第二話 君も優しい
青白い空に満月が登っていた。ブリュンヒルデが隣の部屋で大きないびきをかいていたが、別にそれは安眠をさまたげる理由にはならなかった。あまりにも急な出来事が多すぎて、頭の中の整理が追い付かないのだ。
鳴は、日本での日々を思い返していた。
母が亡くなったのはまだ鳴が三歳のことだった。父は仕事に忙しく、夜遅くに少し姿を見せるだけで実際に一日を過ごしたのは指折り程度しかない。
彼には姉がいた。姉のためなら、自分がどんな危険に犯されようと絶対に守ってみせると心に誓ったのだった。
鳴が住んでいた地域はあまり治安が良くなく、よくガラの悪い連中によって時たま傷害や強盗が起きるような地域だった。歓楽街と隣り合い、人がよく集う場所だったからでもあるが鳴はその中での社会の厳しさを知った。
成績が良かったとはあまり言えない。
ほとんど殴り合いばかりしていた。おおよそ勉学などに力を入れる時間などなかった。他の学校の人間を相手にすることもあった。
(俺が戦いたかったんじゃない。あいつらから勝手に襲い掛かってきたんだ)
さして鳴は強いわけではない。負けることの方が多かった。それでも、強者たちへの反骨心で何年も耐えてきた。いつも帰る時はぼろぼろになっていたのだ。
「また喧嘩して……!」
叱りつつも、傷だらけになった鳴を麻理はやさしくタオルで拭いてあげた。
「だってあいつらが姉ちゃんを馬鹿にしたからだよ。あいつらの方から襲いかかってきたんだ」
「たとえそれがどんなに正しいことだとしても、危険なことをして欲しくないの」
その時では自分のやっていることにまだある程度の名分があると思っていた。だが単に気に入らない相手だから食ってかかったということも少なくなかった。
少年はどこかで、自分の存在価値を求めていた。
鳴が喧嘩をやめることを決意したのは、高校を卒業するかしないかの頃だった。周囲の人間の変わりぶりを見るにつれ、もう自分が大人にならなければならないことを理解していったからだ。……何より、人間の嫌な部分を最悪な形で見てしまったからでもあるが。
それからはほとんど拳を振るうこともなくなった。嫌な奴は依然として多くいたが、それでも言葉でしかりつけるだけで済ませる分別も身に着けていた。格闘技にはまったことも大きいかもしれない。それは戦う術を鍛えるように見えて、実際には心を鍛えるものだと気づくことができた。
その時に姉がいることの頼もしさも初めて分かった気がする。ようやく、鳴は真人間になろうとした。その矢先に、この異郷に来てしまった。
弟は恩返しもせずに、勝手に死んでしまった。姉がどうしているのか、心配でならない。
あの、苦しいけれどどこかで充足感を感じていた日々。しかし、そこからが思い出せないのだ。
何かがあったのだ。その『何か』の光景を思い出そうとすると急に薄靄がかかってしまう。そこだけ、記憶から完全に抜け落ちている。
父の姿……そして、剣のようなものが。光。幽体のまま漂っていた時に目撃したのとは違う、よりとげとげしい光。焼けつくような光。
急に頭痛がした。不意に頭を抱える。もう、鳴は失われた記憶を探るどころではなかった。
そして――あの時に至る。空の上から自分の死体を見ていたあの瞬間に。
(いや、今それを考える必要はない)
鳴は諦めた。この記憶がいつ戻るか分からないが、とにかく今は待たなければならない。
あのカスパールが言った通りに行動すれば良いのだ。
蛙や蝉の音がひっきりなしに聞こえてくる。向こうで、夜遅くの道を歩いている時に聞こえる虫の音よりもそれはうるさく不快で、容赦がなかった。
現実の不愉快さで気がまぎれるとしても、不本意な感傷に浸ってしまうのをどうしても抑えきることができなかった。夕暮れに飲んだ水には酒が入っていたらしい。そういえば昔は水よりもワインの方が主要な飲み物だったと何かの図鑑で読んだような気がする。
騎馬兵がやってくることはなかったが、村の大人たちの間にはここ数日ピリピリした空気が漂っていた。この村以外にも世界は広がっている。
鳴はようやくこの村の外の世界についても関心を持つようになった。
「あの方々、やけに敵意がみなぎってましたが……何かあったのですか?」
鳴はまだ会って日の浅いキルデリクに、恐る恐る尋ねた。キルデリクは彼がそういう話題に興味を持つことに怪訝な感じでならないようだったが、鳴が解説を渋るとようやく重い口を開いた。
「大公殿下は我々を信用していない、ということだ」
「大公?」
「このハイランドを統治なさっているリカルド様のことよ」 横からしたり顔でブリュンヒルデ。
「じゃあ、アルカディア全体は?」
「国王陛下だ。しかし今は陛下が崩御した今、その権威を脅かすものがいるのだ!」
(ああ、この国は王によって統治されているわけか)
「大公殿下は意のままに陛下のご子息を操ろうとしている」
かなりの説明を要しなければいけないと感じ、鳴はあえて深く聞かないことにした。
「大公様は国王に反乱を起こした後、この国のほとんどを制圧した。その支配からゴードン王子だけが逃延び、今も王国のどこかに潜伏しておられる」
「でも、何でキルデリクさんがそれを?」
「十年前まで大公様の軍隊に奉公していたことがあってな。それで中央の国王軍とも戦ったことがある。背中に追った傷はその時の物だ」
ブリュンヒルデが付け加えるように言う。
「そうそう、それで勲章をもらったこともあるもんね」
キルデリクは静かに叱った。
「声が大きい。……カルミナ村はその領地の一つだ。だがゴードン殿下がこの村に滞在したことがあるというあられもない噂で、奴らに常に目をつけられている」
鳴は、この世界の姿を少しだけ垣間見たような気がした。
「だが問題はそれだけじゃない。他の地方の中には大公様の支配を受け入れない者もいる。そういう時に戦争に駆り出されるかもしれないんだ」
キルデリクの深刻そうな表情に比べると、ヒルダはきょとんとした顔のままでいる。恐らく、誰もがこういう事情に関心のあるわけではないのだろう。ここにはSNSやテレビはないし、まして新聞すら存在しない。遠くのことは人から聞くしかないのが実にもどかしかった。
農作業は常に単調で、常に様々なことを考えていないと気が狂いそうになる。
ヒルダは非常に力が強く、鳴がほとんど足を棒にしてしまってもひたすら土を開墾し続けていた。
こういった仕事は手作業だったが、特に水を組み上げる技術に関しては魔術を使っているとのことだった。これを聞いた時ばかりは心の底から驚いた。鳴のいた世界では全くの幻想と考えられている魔法がここでは実在しているし、公共の利益に役立てられている!
カスパールの蘇生技術があるのだからそこまで驚くに足ることではないにしろ、このような田舎びた村ですら魔術による技術がもたらされているのは注目すべきことだと鳴は考えた。いっそここでの見聞を一冊の本にでもまとめようかと。だが無論、綺麗ごとでは済まされないこともある。それが家畜を殺して食肉にすることだ。鶏を殺すように言われた時は一匹殺しただけで鳴は精神的に深い傷を負い、数日間グロッキーになっていた。だが日本で目撃することがなかっただけでそれは世界中にありふれた光景だと思うと、これにもやがて適応してしまった。
しかし最も鳴が苦しんだのは、とにかく娯楽がない、ということだ。ゲーム機もテレビもないので、話すことしかない。
だが鳴は姉以外の人間とは滅多に口を利かなかった。口を利いたとしてもそもそも内容のある言葉などではなかった。だから話のネタをひねり出すのにかなり四苦八苦した。だが村人の方では割と口にすることに容赦がない。時には性に関する話題もあった。媚薬の作り方をキルデリクの顔見知りに聞かされた時は思わず耳を覆ってしまった。
黙っていることがほとんどなかった。無理にでも誰かと共にいること、話すことを強制されているような気がした。これが基本的に個人主義の鳴には割かし重荷だった。もしこの共同体以外の元で暮らすなど、村人には想像もつかない様子だった。
「お前はこれまでどうやって過ごしてきたんだ?」 訊かれるのはたいていこれだ。カルミナ以外での暮らしがどういうものか、キルデリク以外は誰も知らないのだから。村を出たらたちまち食うや食わずの日々が始まるものと信じている。
この村では子供も社会の一員だ。鳴の素人目から見ても、あまり子供という扱われ方をされていないように見えた。常に働き手を求めているからとしても、基本かわいらしい物とは感じていない感があった。大人と子供の区別が曖昧なのだ。過酷な環境のせいか、当の子供たちも本当に大人びた表情をしていた。とても幼年期を楽しむ余裕などないのだ。鳴は彼らを特に憐れむ気はなかったが、改めて元の世界での生活がどれだけ恵まれたものだったか実感した。
カルミナ村で暮らしてからすでに一か月が過ぎようとしていた。鳴はこの村の風習に慣れようと必死になるあまり、前世でのことすら一時忘れかかっていた。そのたびに姉のことを思い起こし、望郷の念を一気に強めた。
そして、この村でのほとんど唯一といっていい特別な日がやってきた。
何百年も前から、その日だけは一年で必ず空が晴れている、という伝承が信じられている。その日だけは年盛りの女たちが身を這いながら、地上の女神に感謝の捧げものをするのだ。畑の方からはほとんど聴き取れもしないような騒がしい祈り。最初異様な感じがしてしまったが、やがてそれにも見慣れた。
ヒルダももう少し年を取ったらこの祭りに参加するのだという。この祈りに交じって失恋した相手の呪いも吐いてやるとすら言った。
「まあできるなら、私を勝手に振った奴らを腕でつかんで、水槽に投げつけてやるんだけどね!」
しとやかな声に反して、激しい気性の持ち主だ。姉とは全く違う種類の女だが、それでもどこか母親の面影を幻のように感じてしまう。
「一応ああ見えてもちゃんとしたしきたりがあるのよ。ちゃんと先祖の慣習に従ってあの儀式を取り行ってるわけ」
「俺には好き勝手やってるようにしか見えないが……」
「本当、自分の思った通りのことを言うね……でもそういうとこ、嫌いじゃないな。ねえ、やっぱりあなたはここで暮らすのが似合っているわよ。昔のことなんて思い出さない方がいいんじゃない?」
ブリュンヒルデの好意はとても嬉しい。しかし、鳴にはそれを素直に喜べない理由がある。
「元の世界に帰らなきゃいけないんだ」
若干の間を置いてから、告げる鳴。
「元の世界に?」
ヒルダにはその言葉が脈絡のない物に聞こえたらしい。
(しまった。もう少し言葉を選ぶべきだった)
秘密を漏らしてしまい、焦る表情を禁じえない鳴。
「いや、元の世界なんてないよ、僕はただ……」
腹立たしげな表情を浮かべたので、思わず気まずくなる鳴。
「嘘ついたわね。あの時あなたは昔のこと全部覚えてないって言ってたじゃない」
長話をそう何回も繰り返せるほど鳴も気が長い方ではない。ややぶっきらぼうになって、
「あの時はどうしようもなかったんだ。全部話したところで理解しきれるわけないし」
「理解できるとかじゃなくて、まだ私と鳴の間に秘密があるのが気に食わないの」
鳴はほとんどやけになった。
「今だって、俺はあんたたちにとって赤の他人だろう? どこかで不審に思ってる」
ブリュンヒルデは、鳴の卑屈な様子にあきれてしまった。
(この子、まだ私たちが怖いんだ)
ヒルダは鳴に好漢としての側面を見ていた。あらゆるものに対して始めて見るかのように目を輝かせ、急速に知識や技術を物にしていく鳴がとても頼もしい存在に見えた。その鳴がまだ自分の秘密に関して臆するものがあるという事実に、ヒルダは悄然としてしまうのだ。
「何を言ってるの。この村で生きていくには、助け合わなきゃいけないんだから」
ブリュンヒルデの優しさと物わかりの良さには少し恐ろしくなった。
「純粋すぎるんだよ、みんなが。もうちょっと人を疑う心があるんじゃないのか」
安心させようとして、白い歯を見せて笑う。
「あなたがね、私の父みたいに見えたからよ。お父様もとても、あなたみたいに精力的な人間だった」
「父さんに……キルデリクさんは?」
「あれは伯父よ。お父様は若い頃に亡くなってしまったからおじさんが私を精一杯育ててくれた。でもやっぱりお父様のことは今でも夢に見る」
鳴は家族に恵まれなかった自分に若干の情けなさを覚える。
「たとえあなたがどこの誰であっても、根が真面目で強い人だってことに変わりはないんだから。それに……優しい」
「君も優しいよ」 鳴は考えもなくそう言った。
「えっ?」 ヒルダはいぶかしんだ。
「普通に、それだけだよ」
嫌味を言ったわけではなかった。ヒルダがそういう人間だというのを認めただけだった。
それでも鳴はふと自分の体がほころぶのを隠せなかった。こんな感情を姉以外の人間に向けるとは、俺も変わったものだという感慨に、つい。ただ、二人は少しだけ顔をそらしていた。目と目が絶妙に合っていなかった。いまだに、二人は幼馴染か、姉弟のような関係のまま止まっていた。
ヒルダはまだ鳴に愛を打ち明けるほどの情熱を持ってはいなかったし、鳴もヒルダに対して好意を持って接してくれる貴重な人間、以上の感想を持っていなかった。
「それにしても月がまんまるじゃないのが残念だわ。雲がなかったらどんなに美しいことだったかしら」
「そうか? 俺にはむしろ欠けてる方が美しく見える」
月がほとんど闇に覆われ、刃のような弧を描いていた。月模様の移り変わりに、鳴は自分がいかに空をよく見ていなかったか痛感した。時間と言うものが、針や数値よりももっと身近な自然の事象で示されるということも。