プロローグ(後半)
入社した俺をまず待ち受けていたもの、それは研修という名の洗脳だった。
研修に行かされるという話自体はしばしば先輩社員から聞かされていた。だが、その内容についてはあまり、というか意図的に掘り下げられなかった気がする。
先輩はただ、
「やってるとそのうち楽しくなってくる」
とだけ言っていたのは覚えている。実際の内容としては、
「ひとつ!私はどんな業務にも全ての力を出し切って臨みます!嫌な仕事も進んで行います!」
「毎朝、いい笑顔ができるか、目は輝いているか、元気な声が出ているかを確認し、仕事に向かいます!」
「お客様との信頼関係を築くために…」
といった内容を講師や他の研修生の前で大声で言わされた。しかも何回も。分かってはいたが、大事なのは大声を出すことではないのだろう。時間いっぱいやることで研修生を疲れさせて、新たな価値観を植え付けることが目的なんだろうと麻痺した思考でも察することができた。
(俺、何してるんだろう…)
そんなことを思いながらも、研修最終日には割と達成感を得てしまっている自分がいた。
次に待ち受けていたもの、というよりも常に向き合わなければいけなかったもの、それは部長だった。
とにかく怖い。新人だった俺はまだ標的にされていなかったが、一つ二つ上の先輩が容赦なく罵倒され、渡した書類をその場に捨てられているの見ていて、
(何か月経ったら俺もあんな感じになるんだろう)
と、とにかく不安しかなかった。先輩曰く
「あれでも大分丸くなった方」
らしい。昔はどんなだったんだ。近くで電話をするのすら後で何か言われそうでストレスだった。
さらにさらに待ち受けていたもの、それは憧れてた女性の先輩と同期との別れだった。
別に仕事を辞めてしまったわけではない。支店に異動しただけである。だがそれだけでもきつかった。先輩の異動は言わずもがなだが、より精神的苦痛を受けたのは同期の異動だった。寂しくなったわけじゃない。というか交流を深める中でむしろ嫌いになっていたと言っても過言じゃない。自分語りと虚言が多くてうんざりしていた。
それが何故ショックだったかと言えば、支店の方が圧倒的に楽なのだ。客の都合で同期のいる支店で接客することがあった。当然、客よりも先に着いて準備をするわけだが。 本店の雰囲気とはかけ離れたのんびりした事務所。社員が忙しなく動き回ることもなければ怒号が飛び交うことなんて殊更ない。
平穏な事務所でまったりと事務処理をする同期を見て、俺の中で自分でも歪んでいるとわかる思いが芽生えた。自分が大変な思いをしている時にあいつは、と常に考えてしまうようになっていた。
そしてなんと言ってもブラック企業に欠かせないもの、早出・残業だ。
明らかに人が足りていない、無駄な処理が多い、定時過ぎた後にミーティング・ロープレなどなど。理由は様々であるがとにかく帰れない。
説明会の時に
「うちは残業に厳しい」
と社長が得意気に言っていたが、どうやら残業をすると怒られるということだけで、そうならないような会社側の工夫はないらしい。
終業後のミーティングも最悪で、全員の仕事が終わらないと始められない。外回り中、コンビニを見つけてはタバコ休憩をはさむ中年の先輩社員を待つことも苦痛だ。そして、いざミーティングが始まれば大した内容じゃない。時間がもったいない。
家は近いのに帰るのは夜遅く、帰っても資格の勉強と研修の課題でろくに眠れない。そんな日々が続いたある日。
体に異変を感じることはなかった。もう大分前から調子は悪い。睡眠不足のせいなのか、それとも他の要因があるのか、考えること自体が億劫で特に気にもしなかった。
頭、というより脳が締め付けらる感覚を覚えながら終業後のミーティングを終え、さあ帰ろうとした時、視界がぼやける。平衡感覚を失ったのか足がフラついて踏ん張れなくなる。意識が混濁し、思考がぐちゃぐちゃになる中、俺は
(何のために生きてるんだろう、まあいいか)
と、追いつかない思考の中、やっと解放されることへの期待をどこか感じながら、堕ちていった。