第九話 考えるより先に手が動く方なんだ
「追えーっ!」
続いて、数人の兵士が槍をひっさげて突進む。
「何なんだ、ありゃ?」(狙われているのか?)
鳴は眉をひそめたが、ほとんど直感で助けなければと決心した。
すぐさま馬にまたがり、拍車を駆ける。
ブーケファルスはその時点で剛速球だった。
「どけどけ!!」
馬は鳴を載せたまま跳躍し、追手を飛び越えた。空中に浮かんだ時も、着陸した時も、鳴は全く容赦しない勢いに、何度も心臓が止まりそうに。
「乗れよ!」
激しく鼓動する身体に耐えながら、鳴はローブに手を差伸べた。ローブは一瞬戸惑ったが、ほとんど反射的に腕だけ鳴に伸ばした。鳴がローブを馬上に載せるのも待たず、馬は目の前の道を衝動のように突き進む。
「くそっ……おい! もう少しゆっくり走れ!」
ブーケファルスは人混みや路頭の品物を避けつつも一切脚を緩めずに爆走を続けた。
だがようやく市街の一角に行きついた所で止まり、人目につかない位置に二人を届けた。
鳴はここでようやくローブの顔を見た。布地で目元は見えないが、若い男らしい。
「き……君は見ず知らずの他人を助けるのか?」 疑いの残る、低い声。
「昔から考えるより先に手が動く方なんだ、よくも悪くもな」
鳴はローブと共に馬上から降り、そばにあった小屋の壁際に立って話し出す。
「俺は高崎鳴。罪を犯してハイランドから逃げ出してきた旅の者だ」
「僕は……」 言い淀む。言えば恐ろしいことが起きそうな、そんな秘密を抱えていそうだった。
「ちょっと鳴、こんな奴に名乗り出ていいの? 顔も隠してるのに」
体内のエレクトラが戸惑いだした。
「うるせえな。俺はそこまで顔を見てなかったんだよ」
「本当に助けるなんてあり得るのか? まさか僕を商人に売りつけるつもりじゃないだろうな」
その声はどこか高らかで、憂えている中にも不思議と整っている。
「人を売るなんて野蛮なことしないさ。それはこの世界の人間だけがすることだから」
「不思議だな……まさか異世界人というわけでもないのに」
ローブの言葉に引っかかるものはあったが、とにかく鳴はローブの疑念を晴らすことに努める。
「こいつはエレクトラ。俺はこの子をハイランドに入れてしまったせいで追放された。まあ別に愛着のあった地でもなかったがな」
「どうせ、妖精の居場所なんてどこにもないんだけどね」
腕を組んで目をつむるエレクトラ。
「妖精の生き残りか。もはやアルカディアにはいないとばかり思っていたが」
ローブはしばらく思い悩んでいたが、ついに決心した様子で布を上げた。
それは、金髪に碧眼の美男子だった。エレクトラも鳴もはっと目を見張った。
もしこの顔が希望や自信に満溢れていたら王者としての素質を十分に認められたかもしれない。だが、この窮地に陥っている余裕のなさが、彼からそのような美貌を幾分か奪っていた。
「君たちごとき平民が手を触れていけない人間なんだよ、僕は。かつては高貴な身分ではあったがその地位を全て奪われ、今では国中から罪人として追われている」
「だからあいつらが捕まえようとしていたわけか」
金髪は、決してことさらに悪意があったわけではないが、それでも鳴たちをどこかで突き放している。
鳴はその微妙な距離感を知っていた。分だ。
(何か聞き覚えのある顔だ……) 実際に顔を見たわけではないが、それでも記憶のどこかでこの少年を知っている。
「君は、ハイランドから来たと言ったが、ちょうど僕もそこから逃げてきた所だ」
「なぜ王都に?」
「ハイランドの方でも追手が増えてきたからね。だからあえて王都の方に戻って、ある公爵夫人の元で施しを受けようとあそこから戻ってきた所なんだよ。だが、ここでも狙われるとは思わなかったな」
この少年にもまた、居場所がない。どこにいても付け狙われている。まるで俺のようだ、と鳴は共感した。だが、金髪はもう鳴たちに関わっている暇などないようだった。
「すまないが君たちを巻き込むわけにはいけない。君たちまで共犯にしたくはないんだ」
言い終わる間もなく、金髪の少年はそのままどこかに走り出そうとした。
キルデリクの言葉を思い出していた。かつてハイランド公によってその命を狙われている王子がいると。そしてその姿は黄金の髪の持ち主であると。鳴がこう問うことに迷いはなかった。
「もしかしてあなたは、ゴードン王子か?」
青い目が小さくなる。
「なぜ君が、王族の名前を知っているんだ? いつも城にこもっているのに、その名前を庶民が知るっているはずはない」
「村で騎士団に仕えていた方から聞いたんです。殿下がハイランド大公から命を狙われなさっているということを……キルデリクという方をご存知ありませんか?」
この名前もまた、衝撃を増すのに十分だったらしい。
王子は非常に驚いている様子だった。
「ああ。私に剣の指導をしてくれた人だ。ここでその男の名前を聞くとは……」
「いえ。俺も殿下その方と見えるとは思いませんでしたから……」
口調では丁寧になるが、ことさらに慇懃になる気はなかった。最初こそ対等な口だったのに、それを無理に修正するのは格好が悪いからだ。
騎士団長アルブレヒトは、王都全域の管轄を任されていた。基本ものぐさな性格と噂されているが、今や大公の支配下に置かれているこの街で、王党派が忍びこんでいることを恐れるあまりこの頃は人が代わったように神経をとがらせていた。そして彼の仕事がまたもや忙しくなろうとしていた。
水晶に映し出された光景を見て、監視員が叫ぶ。
「区画に生体反応があります! ゴードン殿下です! それから……なんだ、この馬は!?」
本来ならあってほしくない事態ではあるが、仕方ない。
アルブレヒトは二人の名を呼んだ。
「エノク! アルフレッド!」
肩幅の大きい男と背の高い女が立ち上がり、任務に出動する。
「出動しろ。あのペガサスのような生き物を捕まえろ」
アルブレヒトは支持してからぐったりと椅子に座りこんだ。
ハイランド大公の意向であるにしても、仕方がない。下民たちにとっては次の王が誰に決まるかなどさしてどうでもいい事柄だからだ。王都の治安をつかさどるアルブレヒトにとって王家の争いは蚊帳の外の出来事だった。
それにしても、王都には実に災難が多い。二十年ほど前にも戦いに巻き込まれたのだ。だが、誰と誰が戦ったのかもう誰も覚えていないのだ。
アルブレヒトはふと、あれがなぜ起きたのか思い出そうとした。しかしその直後には、もう緊張した面持ちで机の上、王都の町内を映し出す水晶に釘付けになっていた。
突然場の空気が殺気立ったのを感じ、鳴は王子の肩をつかんだ。
「乗って!」
ゴードンは鳴にしがみつくようにして鞍の上に乗った。
その直後、ブーケファルスは勢いよく地面を蹴り、
「わあああ!?」
突然十メートルほど浮かび上がったので鳴はまたもや息が止まりそうになった。この馬は主に確かに従順だ。しかし、渋々だ。手荒としか思えない。
追手は杖を持っていた。翼の生えた小さな竜を駆って、上空を飛び交っていた。
その杖を大きく振りかぶるや、青白い光がこちらに向かってきた。
「くそっ、あいつも魔法使いかよ!」
鳴はいきり立ち、こちらも魔法を使おうとした。後ろを振り返りつつ、
「雷の精霊よ――」「寄せ! 前を見ろ!」
苦しそうに叱咤するゴードン。
「空には魔法の壁が張り巡らされているんだ。魔法生物一匹では突破できるはずがない」
「じゃあどうします!?」
もうなついてもいない馬に、がむしゃらに叫ぶ。
「ブーケ! 城壁を破れ!!」
しかし馬も興奮しているのが明らかだった。敵の魔法使を振り切るにはあまりに乱暴な速度で、突然垂直に頭を上に向け、空高く舞い上がった。
鳴はひたすら絶叫するだけだった。メリーゴーラウンドですらこんな過激にゆれうごくことはない。しかし馬はそのまま斜め下の方向に突っ切っていき、どこともしっれない草原へとまっしぐらに突き進んでいった。
エレクトラはその間ずっと、鳴の体に宿っていたのだ。視覚を共有しているので何が起きたかは分かるが、妖精にもそれは実に恐怖を掻き立てるものだった。
やがて三人は原っぱの上、葉を大きく広げた樹木がぽつんと立っている場所に墜落した。もはやここまで来るととうとう体力を維持できなくなり、鳴もゴードンもたちまち芝生の上につっぷしてしまった。たちまち、鳴の手の甲から光がほとばしる。
「ねえ、あんたたち大丈夫!?」
呼吸も荒い二人を見ながら問いかける。
「ああ、何とかな……」
鳴は頭を掻きながら、上半身を起こす。
「君たちは何ということをやらかしてくれたんだ」
ゴードンは恨めしげに。
「私はもう少し王都に滞在するつもりだったんだ。もう少し色んな所から資金の援助を受けるつもりだったんだが」
冷や汗かきつつ、
「だが、結局アルカディア全土でお尋ね者になっているからには、他国に逃げないことにはどうにもならんか」
ブーケファルスは相も変わらず、鉄仮面をかぶったまま二人の背後でじっとしている。鳴はかっとなってその顔をにらみつけたが、馬の表情にはいかなる変化もなかった。
(こんな厄介な奴をよくも押付けやがったな、カスパール)
「だが、一体そんな馬をどこで手に入れたんだ?」
ゴードンはさして重大な感じでもないように尋ねた。
鳴はしゃべるのも嫌そうに、簡潔に答える。
「地下遺跡にあったものに乗ってみたら、乗りこなせたのです」(これがどんな原理で動いているとか、そんな質問は勘弁だ)
「あれか? ある強い力を持った二人が戦ったというあの……」
「はい……」
その二十年前の出来事に、王子はどこか思い当たることがあった。
「確かにあれがあったことは事実だ。だが、なぜか誰も私たちの記憶はなぜか操作されている。本来ならもっと大事件であるはずなのにだ」
「今は……そういうことを考える場合でもないな。君はこの先、どうするつもりなんだ」
ゴードンは、そこでようやく、鳴の顔立ちやみなりを詳しく凝視した。
鳴はこなれていない感じに見えた。
「あとで考えます。所で、喉が渇いてますよね。水を飲みませんか?」
言いながら、かばんから水筒を取り出す。
(この者、まるで王侯への礼儀を知らない)
王宮で生まれ育ち、今でも基本的に自分と近しい立場の人間としか話さない彼にとっては鳴の全てが異質だった。
ゴードンには鳴の言動の一つ一つが浮いて見えた。まるで働きもせずにうろついている遊び人のようだ。だが放蕩人にしては、芯の硬さを強く感じさせる態度なのだ。
「鳴、あんたがすべきことはそんなことじゃないでしょ?」(なんで人間の王族にいちいち敬意なんて示さなくちゃいけないのさ)
妖精が釘をさす。
鳴はそこで、まだよく知らないこの国の情勢について尋ねる。
「一体ハイランド大公はどういう人物なのですか? なぜこの国を壟断しているのです」
ゴードンにしても、鳴の出自が気になって仕方なかった。しかし鳴はあまりそのことを訊かれたくないような雰囲気だった。恐らくどこかから落ち延びてここに身を潜めているといった所か。
ゴードンはとりあえずこの男はホラズムかもっと北の国からの客人なのだと思うことにした。
「君たちが知っている通りハイランド公爵家には力がある。奴らは。婚姻や陰謀を通して他の一族を蹴落とし、勢いを拡大していった。一方長い繁栄の中で王家は最初の影響力を失っていった。王家はあくまで権威によって国の中心として認められているに過ぎない。実際の力を侮られれば簡単に落ちぶれる危ういものだ」
(案の定だ……)
それから、少し空の上の方に顔を向けて、
「あの城も、かつての私の居場所でありながら、今では近づくことすらかなわない……」
鳴は、彼のために何かしてあげずにはいられなくなった。
カスパールからの反対を喰らうことを覚悟で、鳴はこう切り出した。
「殿下、俺、殿下の力になりますよ。ちょうど生きる意味を求めあぐねてたところですし」
「それはできない。君がどこから来たか知らないが、一介の客人にそんな大命を押し付けることはできない」
苦渋の判断だった。
「これほど鳴が懇意にしてくれるのに、それを無下にしようってわけ?」
ゴードンにはエレクトラの顔がいかにも蔑んでいるように見えた。
「……妖精に憐れまれるほど落ちぶれていないぞ」
何の気なしに言ったことが明白だからこそ、鳴は今度ばかりは憤らざるを得なかった。
「それはないでしょう。俺はこいつとずっといつ死ぬか旅を続けてきたんだ。それを誰かに批判される筋合なんてないね」
「ははっ、やっぱり話が分かるわ鳴は!」
したり顔の妖精。
ゴードンはこの類の人間と妖精をいまだ見たことがなかった。
妖精。恐らくは、滅ぼし尽くされた戦士階級の最後の生き残りなのだろう。
そして、高崎鳴。最低限の節度しか持ち合わせず、そのくせ分別に富んでいる人間。一体どのような過去を経て、そのような人間に仕上がっているのか。
(面白い人間だ……)
王者とは常に孤独なものなのだと教えられて生きてきた。民を導き、臣下たちを導く者に、一切等しいものなどいない。
その孤独という宿命を背負って生きていくものだと疑わなかった。だが、その宿命は破られた。
ある日目覚め、いつもと同じように部屋を出ようとしていたその時にポルフィリオが扉を開いた。
かつては、ゴードンが絶大な信頼を置いていた男だ。それなのに、
「殿下。あなたのお命を頂戴いたします」
その懐に、短刀を忍ばせていたのだ。
「裏切ったのか、ポルフィリオ!」
いついかなる時もその従者は表情を変えたことなどなかった。常に冷静沈着で、全身が仮面で覆われているかのようにその心情は見えない。
この時ですら、彼はゴードンに忠誠を尽くす人間のままその命を奪おうとしていた。いや、であったからこそ、その表情が憎々しく思える。
魔法使たちが呪文を唱えながら、城の各部分を透明な部分で塞ぎ、逃げるのを防いでいた。ゴードンは体力を消耗するのを覚悟の上で、魔術で壁をすり抜け、一番下の階へ降りた。
それから馬に乗って都を後にし、ゴードンは逃げた。それから王子は一切の身分を奪われ、放浪する身となったのである。