要だな」
優司は「次は服を見に行くか」と、さりげなく午後もデートに持ち込む。
エラもそれを指摘せず、その前に果実水を飲みに行きましょうと優司の手を握った。
舞い上がって、飲み物のことを失念するとは……!
嬉しさと恥ずかしさで、何かを言おうとして、結局「うん」としか返せなかった。
「……ここらで、いいのか?」
神殿の門前。エラを送ってきて、そう言いかけた優司は、一拍置いて口を閉じる。
エラは彼の顔を見て、そっと笑った。
「裏庭、少しだけ寄っていきませんか」
言い出せなかった言葉を、先に拾ってもらった気がして、優司は照れ隠しのように小さくうなずいた。
落ち着いた静けさのある裏庭。
風が植え込みを揺らし、昼間の余韻だけが残っている。
言葉を交わすには、理由が要りそうな沈黙。
それでも、無理に何かを言うのは違う気がした。
(もう少し、こうしていたい)
(けれど、これ以上は求めてはいけない)
互いに、そんな線引きをしているのが分かる。
けれどそれが、思いやりか臆病かは、よく分からなかった。
すぐそばにいるのに、遠いようで近いようで。
さきほど市場で見つけた魔道具のペンを、優司は手の中でくるくると回していた。
金具の装飾が控えめに光り、指の間で軽やかに跳ねる。
「……濡れても消えないらしい。荷車に何か書けるかなと思って、ついな」
言い訳のように口にしたが、実際はほとんど衝動買いだった。
珍しく心が浮ついていた。いや、今もそうだ。
エラは隣で笑っていたが、なにか言いたげに唇を結んだ。
さっきまで笑い合っていたのに、別れ際になると急に言葉が出なくなる。
時間は十分にあったはずなのに、伝えたいことだけがずっと胸に残って、喉から出ない感じで……。
「……もう少しだけ、話しませんか?」
「……うん」
自然と足は、人気のない薬草畑へと向かっていた。
神殿の灯が遠くなっていくのを、二人とも気づいていながら、どちらも口には出さなかった。
ただ一緒にいたい。それだけが、今の理由だった。
気の早い落ち葉が、足元でくしゃりと音を立てる。
「……元奥様のこと、今も……愛しているんですか?」
エラの頬は見る間に赤く染まり、言った直後に目を伏せた。
そんなことを聞くつもりじゃなかった――動揺がそのまま言葉になったようだった。
優司は少し目を瞬き、それから静かに息をついた。
「……いや。悲しいけど、もう愛してはいない」
少し間を置いて、ぽつりと語り始めた。
「あいつは『高校』……学校の同級生だった。
親父が社長の息子の代わりに出頭して、それが広まってから、俺の周りは一気に人がいなくなった。
卒業後に、偶然再会して、すぐ結婚したんだ」
目を細めて、遠い記憶を追う。
「親父が亡くなって『保険金』……見舞金が下りたことが、噂になってたらしい。再会したのはそのタイミングだ。
あいつの母親は保険の外交員をやっていたから、知ってたんだろうな」
『私を養ってね』と満面の笑みを向けられて――バカみたいに舞い上がった。あの一言で、「必要とされてる」って思っちまったんだ。
甲斐性があると認められたと思った。一人前の男になれた気がしてさ。
けど今にして思えば、ただ単に「働きたくない」ってだけだったのかもしれない。
「結婚式、派手にやりたいって言われたけど……借金の返済に使って、もうそんな金は残ってなかった。
それを言ったら、すごい顔された。
『振り袖』……豪華なドレスは買えないと言ったときも、文句を言われてさ。自分の親に買ってもらえよ……って、派手な言い合いになった」
優司は自嘲気味に笑った。
「俺も……本当にあいつを愛してたのか、もう分からない。
寂しかっただけかもしれない。
トラックを手放して、しょんぼりしてるじいちゃんと同居してるのが、十代の俺にはキツすぎたんだ。
結婚に逃げたんだろうな、たぶん」
静かにまとめるように、もう一度だけ言った。
「……愛してないよ」
過去と決別するように、断言する。
……俺の過去を気にする言葉が出たと言うことは、期待してもいいのだろうか。
「……もう一度、人を信じてみたいって思わせてくれたのは、君だ」
言葉にしてみれば、なんてことのない一文だった。
けれど、俺にとっては、ありったけの勇気をかき集めた、言葉だ。
エラは逃げなかった。目を伏せ、唇をきゅっと結んで、それでも一歩、こちらに近づいた。
「……わたし、神殿を出ることなんて、考えたこともありませんでした」
その声は震えていたけれど、芯があった。
「神の言葉を届けるのが自分の務めで、それが人生そのものだと思っていました。
でも……あなたと過ごした時間の中で、自分が人として、ひとりの女性として、生きてみたいって……初めて思ったんです」
エラの声に、俺は思わず息をのんだ。
神官としての人生と、彼女自身の迷いと、そして一歩踏み出そうとする意志――全部が、そこにあった。
「……まだうまく想像できるわけじゃありません。家事だってろくにできませんし、世俗のことも不勉強です」
自信なさげに笑ってから、彼女はまっすぐ俺を見た。
「けれど、それでも――あなたと一緒に人生を歩んでみたいと思っています」
その言葉は、祈りよりも静かで、祝福のように響いた。
俺の中で、何かがほどけていくのを感じた。
「……そんなふうに言ってもらえるなんて、思ってもみなかった。ありがとう」
もう言葉はいらなかった。
この人となら、きっと手を取り合って生きていける。そう思えた。
「それは、結婚してもいいってことか?」
「そういうこと……ですかね」
でも、どうしても、確かめたかった。
「……だめか? 俺みたいな男は、嫌いか?」
エラは一瞬、目を見開いた。 それから、まっすぐに俺を見て、そっと言葉を返した。
「……お慕いしております」
その声に、胸が熱くなる。思わず抱きしめて、唇を……。
だが、彼女の手に阻まれた。
「でも……この先をしてしまうと、私は神官ではいられなくなってしまいます」
「……」
「神殿を出たら、生活費を稼げません。私はあなたのお荷物にはなりたくないんです」
俺は何も言えなかった。 否定もしない、肯定もしない。
どこからか、虫たちの恋を奏でる音色が涼やかに聞こえてきた。
「……荷物を運ぶ俺に言っているのか?」
俺は自然と笑顔になった。思いがけず柔らかくて、心がじんわりと温まる感覚だった。
彼女が驚いた顔をする前に、俺はそっと手を取った。
「荷物じゃない。――宝物だよ、あんたは」
エラの瞳に、涙が浮かんだ。
次の瞬間、俺はそっとエラを抱きしめた。
「これくらいなら、いいよな?」
「……多分、いいと思います」
そのやりとりが、まるで思春期の初恋みたいで、思わず笑ってしまった。
この世界で、ようやく俺は「帰る場所」を見つけた気がする。
「大切にしたい人と共に生きる」――そう覚悟を決めた。
次に考えるべきは「どうやって今の仕事を辞めるか」だった。
エラは、神殿で誓約をしている。
正式に神官になる際、生涯独身で神に仕えることを誓った。
それを破棄するには儀式と審問を経る必要があり、簡単に「辞めます」と言える立場ではない。
一方の俺にも、問題がある。
「運搬勇者」としての立場を、果たして辞められるのか――という話だ。
運搬そのものは、もう俺ひとりが背負うものじゃなくなってきた。
冒険者や元軍人たちが、俺の真似をして運送業を始めている。
中には、運び屋専門のギルドを作りたいという話すら聞こえてきた。
運ぶという仕事は、俺がいなくても回り始めている。
問題は「勇者」の肩書きそのものだ。
神に与えられた称号には、明確な任期も、退任手続きも存在しない。
試しに、公国神殿連絡室へ給料が出ないことを理由に「辞めたい」と相談してみた。
返ってきたのは、「そのような前例はありません」という答えだった。
前例がない。
漫画で「つまり、俺が前例になればいいんだ」――という台詞を読んだことがあるぞ。
エラが屈託なく、「今日の空はいい色ですね」と微笑んでくれるだけで――
それだけで、この世界が少しだけ優しく、輝いて見える気がした。
その優しさを守るには、どうしたらいいのか。
ふたりで何度も話し合ったが、どうにも決め手が見つからない。
「……俺たちだけじゃ、袋小路だな」
そう頭を抱えたとき、エラがふと思いついたように言った。
「……神盤官ザルヴァン様に、ご相談してみましょうか。
以前、『何かあったら、すぐに来なさい』とおっしゃってくださいました。こんな個人的なことを申し上げるのは気が引けますが……」
神殿でも一目置かれる大物らしい。
だがエラの面会申請はすぐに通り、三日後に会えることになった。
不安と期待を抱えながら、その日を待つ。
「案外、来るのが遅かったのう」
老神官の第一声は、それだった。
怒っている様子はない。ただ、すべてを見通しているような目で、こちらを見ている。
「勇者はのぉ、目的に向かって進むために、ある程度『鈍感』でないと務まらん。
サクラ殿の異常なほどのポジティブさや、人の忠告を聞かぬところ――あれもまた、勇者に必要な資質じゃ」
優司のように人に気を遣う者には、勇者の役目は重すぎる。
それに押しつぶされてしまうのは、目に見えておった――そう老神官は言う。
「だからこそ、何か『生きる理由』を持っておくといい。手っ取り早いのは……そう、女じゃろうな」
優司は思わず顔をしかめた。
まさか、この恋心すら仕組まれていたのかと、憮然とする。
老神官は、ふぉっふぉと笑った。
「そう恐い顔をするな。『女』と言うただけじゃろう。わしが用意したのは、出会いの場だけじゃ」
神殿には若い神官見習いもいれば、優司が元いた世界での年齢に近い成熟した女性もいた。恋愛対象が男性である者も、数は少ないが存在する。
物資受け取りのために領主の館に滞在し、令嬢と晩餐を共にしたこともあったはず。
商人、職人、農民――あらゆる人々と交流する機会を、あの半年間で与えてきた。
そんな中で、優司の目に入っていたのは、エラだけだった。
「……あの貴族の令嬢が、やけに馴れ馴れしかったのは、そういうことか」
その言葉に、エラがわずかに眉をひそめる。
分かりやすく、ちょっと不機嫌だ。
「いや、全然惹かれなかったよ」と、優司は慌てて言い訳した。
「エラよ。いい顔じゃの。
神官には人間らしさは求められない。
怒りを静めよと言われるが、市井に降りたら自分たちを守るために、きちんと怒れるようになりなさい。
嫌なことは、ちゃんと拒否できないと生活していけない世界だ。
ぶつかってもいい。喧嘩だって、互いを理解し合ういい機会になるぞ」
老神官はやわらかい声でそう言った。
俺のほうを見たわけじゃない。けれど、あれは――明らかに、俺に聞かせている言葉だった。
「それから、ユージ殿を支えようとするあまり、自分を押し殺すのはやめなさいよ。
黙って耐えてばかりじゃ、心がすり減る。
対等に生きるなら、素直に気持ちを伝えるのも、大事なことじゃよ」
その言葉に、エラがわずかに身じろぎし、小さくうなずいた。
その横顔を、俺はまっすぐ見つめていた。
(そうか……こいつは、俺を支えようとして、自分をまた後回しにしようとしてたんだな)
老神官は、俺と目を合わせることなく、ふっと笑った。
だがその笑みには、「お前なら分かるだろう」という信頼がこもっていた。
「もし『勇者』を辞退することが認められんようなら、怪我をしたふりをして、霧が立ちこめる山中の神殿の分院にでも逃げ込めばよい。
そこから尾根を辿り、国境を越えて出ていくんじゃ」
ああ、昔、勇者が捨てられたという場所か。使い捨てられる「勇者」……。
「『神託の石板』で確認されなければ、『勇者かどうか』など、誰にも分からん」
老神官は、冗談めかした口調で続ける。
優司の頭に、召喚されたときに見た『タブレット』が浮かんだ。
とはいえ、まずは正面から話をつけるべきだろう。
優司は国王に対し、「国の運搬業務を辞めたい」と申し出ることを決めた。
エラもまた、神官を辞める正式な手続きを進めることになった。
本来なら、神官の離籍には長い時間と神殿内部の揉め事がつきものだが――
エラが大ケガさせられた事件に関係していた連中が、罪悪感からか、積極的に離籍に賛成してくれたとか。
それもあって、老神官がすでに根回し済みとのこと。
……エラが中央神殿へ異動してきた、あの時点で。既に、いつ退職しても大丈夫だったと。
「……俺が、恋心を自覚する前から!?」
なんだか、全てお見通しだったようだ。恥ずかしさに、俺は思わず両手で顔を隠した。
玉座の間は、昼下がりにもかかわらずひんやりとしていた。
赤い絨毯の先、玉座に座る王は、優司の姿を見ても、特に表情を変えることはなかった。
「勇者殿。どうかされたか?」
「……国の運搬業務を、辞めさせていただきたく、お願いに参りました」
自分でも驚くほど落ち着いた声だった。隣には誰もいない。これは、俺の決断だ。
一瞬の静寂ののち、王はわずかに片眉を上げた。
「ふむ。……そうか。よかろう」
あっさりとした返答だった。あまりにも、あっけなかった。
「……よろしいのですか?」
思わず問い返すと、王は微かに笑った。
「お主は、召喚された勇者であろう? だが、『運ぶ勇者』などという役職、そもそも我が国には存在せぬ。
加えて、戦場にも立たず、剣も振るわぬ者に、これ以上何を期待しようか」
皮肉ではあるが、怒気はなかった。王にとって、俺は最初から「例外」であり、「誤算」だったのだろう。
「役割が終わったのなら、好きにするとよい。
ただし、『勇者』の名を外すには、神託の石板での確認が要る。正式な手続きは、神殿との連携で進めよ」
「……了解しました」
頭を下げながら、胸の奥で何かがすっと冷えていくのを感じた。
もう、この王と会うことは、ないだろう。
両思いになったと思ったら、すぐに結婚の話になりました。
ちょっと展開が早い? かもしれませんね(笑)
でもふたりとも「温かい家庭」に憧れがあって、気持ちがぴったり重なったら、そういう流れに……。
それに、結婚しないとイチャイチャできないので!