第十九話 俺たちの旅を続けるぞ
ローゼンクロイツの家長の元に行けば、この世の秘密が何か分かるかもしれない。
それが過信でしかないなど鳴は最初から分かっていた。勝手な期待に過ぎない。だがそれでも、鳴は焦っていた。もう一つの世界の状況がどうなっているかさっぱり分からないのだから。何より、馬が使えなかった。
巨人を倒してから、ブーケファルスの動きは鈍っていた。関節が硬直したように前に進まず、装甲の所々に傷が走っている。
あの形態になること自体、相当な負荷がかかるらしい。しばらく自然治癒させるために、鳴はブーケを呼ばないことにした。もしかすると、無理をしたはずみに壊れてしまうかもしれないから。
だから北国の港までは陸路で行かなければならない。今、全アルカディア中にハイランド大公の監視の目が光る中、目立つわけにはいかないのだ。戦場での戦いでは特に。
カルミナから相当北へ離れたに違いなかった。今いる場所が地図の上でどこになるかすら、鳴ははっきりとは記憶していなかった。ただ海岸沿いに進んでいることは確かだった。時折、かすかな潮風を歩く横から感じるのである。
「これまでどれだけ旅費にあてた? どれだけパンと卵に使った……」
男爵との戦いの後、鳴は再び粗末な食事にありつくようになった。旅は常に空腹との戦いだ。一体どこで生き倒れてしまうか分かった物ではない。
袋をまさぐりながら、金貨を確かめる。過酷な道をたどってきたことを思えば恐らくこれでも足りるとは限らない。だが十分過酷な環境を生き抜いている知識は心得ているから、野宿する羽目になっても飢える恐れはないはずだった。
胸にはペンダントがかかっている。噂の真偽もしれない怪しげな品物だったが、ここまでの旅路の中ですっかり鳴の身体になじんでいた。
少年は丘の上で桶に腰を曲げ、顔を洗っていた。周囲にはいまだ拓かれていないままの荒野が地平線まで続いていた。顔を洗い終えると細い小枝で歯を磨き始めた。ムカデを焼いて食べた後の硬い物が歯に挟まっていたのだ。
もうこの獣のような生活を続けてから二十年になる。
そんな身の上に恥を感じることも、不安を覚えることもない。少年は、未来を奪われたからだ。突然、自分がこの世界に呼ばれた理由の、その真実を知ってしまってから。一瞬で少年の存在理由は砕け散った。これが本当に何か霊験あらたかな品物であるのか、
(俺には、思い出すべき過去もない。あの過去にも、意味がないことを証明されてしまったのだから)
彼はあらゆる人間を憎悪していた。自分自身も憎悪していた。ただ、存在している限り逃れられない憎しみで、この世界を破壊してしまいたかった。
彼には徒然、話す人間もいない。独り言をつぶやくことすら、ほとんどない。
だが、あまりにしゃべらずにいると、いつしか人間の言葉を忘れてしまうかもしれない、という恐れからたまに言葉とやらを使っているに過ぎないのだ。
いっそ自分が人間であることすら、忘れてもいいはずなのだ。それでも、忘れられないことがある。そのことが、この少年を人間であることから引き離さない。
エルフの少年。狭い世界の中で閉じこもったまま一生を終えるのは嫌だと、故郷を飛び越えた少年。
だが、一本の光がそのエルフの腹を突刺した。少年の卓越した力でさえ、それを防ぐのは不可能だった。
思わず、その場に駆け寄った。
「エレミオっ……!」
少年は慟哭した。
どれほど魔法を極めても、死人を蘇らせることは決してできない。
どれだけ忘れたくても、あの瞬間、あの場所に帰ってしまう。
そして、少年は我に返った。もうあれが過ぎ去った日々であることを想い、そしてそこから未だに脱出できずにいる自分を愧じた。
(もう俺は、こんな過去からもう自由になっていいはずだ)
「ははっ……夢か。まだ俺はあの時のことが忘れられないのか」
三賢者はいまだに召喚者を作り続けている。それがあの高咲鳴だ。
少年を目を閉じた。そして、周囲の空気に神経を研ぎ澄ませた。
すると、四方で何が起きているか、視覚や聴覚などあらゆる感覚を通して少年の頭脳に流れ込んできた。
この少年の体内には、想像を絶するほどの『力』がみなぎっている。それは今も育ち続け、少年自身が予想もしないほどの知恵や能力を与えるほどにまで錬成されている。
しかし、それが完成されたものだとは決して言えない。
(あいつがアントニアノープルに行くのは阻止せねばならん)
少年は左手を強く握りしめ、そして一気に開いた。すると光がほとばしって草叢の中に忍び込み、二つの人影をかたどってそこに立ち上がった。
「有馬翔太、関直隆、鳴を止めろ」
二人は少年の言葉を聞いて、うなずくと、黒い霧に包まれいなくなった。
ふと行商人からリンゴを買った時、鳴はこんなことを問うた。
「異世界からやってきた英雄の噂について知らないか?」
「英雄……?」
「王都でよく聞かされたんだ。巨大な馬に乗って戦ったとされる英雄の話を。二十年前に確かにそういう奴がいたんだ」
鳴は何としてもこの話の真偽について訊きたかった。少なくともエルフの里ではそれは周知の事実だったのだ。だが外の世界では事情が違った。
「私たちもよく知りません。ただ昔そういう伝説があると聞いただけでして……」
(やっぱり誰も知らないのか)
鳴はローゼンクロイツ家以外のことに関しては、まともに情報を得ることができなかった。
鳴の中で、あの賢者たちが魔法か何やらで人々の記憶を操作しているのではという疑惑が一層強まった。
「できないよ、そんなの」
エレクトラは否定した。
「魔法で人の記憶を消すなんてことできない。せいぜい感情を操作することしかできない」
「俺みたいな人間が他にもいるんだぞ。それなのに、誰も思い出す人間がいないんだ」
王都に残された、かつて二人の人間が争ったとされるクレーター。
あのことでさえ、誰もが気づけばある、という程度にしか捉えていない。
以前エルフの里を抜けた時、出くわした少年のことを思い出した。
やがて谷間の中にさしかかった。側を川が流れており、
やがて開いた場所に出た。そこは緑の多い場所だった。
小川を眺めた。何となく、故郷で姉と一緒に散歩したことを思い出した。
あの日々に戻れたらどれだけいいだろうと思った。
「鳴が暮らしていた世界ってどんな所……?」
「こんな世界よりもよっぽど過ごしやすい所、かな?」
「過ごしやすい……? もっと聞きたい!!」
発端が何だったのか忘れてしまったが、ふとこの話題になった。するとエレクトラは色々質問し始めたので、鳴は話すのにすっかり疲れてしまった。
そしてついに麻理の話題になった。鳴がいよいよ根を挙げた頃、急に雨が降り始めた。
誰も立ち入った形跡のない山の中、洞穴で寝泊まりすることにした。
鳴はそろそろ現実に引き戻されてきていた。すると、旅先に向けてだんだん不安な感情が募り始めてきていた。
(一体こんな旅に何の意味がある? あいつらは、結局どうするつもりなんだ……?)
けれど、その憂鬱な心情を妖精には明かさなかった。
この先の不安さと、過去の恥ずかしさにさいなまれた後、あの学校でのことも話した後で、結論を言った。
「いい人だったよ」
「お姉ちゃんは鳴のこと、どう思ってたの?」
「それは……」
すぐにでも会話を切り上げたくなってきていた。長々と話すうちに、鳴はこんなことを懐かしむべきではないと考え始めていた。それなのにこんな風に過去を振り返ってしまった。
自分が、虚ろな人生を送っていることに気づき始めてしまったから。
だが、急にそのアンビバレントな感情が、一気に憎らしい方向に傾く出来事が起きた。
二人の目の前に、見覚えのある人間が立っていた。
「カスパール……」
「だ、誰?」 エレクトラは戸惑っている。
戸惑いたいのは鳴の方だった。今まで話をするのはどこともつかない別の空間だったのに、ここは他でもない、さっきからいる洞窟の中だからだ。ここで鳴が見たカスパールは、あの見慣れた姿に比べてもだいぶ場違いな印象があったし、威厳を欠いていた。
「高咲鳴……アントニアノープルに行くな」
カスパールは忠告した。珍しく、ひどく気の抜けた声だった。
その顔にしても、今まで鳴に見せてきたものとは比べ物にならないくらい、憔悴しきって老けていた。
憤った。
「ふざけんな!」
鳴はカスパールの腕をひっつかみ、あらぬ方向に曲げようとした。
「や、やめろ!!」
カスパールは叫んで、脚をばたばたさせて鳴に軽い蹴りを入れた。しかし鳴はひるまなかった。
この際鳴が痛がらなかったのは、別に憐憫を見せたからではない。賢者が想像以上に華奢な身体だったことに驚いてしまったからだ。魔法に関しては驚くべき技巧がありながら、腕っぷしは人並みよりも弱い。
「何だ、その程度なのか?」 カスパールの情けない顔つきが、ますます鳴を憤懣やるかたなくさせる。
「メルキオールはどうした? 仲間の危機に助けにこないのか」
死に絶えそうな低い声、
「奴はもはや我々の計画に参与する気がない。じきにあのお方にもたてつくに違いない――」
「いい加減にしろ! 本当は俺をいいように扱って使い捨てるつもりなんだろ!?」
眉間に思い切りしわを寄せ、
「あの大きな剣を帯びた少年は何なんだ? なぜブーケファルスを呼べた……なぜ俺の名前を知っていた……!」
エレクトラはただ震えて二人の様子を眺めることしかできなかった。
「ねえ、どういうことなの、鳴……」
「異世界から人をさらって……どうする気なんだ」
今度は逆にカスパールが激昂する方だった。
「知るか! これは一万年にわたって続いた慣習なんだ! 今更やめられるものか!」
「慣習だと?」
賢者は普段の威厳を全てかき捨てて、早口でまくしたてた。
「そうだ。元々はあのお方が、世界の真実を明らかにするために始めた計画なんだ。だがいつまでも目的を果たすには至らず、ただの空しい慣習になってしまった」
もはやこの剃髪に何を言っても無駄だと鳴は確信していた。
「俺がこの旅を続けるのは……姉ちゃんに会うためだ」
カスパールは顎をがくがく震わせていた。
よく見ると、賢者の顔は笑っていた。だが、もう久しく笑ったことがない人間が無理やり作ってみせたような、いびつな笑いだった。
「お前からこの記憶を消してやりたい所だが、そうはしない。どうせお前はいくらでも替えがきく道具なんだからな」
最後らへんはもはや罵倒ではなく、呪詛だった。
鳴の返事を待つまでもなくカスパールは闇の中に隠れ、そのまま消えてしまった。
「鳴、何なのあれ? 一体私に何の秘密があるの!?」
「お前は知らなくていいことなんだ」
興奮がさめやらぬまま、鳴は叫んだ。
「恩人だよ。俺が以前の世界にいた時、死ぬ運命から俺を救ってくれたんだ」
だが、エレクトラは気づいていた。
(鳴がすごく動揺してる。いや、もしかしたらこれ以上耐えきれないくらいに無理をしている)
何回も彼の体内に入っていると、本人よりもその人のことに詳しくなりがちだったから。
鳴が、先の見えない旅で押しつぶされそうになっていることは知っていた。
(どうして信じてしまったんだ……あんな奴を……)
鳴は動揺していた。だがそれは軽い物だと言い聞かせてもいた。だがカスパールの呪詛と笑いが、目を閉じても耳をふさいでも消えることはなかった。ずっとあの男に振り回され続けているという敗北感と、終わりの見えない放浪に対する静かな絶望が皮膚を越えて心臓をわしづかみにしていた。
結局その日はなかなか眠れなかった。
起きるのはかなり早かった。雨上がりの空は以前とした曇ったままだったが、洞穴を出て山を下ると人里らしい光景が広がっていた。
農夫たちが田畑をたがやしていた。これにも鳴はいたく望郷の念を刺激された。カルミナ村での忙しいが期待に満ちた日々を思い出してしまったからだ。
(あの中に紛れ込んでしまえば、そっちの方が楽なのかもな)
とはいえその生活様式は、カルミナ村とは大分様相が違っていた。
北部なので、土地も空気も乾燥している。牛や羊の方が目立った。
だが憔悴しきった鳴にはその違いを楽しむ余裕などなかった。こんな光景はどこにでもあるものだ。さっさと目的地にたどり着きたいという焦りばかりが募った。
何かのはためく音がした。上空を黒い何かがつっきっていった。
マントのような何かを羽織った人間が、村人を襲っていた。
鳴を見ると、蛇のように鳴きながら彼に近づいていった。
「逃げろ! 逃げるんだ!」
鳴は村人を逃がしてから、敵に立ち向かった。
鳴は、敵の顔を見て恐怖を覚えた。
おぞましい物が見えた。顔に四つの目があった。
四つ目はぎろりとにらんだ。その直後、
(こいつらは……こいつらは……)
吹きすさぶ強風。
枯葉や小枝が舞飛び、鳴の全身にぶつかってくる。鳴は後ろに転がりながら、立ち上がりざまに雷の棍棒を展開した。だが、異変が起きた。
知らない言葉が鳴の口の中から湧き上がってきた。
「『雷の精霊よ、弧となって光る弓を描け!』」
棍棒の両端が曲がりくねり、弦を展開する。
それは鳴が初めて目にするものだった。だが、ほぼ同時に流れ込んでくる記憶によって、その柄方をすぐさま理解することができた。
四つ目は目を見開きつつ、距離を取って鳴の頭上を飛び回る。
何度も往来しながら、隙をついて体当たりしようとしてくる。鳴は耳を澄ませ、五感に集中しながら敵の動きを察知しようとする。
雷の矢を放った。それはまばゆさを増して、虚空を切り裂いた。
四つ目は臆さず突進していった。そして光が爆発し。四つ目の腕や脚が吹き飛んだ。
鳴は、敵を倒したことになぜか達成感を覚えなかった。むしろ羞恥心や罪悪感がどんどん頬や口元をひきつらせていくのを抑えようがなかった。
――どうして、こんなことをするの?
姉に責められた気がした。それは単なる不安などではなかった。
相手は確かに人間だった。今ではもう、人間ではない何かになってしまっただけで。
「じゃあ……」 思わず、心の声が外に漏れ出る。
(何なんだ、こいつは。俺と同じだというのか)
確証はなかった。いや、認めたくなかった。あまりにも漠然としてはいるが、あまりにも嫌な想像だ。
(あいつらが俺みたいな奴をこの世界に沢山連れ込んでいるのなら……)
だが妖精にそんな弱みを知られたくなかった。知られたら、見捨てられる気がした。
「俺たちの旅を続けるぞ、エレクトラ」
「うん」
鳴の言葉には、どことなくいつもの健気さがなかった。