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リオデヤガ

作者: 柚子 胡椒

「殺してやる」

フストが息を荒くして言った。視線の先には常駐管理人のレオニダス夫妻の住む丸太作りの家があった。

「絶対に、殺してやる」

「おい、落ち着けよ」

ヨバナはカカオの実を刈りながら、つぶやくように答えた。

「レオニダスの野郎を殺したって何にも変わらないぜ。それどころかもっと酷いことにだってなる」

「酷いことって?今より酷いことってなんだ?」

 ヨバナを手を止めて、フストの目を見つめた。その目は憎しみが強い日差しを反射してギラギラと輝いていた。今のフストは本当に殺人を犯しかねないと、ヨバナは思った。

「お前の仕事がなくなるっていうだけならまだいい。だが俺らはここで仕事を続けなきゃいけない。なあおい、いいから聞けよ。レオニダスはいい方だぜ。仕事中は鉄砲をこっちに向けないからな。だが次にくる管理人はどうだ?きっと食事中も鉄砲を手放さないようなすごい奴が来るぜ」

ヨバナが彼の肩を撫でてやると、フストはようやく落ち着いてきた。

「わかってるよ、冗談だよ。真に受けんなって」

フストは若者である。ヨバナにもこういう時期があったから、この憤りがよくわかった。この村に生まれた者は、カカオを育てる他に生き方はない。生まれてからまともな教育も受けずに、ずっと。

川の向こうをずっと行った方には町があり、そこには大勢の人が住んでいて、いろんな仕事がある。ここには少しの人と一つの仕事だけ。村の裏のカカオ農園で農薬を撒いたり、カカオを収穫したりする、だけ。親父がカカオ農家なら子もカカオ農家、そして孫もカカオ農家になる。ヨバナはすでに自分の運命を受け入れて久しかった。


村を出て東へ2kmほどのところにその川がある。土地のものたちは正式な名前を知らなかったが、その川をリオデヤガ(現地語でジャガーの川の意味)と呼んでいた。ジャガーは強い生き物だ。大昔、ジャガーは神様と喧嘩したという言い伝えがあるくらいである。神様と喧嘩しようなんてやつはそうそういない。その喧嘩は、当然神様が勝って終わったらしいが、やってみようと思うだけ大したものだ。ジャガーは賢いけど、時々愚かでもある。

先祖から受け継がれたものは何も残っていない。変わらずにあるものなどこの川くらいのものであると、ヨバナはいつも思っていた。


先祖が代々守ってきた魂や土地、森林の精霊たちはいつしかカカオ農園に置き換わっていた。この土地はカカオを育てるのに適しているそうである。元々この辺りには自生していない植物だったが、人の手で育てることで土地によく順応した。そうして森林は切り開かれて、ここにカカオ農園ができた。カカオは外国の言葉で「神の食べ物」と呼ばれているらしい。この「神」とは当然この土地の神ではない。彼らはこんなものを食べなかっただろう。大昔に外国人がここに訪れてから、土地の神は異国の神に侵食されていった。


夕方には村の食堂に行く。ヨバナはフストに酒を奢ってやった。村には一応電線は通ってはいるが、中央からまともに電気が届かないことが多い。だから、日の出と共に起きて、まだ日が出ているうちに仕事を終える必要があった。

「最近木の育ちが悪いと思うんだ」

フストが言った。

「雑草がまた伸びてきただろ。そのせいだよ」

「噴霧器を借りて来なくちゃいけんな。今どこが持っているんだ」

「今年はまだどこも持ってないよ」

「そうか。じゃあ企業農園から借りてきてくれ」

「え、俺かよ」

「俺はもうそんな体力はない」

「ちぇ、わかったよ」

この村の辺りの畑には除草剤噴霧器を持っている家はない。何度も請求しているがレオニダスが新しい噴霧器を買ってくれることは無かった。仕方がないので数十キロ離れた企業農園から数日の間拝借し、近隣の農園と周り持ちして使っていた。

噴霧器に限らず村に足りているものは何一つなかった。スコップや高圧洗浄機や食べ物、人も金も全て。


陽が沈みつつあったがこの村は夜でも暑いし湿度も高い。

フストは額に汗を浮かべながら言った。

「俺はこんなところで一生を終える気はないぞ」

「おうそうか」

「マジだぜ。大洋の方に行けば金山があるだろ。そこで一山当てて、それからアメリカ行くんだ」

「鉱山はやめとけ」

ヨバナは酒を一口啜った。安いが強い酒である。

「ワリマイのとこの倅が鉱山に行ったが四、五年して肺の病気で死んだって噂だぜ。水銀にやられたんだとよ」

ヨバナはつぶやくように言った。

「ワリマイの爺さんはまだ信じてないけどな。見ろよ」

奥のテーブルには光を失った虚な目をした老人が、ぼんやり川の向こうを見つめながら酒を啜っていた。

「俺はそんな弱虫じゃない」

「第一」

ヨバナは間髪入れず続けた。

「レオニダスが許さない」

フストは握り拳に血が滲むほど力を込めた。

 「くそったれ」

 彼は呪うようにまた呟いた。

 「殺してやる。絶対殺してやる」


 レオニダスを殺してもなんの解決にもならない。むしろ事態を悪化させるばかりであることをヨバナは何度もフストに説明したが、それが彼の心に届くことはなかった。

そもそも、この農園の経営者はレオニダスではない。外国の大企業がこの国の中企業に管理を委託し、その中企業がこの国の小企業に管理を委託し、そこから派遣されたのがレオニダスである。このことはヨバナも最近知ったことで、大元の大企業の名は彼も知らない。しかしそこが除草剤噴霧器を買う程度の資金をケチるはずはないので、おおかたレオニダスの酒代になっているのだろう。大企業はこの実態を認知していないのだろうが、報告しようにもクビになったら生きていけないので、誰も声を上げることができない。だからと言って、レオニダスが殺されれば、より武装した別の管理人が来るだけである。

殺してやる、殺してやる。フストの声がヨバナの後頭部を木霊する。ヨバナにとって、これは情熱であった。自分が諦めた羨望。祈り。若さのなんと愚かなものであるか!




 その夜、大雨が村を襲った。この時期雨など珍しくないが、そのほとんどスコールである。しかしこの雨は不思議と、ひどく長く続いた。川から増水した雨が村のすぐ近くまで迫っていた。


雨の明けた朝、レオニダスが消えていた。村人たちの捜索の結果、川下2kmほどの地点で彼の死体が見つかった。後頭部に打撲と出血の跡があり、誰の目にも背後からぶん殴られたのだろうと想像できた。

そしてその日の夕方、フストが村から姿を消した。村人の誰もが同じことを考えていたが、その誰もがそれを口にしなかった。誰もがレオニダスを嫌っていたし、フストに感謝こそしなくても、同情はしていたからである。皆は口々に事故だ事故だと言った。もし事故死ならば、ひょっとしたら管理体制がよりひどくなるということもないかもしれない。

 レオニダス夫人はしばらく魂を失ったようになっていたが、フストが消えたことを知るとヒスになって「フストが殺した!フストが殺したんだ!」と繰り返し、泣き叫んでいた。

 しかし、ヨバナだけはフストがレオニダスを殺していないことをわかっていた。

彼が本当にそんな大それたことをするような男ではないことを知っていたし、何より彼は真犯人を知っていたからである。


―フストは

 彼は思った。

―フストは、管理人が不在の隙に、村を逃げて鉱山に向かったのだろう。愚かなやつだ

  

ジャガーは神と喧嘩した。ジャガーは賢いが時々愚かである。ジャガーは昨晩、ヨバナに真っ黒な情熱を与えたのだ。

 

リオデヤガの川の流れは全ての証拠をきれいに流した。明日には中央から警察が来る。警察はレオニダス夫人の証言を信じる。きっとフストを追い、彼に全ての罪を背負わせるだろう。捕まればまず間違いなく殺される。それを防ぐには、真犯人が自首するより他に手はない。


 リオデヤガの増水はすっかり収まっていた。何百年も前から、ずっと変わらない姿でそこにただ、あった。


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