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第三話 買う。金は十分ある

 鳴の腕は衰えていなかった。

 姉に荒事を禁じられている以上、むやみやたらに手をあげるようなことはしない。しかし、住民の間にのっぴきならないトラブルが発生したなら話は別だ。

 鳴が手を出したのは、村の外れで静かに羊飼いをしているイアンなる人物。

 ブリュンヒルデに懸想していたが、拒まれてからは彼女を恨むようになっていた。復讐しようとしていたらしい。

「さあ、俺の女になるって言え!」

 イアンは遠い場所で羊飼いをしていた。羊飼いは疑われることが多い仕事だ。

「このままだと俺の土地を継ぐ奴がいなくなるんだ。先祖代々の財産も絶えちまう!」

 鳴はこの時外から大きな声がするのを聞いていた。

 ヒルダは最初から死んだ魚の目のように嫌悪感を隠さない顔をしていた。キルデリクにしても、肉屋のジェラルドにしてもそうだ。この羊飼いは誰にもいい印象を持たれていないらしかった。

「あんたみたいに誰とも話さずに自分の牧場に引きこもっている人間が、羊か狼とたわむれていればいいのよ」「お前しかいないんだ」

 ヒルダは他には決して見せない荒々しい表情で叫ぶ。

「そこのナルとかいう小僧と昵懇らしいな。同じ流れ者のくせにそいつばかりはもてなしくさるのか」

 鳴はいよいよ空気がはりつめてきたのを読んで、家から出てきた。

「俺を呼んだのか?」

 牧人は鳴を見るといっきに不満を爆発させる。

「お前はどんな魔法をかけたのか知らないが、」

「私にしてみれば、あなたの方が色情に狂う魔術をかけられているのよ!」

「この淫売の娘――」

 もはやそれは喧嘩といったものではなく、場を収めるための技術でしかない。

 その腕を軽く避け、脚に軽く蹴りを入れる。

 イアンは鳴が小柄の割に力が強いことに驚いていた。

「ぐはっ!」 急所を蹴り上げられ、完全に戦闘不能に。

「次にヒルダに手出ししたら次こそ容赦しない」

 拍手が巻き起こったがさして嬉しくなかった。姉の言葉を裏切ってしまったのだから。

(あの世界も十分ひどいがこちらも大概だ) 鳴は明確に、村人の中に争いを好む気性があるのを悟った。

「ハロルド!」

 一回り体の小さい小男が腕に握りしめ、イアンを連れて去った。

 ブリュンヒルデは、鳴がそんな風に憂えている理由が分からなかった。すでに彼のいる生活に慣れてからというもの、一度もヒルダの中で鳴への評価が下がったことはない。それどころか、

(この人なら、私も一緒に歩めるかもしれない)

「ねえ、私、あなたのことが好きなの」

 ヒルダがあまりに鳴のあちこちを触るので、鳴は少し気が変になりそうだった。

「よしてくれよ。そんな親しい仲じゃない」(俺はあくまで元の世界に帰るのが目的なんだ)

「でもあなたは私を助けてくれた。それが、私を想ってくれている証拠なのよ」

 ヒルダはこうなると止まらなかった。自分の願望と現実が入り混じったことを自慢げに語り続ける。

「結婚相手はいつも親に決められるのが常だった。本当に好きな人と一夜を共にするなんて夢のまた夢。結局満たされない一生を送ることになる。でも私はそんな型にはまった人生なんて送りたくない。それなら私、この村を出てってやる」

 ヒルダは言い切った。

「言っていいのか、そんなこと?」 永遠にさまようことだ。

「私、あなたといる方が楽しいに決まってるもん!」

 鳴は、この世界を淡々と見つめるだけの自分に罪深さを覚えた。恥ではないのだ。

「さすがだ、鳴。私が勤務していたころの軍隊にもお前ほど取っ組み合いに強い奴はいなかったぞ」

 キルデリクが賞賛。しかしそれはイアンに対して言い聞かせるような距離があった。


 だが鳴にとってそれは別の大きな出来事ではなかった。南の異国から行商人が来る時期になっており、買い付けを恃まれていたのだ。

 珍しい織物が並んでいた。綿織物もあれば香料の詰まった袋もある。しかし目当ての物は薬だ。アルカディアはさほどこの手の品に恵まれていないので、大量に備えておくしかない。

 あらゆる品の中に交じって、瓶の中で小さな人影がのたうちまわっていた。

 妖精。よく見ると、二対の羽があり、緑色のぴっちりしたシャツを着ている。とても苦しそうにしている。鳴は同情するというよりはむしろ驚いて、商人に尋ねた。

「これはいくらだ?」

「うーん……この先がないから、五十ディナールくらいかな」

 商人の言葉には悪意がない。

 悪意がないというより、他人の痛みに鈍感なのだ。もっともそれは、野卑な会話でもつくづく感づいていたことでもある。自分以外の感覚への想像力がない。こればかりは、たとえ何年過ごそうが許容できそうになかった。

「買う。金は十分ある」

 妖精の苦しそうな様子を見ると、すぐ解放してあげたくなる。

 なかなか高い買物だ。驚かれるだろうが、仕方がない。


 鳴は帰りを急いだ。カルミナ村の夜は早い。特に今は日の出が短い期間と来ている。

 車を引き、片腕に瓶を抱えるこの姿勢はだいぶ疲れるものだ。しばらく歩くと瓶のふたが破れ、そこから妖精が飛び出した。まだ、わずかに力が残っていたらしい。

「おい、逃げるなよ!」

「うるさい! お前ら人間になんて飼われたくない!」

 妖精は羽ばたいたが、次第に力を失い、墜落してしまう。

 鳴は、手のひらに妖精を載せた。

「うんっ!?」

 急に全身に電流が走った。

「何……するんだ」

 鳴はその衝撃にめげず、すぐに立ち上がった。

「お前らなんて……許さない」

 妖精はその小さな目に、怒りをたたえていた。鳴は、その感情が本物であることを直感で悟った。

「あたしは、一人で……」

 そのまま妖精は立ち上がろうとした。しかし、腕を折るだけの動きがやっとで、蝶のような翼も弱く揺れるだけ。

「だめだ。このままだとお前はどうなるか分からない」

 鳴には妖精を捨てておくという選択肢などなかった。車の籠に載せて、思い切り走り、家に帰るとすぐに妖精を布地に載せ、水を含んだスポンジで口を濡らす。

 かなり青白い顔をしている。そこにキルデリクが入ってきて、不審な表情を見せた。

「おい、やけに遅かったな」

 最初から、率直に事実を告げる。

「妖精を拾ってきたんです。だいぶ弱ってた」

 その時、鳴は心筋から寒い思いをした。

「お前……」 キルデリクは言葉がなかった。それは驚きであり怒りではあったが、妖精その物に向けられたものではなかった。むしろ、鳴に向けられていた。

「ハイランドへの異種族の持ち込みは禁止されている。」

「お前の気持ちは分かる……だが、我々にまで危害が及ぶんだ」

 キルデリクの言葉は重々しい。

「捨ておけ。上の奴らに見つからないように」

 妖精がここにいることは、どうやら相当あってはいけないことらしい。さすがに鳴も逆らうわけにはいかなかった。


 鳴は村のはずれにある丘に行くと、ぽかりとあいたくぼみの方に入っていった。

 そこでごく小さな声、妖精に対してささやいた。

「すまない。お前はこの村にはいちゃいけないことになってしまった」

 後ろから誰かが見ていないかどうかおびえながら、早口でささやく。

「村にとってはまずいことらしい……多分、禁じられてるんだ」

 妖精は、ほとんど生気のない声。

「当たり前だよ。奴らは人間以外を見下しているんだから」

 こののどかな村に凄まじい戦争の歴史があったことはつくづく感じていたが、その当事者を相手にするとその重々しさが違う。

「そもそもここは、人の住む場所じゃない。このハイランドも元々妖精やエルフの住まう国。でもあんたたちは森を焼いて、何もない野原にしてしまった」

 架空の種族だとばかり思っていた生き物が実在する世界であることに深い感慨を寄せた。確かに、悲惨な歴史だ。だが、まだ鳴にはそれを受け止めきれるだけの心の準備はなかった。

「そんな歴史が……」

「人間がなぜ妖精を救うの?」

「当たり前だろ。苦しんでるのを見て放っておけるかよ」

「何それ……人間がそんなことを考えつくの? 気持ちわるっ」

 妖精の心の傷は本物だ。少し手を差し伸べても、いや、差し伸べた所でその慈悲がひたすら傲慢に受け取られるだけだ。

 しばらく妖精は怒りをたたえて鳴の顔を凝視していたが、その感情にも呆れたのか、こうつぶやいた。

「あたし、エレクトラ。雷の妖精」

「エレクトラ?」

「こう見えても、妖精の王家の末裔よ。尊重しなさい」

 声は甲高いが、それでも気品を失ってはいない声だ。

 鳴は人の気配がそばにないかどうか心配しながら、

「まだ君は回復してない。あとでまた助けに来るよ。パンとか牛乳とか持っていくから。ここにさえいれば探しに来る奴もいないしな」

「妖精はあんたたちの贈り物なんて受け取らない」

 しかしその瞬間、妖精の腹の虫が鳴いた。エレクトラはわずかに笑みを浮かべた鳴にだいぶ腹を立てたらしく、羽のあたりから放電している。

「口ではそういうが体は正直だろ」

「悪夢だ。私が人間相手に世話されなきゃいけないなんて」

 だが、もうすぐ日が暮れる。キルデリクたちは時間にうるさい。帰るのが少しでも遅ければ彼らに叱責されるだけではすまないだろう。

「じゃあ、またここに来るから。それまでは辛抱してくれ」

(こいつ、どうして私に対してなれなれしいの)

 鳴の誠実さを尽くした言葉も、エレクトラは信じる気になれなかった。それでもここまでされると、その恩を無下にする気にはなれなくなった。

「あたしがここにいるのは、あいつらには絶対内緒。でなきゃあんたら全員疑われるよ」

 妖精はしゃべるのも嫌そうだった。鳴は手を合わせて頭を下げ、そこから去っていった。

「来るわけない……」 後ろから妖精は言った。少し鳴の心がうずいたが、彼らの事情を慮ればそうなるのもやむを得ないと少年は納得していた。


 帰ると、キルデリクがいた場所でヒルダが働いていた。

「どうしたの、鳴?」

 当然、ヒルダには秘密だ。

「別に、何でもないよ」

「また私に秘密がある。もう私に秘密は作らないって言ったじゃない」

 ヒルダは思い切り不服な表情だった。自分こそが鳴の最大の理解者であろうとすることに躍起になっているのだ。その大切さが、時には苦しくなる時も。

 鳴は事実を伝えるのに、非常に迷った。自分の行動次第では、みんなを迷惑に陥れるかもしれないのだ。

「妖精を拾ったんだ」

 できるだけ小さい声で、耳打ちする。

「妖精!?」

 ヒルダは、一瞬だけ大声になって、またすぐに息を飲んだ。

「ああ。商人の所で売られてた。苦しんでたから解いてやったんだ」

 鳴のこの行為には、少女さえ怖気づいた。

「そんなことをしたら私たちが疑われることになる」

「おじさんに言われたよ。捨てろって。でも本当は丘の洞穴に送ってやった」

「まさか世話をしようって言うわけじゃないわよね?」

「鳴は優しすぎる。私にはそれが怖い」

 ヒルダの心配する顔を見た。もちろん鳴はそこに罪悪感を覚えた。しかし、どこかでその罪悪感すら突き放す何かがあるのは事実。

(ああ、ただの良心からくる優しさじゃないのは確かだ)

「俺は正しいと思ったことをやっただけだ。それで他人がどう思おうが俺の責任だ」

 鳴は、心のどこかで冷徹だった。カスパールの言葉が聞こえなくなって時間が経つが、これは自分の生活が遅々として進まないからだと確信していた。この村にいるままでは何も変わらない。早く次の段階に進まなければならないのだ。

 これこそヒルダに一番言えないことだ。

「分かったよ。確かにこれは鳴と私の秘密」

 鳴のそういう所にヒルダは惹かれつつあった。彼は基本的に自分のことを離さない。だが、それでも色々なことを経験してきたのだろうということは分かる。彼が他人を想う心は本物なのだ。

(もしかしたらあの子も、何か話してくれるかもしれない)

 鳴は何をやるにしても真摯だった。ヒルダはますます、鳴のために自分に何ができるか考えずにはいられなくなった。

(そのために、私も鳴のためにがんばらなくっちゃ……)


 電気がないこのアルカディアでは、夜とは世界のもう一つの姿だった。照明をつけて昼を伸ばす発想など皆無だった。たとえ夜の間に起き続けているとしても、やることなど何もなかったあるとすれば、それは到底人に言えないようなことだ。

 イアンはまだ鳴にやられた痛みを引きずっていた。

 彼は孤独な身の上だった。羊飼いは神話や昔話にはよく出てくるが、実際には世間に認められることのほとんどない仕事だった。

 あのドワーフに似た顔のガキを絶対に陥れようと心に誓った。だが、どうやって陥れよう。

 彼はキルデリクの家の壁際でひそかに止どまっており、そこで鳴とブリュンヒルデの会話を盗み聞きしていたのである。もはやこの地のかつての住民だった妖精が姿を消して久しいが、鳴はその妖精を見つけてしまったのである。世の中に疎いイアンでも、それがどれだけ忌まわしいことか知っていた。そこにイアンは、鳴を追い落とす大義名分を見つけたのである。

 すぐに彼は、松明をともして夜道を歩いた。普通の人間なら獣に襲われるのが怖くて進めない所だが、土地勘が鋭いイアンはそういった心配をする必要がなかったのを知っていた。

 そして、鳴が丘のどこかに妖精を置いていったということも。妖精を放っておけばどうなるか、思い知らせてやらずにはおけなくなった。

 鳴はまさに、エレクトラの元に向かっていった。誰もが寝静まった後、密かに家から出て、食べ物や水を持っていく途中だった。

 キルデリクたちの反応からして、それが公権力から決して許されないことだと知ってはいたが、エレクトラの可憐な姿を見ると、どうしても見捨てることなどできはしなかった。

 その鳴の姿を牧人は目撃した。この時点でイアンはこれからどうするか、めどがついていた。

 静かに近づくとまるで刺すような動きでその体をつかみ、後ろから羽交絞めにした。

 鳴は低い声でうめいた。

「おい……やめろ」

 鳴にとってそれはあまりに突然のことだった。戦いの技能もこの窮地においては何の役にも。

「よくもこの俺をこけにしやがったな……だが、そんな日もこの夜に終わる」

 イアンは鳴の頭を押さえつけ、岩壁の無理やりごつごつした面にぶつけた。鳴はすぐに意識を失った。イアンはさらに丘のくぼみの中に入っていった。

 藁を積み、布で覆われた上に妖精の姿はあった。ぐっすりと眠っているらしく、イアンがすぐそばまで近づいてもほとんど身動きしなかった。

 牧人は妖精をつかむと、闇夜に隠れていった。

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