第十七話 どうしてあんな形に変形した
アルカディア北西、ラルガ地方。
灰色の古い城、バルコニーの上で、壮年の男が熱弁を振るう。
「諸君、我々はこれまで辺境の民として虐げられてきた。だが、この時代も間もなく終わる」
豊かな髭をたくわえ、浅黒い肌に、肩幅は広く包容力のあるがたいの持ち主。
「我々こそが選ばれた民なのだ。そして、これからは私がこの国の王となる!」
ラルガ地方がアルカディアの領土に入ったのは決して古い時代の歴史ではない。むしろ独立した王国として栄えていた時期の方が長いのだ。だが内乱に疫病、様々な不運が積み重なった今ではこの地の住民は数百年間アルカディアの支配にあり、軽んじられてきた。
叫ぶ群衆。
男爵は彼らを見返して、改めて戦争への思いを新たにした。
カスティナ市のある地区に小屋を借りて、鳴は週に一回ほどブーケを呼んではいつも調子を確認していた。
いつもはすこぶる壮健で彫刻がそのまま命を宿したかのように美しいこの神馬だが、ある時、やけに力のない様子でとぼとぼと家の元にやってきた。
「どうしたんだブーケ? 元気がないなぁ」
顔をなでる。目が赤く光り、横に頭を振る。
「あんなに戦いを繰り返したんだもの。さすがに疲れがたまってるんじゃないのかな」
エレクトラも、この馬が金属でできており、生き物とはまた別の感覚によって動いているということを理解し始めていた。
数々の死線を乗り越え、鳴にはこの神馬が次第に道具ではなく親しい戦友のように思えてきた。
ただ、懸念はある。あの少年のことだ。ブーケファルスのことを知っており、何なら操って見せた。この馬を乗りこなせる人間は、召喚者だけのはずだ。それなら。
(まさか……俺以外にもいるのか。この世界に呼ばれた奴が)
疑問を一度浮かべると、連想ゲームのようにまた別の疑念が湧いて止まらなくなる。
(どうしてこんなことを考えてこなかったんだ。俺はまさかあいつらに――)
だが、部屋の中にけたたましい声が届いてきた。
「カスティナ市民よ、聞け!」
外に出て、街の向こうを眺めると、鐘楼の上で巻物を持った聖職者が叫ぶ。
「侯爵が兵士を募って王都に向かって来ている。大公殿下は彼らを撃退する兵士を集めておられる! 心ある者は戦いに来たれ! 締切は今月の末まで!」
多くの男たちがその言葉を聞き、互いに何かを話し合った。
鳴は悩んだ。これはリスクの非常に高い営みだ。何せハイランド大公に協力しなければならないのだから。ゴードンのことを思えばできない相談だ。
エルフの里では化物を相手に戦った。しかし今度は人間が相手なのだ。さすがに鳴も人に凶器を向けることには良心の呵責を覚えた。
だが、王都に向かうということは、ここで侵略を食い止めなければ王都の人々が犠牲になるということだ。
全ての人間を救うことはできない。
鳴が静かに決意を固めていると、群衆から何かの声が漏れた。
「ようやくこの機会が来たか……」
「あいつらからたんまりと分捕ってやる!」
まるで戦争を望んでいたかのように
「どうするの、鳴?」
エレクトラは嫌そうだ。だが鳴にはここで拒絶しきるわけにはいかない理由があった。
「業腹だが、奴らに協力するしかない。何より戦争なら報酬も高くつくしな」
鳴は市庁舎に行って窓口へと赴いた。体力がなさそうに見えはしないかと不安な所はあったが、魔法を披露すると一発で通った。恐らく魔法を個人で使える人間は希少なのだろう。
誰も彼も屈強で堅い鎧を着こんでいる中で、背の低い鳴だけが異様に目立った。だがほとんどの人間はこの空間にみなぎる戦いの空気に興奮しており、気にもしなかった。そういう物に対する共感がないことも、鳴の隔絶した様子を強調していた。
鳴は男たちが富を目当てにしているのを知っていた。彼らは理念とは無縁な生き方をしていた。
(あらためて、俺も野蛮な人間になってしまったものだ)
姉が今の自分を見たらさぞかし嘆くに違いない。
信条に反して、暴力に生きる人間となってしまったことに深い軽蔑を感じたが、そもそも戦争や災害でも起きなければまともに広い地域を渡り歩くことができなくなっている社会のシステムに欠陥を覚えた。
しかし、若い男がいるとやはり目立つ。急に肩を叩かれ、
「お前、何のためにここに来たんだ?」
声をかけたのは、中年を越えたほどの歳の、茶髪の髭面だ。
アルカディアではあまり見ないけばけばしい色彩の衣装を着ている。
「民衆を守るためです」
「くだらん理由だ」
髭面は口をへの字に曲げ、
「金銀財宝をえんやらやと奪い取り、女を抱くためじゃないのか?」
「そういうことに関心がある方ではなので」
「つれない男だな」
鳴にとってはむしろ好都合だった。
「俺は大金をはたいてヘルヴェティアからここまで来たんだ。ここで見返りをもらえないと困ったことになるからな」
ゴードンについて訊きたくなったがすんでの所でやめた。どうせ知らないだろうし、これが大公派の人間に聞かれたらまずいことになる。
「しかし、お前みたいなガキがよく戦おうとなんて決意したな。大公様はそんなに人材に苦しんでいるわけでもなかろうに」
「俺はステファン。お前は?」
「高咲鳴。ハイランドの高咲鳴です」
「聞きなれない名前だな」
「遠い国から来たもので……」
根掘り葉掘り訊かれると思ったが、
「ああ、そうか。お前が同じくらい命知らずってことは分かった」
その一言でステファンは納得してしまった。鳴は用を足すことを口実にして彼の前から去った。正直誰とも話したくなかった。
だが大の男に話しかけられたということで、たちまち鳴の方に何人かの関心が向いた。
「あの小僧、何が狙いなんだろうな」
「まるで修道僧みてえだ」
「お前、あいつの目が黄色く光っているのが見えなかったのか? ありゃ魔法生物と契約してる証拠だよ」
あえて鳴を侮ろうとする人間はいなかった。少年の様子に恐れをなしたからだろうか。
「大公軍を蹴散らせ!」
「勝利は我々にあり!!」
やがて戦いが始まった。ラルガ軍とアルカディア軍が荒野を踏み鳴らし、対峙した。
男爵の軍隊の上には、ドラゴンやらおびただしいモンスターが空中を飛んでいた。
「魔獣の軍団だ……!」
「あいつら、一体どこから連れて行きやがった!?」
「臆するな! 俺たちにだってあいつらを打ち落とすくらいできる!」
鳴は功を焦った。できるだけ味方側の損害を減らすには、こちらから積極的に出ていくしかない。
「飛べ!」
二対の翼を展開して、ブーケファルスが空に浮く。巨人のみぞおちに向かっていく。
鳴は背をかがめて、巨人の太い腕の攻撃に備えようとする。しかし馬はその姿勢を保つことなく、突然脚を横に伸ばした。
「なっ!?」
それからは予想外の連続。鳴が驚くよりも早く、ブーケファルスの頭がまるで槍の穂先のように尖り、鞍の部分が平らな平面になり、全身が三角形の板のように展開した。そして、鳴はその上に直立していた。
(何が起きたの、鳴?)
「分からん!」
少年はどうすればいいか全く分からなかった。だが、身体を傾ければその方向にブーケファルスは曲がり、空中を滑っていくのである。だが、制御できないのは速度だ。
「何だあいつ……敵の真っただ中に!」
当然、ステファンもそれを目撃していた。
「一体何に騎ってるんだ!?」
どよめきの中で、誰もがその正体を気にかける。しかし敵の攻勢を抑えることだけに集中する鳴にはそのどれも聞こえない。
「雷の精霊よ――」
稲妻を拳に握りしめ、敵に投擲する。
中にはワイバーンもあった。
鳴とて無駄な殺生はしたくなかった。ただこれら大物を討ち果たせば後はもう烏合の衆になるに違いないと思った。
ひたすら目前にいる
だが突然、大きな風が吹き、ブーケファルスはバランスを崩して横に転倒した。しかし、鳴は馬の背中にはりつき続けた。
そして目撃した。赤い肌をした、何メートルもある巨大な胴体を。
丸太のような五本指を伸ばす、大木のような腕を。
「サイクロプスだ!!」
再び兵士たちから幾重もの叫び。
巨人は胸の上からは鳴を見下ろした。その直後腕を横に振り払った。ブーケファルスが一気に高く飛びあがったので、体が一気に軽くなる気がした。そしてまともに動きを制御できないまま上空から、巨人の顔を見た。
たった一つの目が、左端から右端まで裂けて少年をにらみつけていた。
人間が飛んできた。顔や腹から血を吐いた人間が、鳴目がけて吹き飛んできた。
悲鳴。助けを求める声。耳にしたくない騒音と共に。
鳴は、怒りを覚えた。敵軍への怒りではなかった。
反射的にもう一度呪文を唱え、光る棍棒を生成する。そして、真上から突き刺そうとかかげる。
だが、ブーケファルスの勢いが急にやんだ。なだらかに、しかしいきなり停滞して。墜落しようと。
巨人の手が近づいてきた。思ったよりも早く、鳴の目の前に迫ってきた。
だが、爆風が腕の間に炸裂して指が横にそれる。
「あの少年に続け!」
一斉に吶喊、味方の兵士たちが突進してきた。
炎が飛んでくる。透明な障壁がそれを防ぐ。
もはや敵の魔獣は巨人以外には数匹の小柄のドラゴンを残すだけになっていた。
そして地上まであと数メートルの時点で鳴の足場が急にかき消え、そのまま込み合う兵士たちの上に落下していた。だがその先に、兜や旗だけではなく、槍や剣も並んでいた。……が、それを認識するよりも早く、激しく振動する槍が
「この野郎! よくも俺たちの魔獣を!」
だが横から突き出した剣が敵の喉をかききる。
「鳴少年! 生きていたか!!」
「ステファンさん!?」
「あの巨人は強い! 我々では手も足も出ない!!」
ブーケファルスは主を守ろうとして暴れ続け、敵兵を噛みつきながら鳴の元に駆け寄ろうとした。だが、巨人の足が落ちてきて馬を見えなくした。
巨人が数歩前に進み、さらに別の敵をなぎ倒していった。
鳴は、絶句した。ブーケファルスはただ巨人の陰に隠れて見えなくなったとばかり思っていたのだ。しかし、ブーケファルスが立っていた場所にあったのは、彼と同じ色をした破片だったからだ。無数の欠片と、何かの液体。
「立ち止まるな!!」
ステファンは鳴の腕をつかみ、無理やり引きずる。すでに撤退を知らせるゴングが鳴り響く。
彼らは撤退した。男爵の軍隊は勢いづき、敵の多くを殺傷した。それは男爵の軍をいきり立たせた。
「大公軍が逃げて行くぞ! 追い打ちしろ!!」
ステファンは振り回して追手を倒した。鳴はその間、彼の握りしめる手から逃れることも叶わぬまま引きずられていくことしかできなかった。
鳴は、戦場の非情さに戦慄した。だがそれよりも堪えがたいのは、愛馬を失ってしまったことだ。
誰かが少し離れた、丘の上からその様子を見ていた。杖をつき、まっすぐ立ちながら、その中の一人の様子を眺めていた。
「あれが、新しく選ばれた者か」
誰にも彼の声は聴かれていなかった。ただ、自分自身の言葉を、自分のために、ぽつりと。
「あの子にも本当のことを教えてやらねば……」
やがて夜が訪れた。満月が孤独に光輝き、いまだ血と金属の匂いが取れない戦場を勝手に照らしていた。
誰もが宿営に集い、多くの兵士たちが暖を取っている中で鳴だけはそこから離れ、馬の名前を呼んでいた。
「ブーケ! ブーケファルス!」
鳴が目にしたのはもはや四足歩行の形すらなしていない金属の塊だった。
ステファンは彼の後ろについていた。まだ青臭さの漂う少年を見やりながら、
「馬の名前か」
「ええ。ずっと乗りこなしていたんです」
本当はもう少し詳しく説明したかったが、
「じゃあ、さっきのは……」
ステファンはかなり真剣な表情だった。戦地に赴く際の陽気な色はもう消え失せていた。
「分かったよ。お前、相当大切に扱っていたんだな」
しばらく、その瞳
「お前がどんな風に馬を乗りこなしたか知らないが、相当な魔術を身に着けてるそうじゃないか。どこで学んだんだ」
「こんな薄汚い渡世に身を落とすのはよすんだな。まだ前途ある若者じゃないか。生き急ごうとするな」
「ありがとうございます……」
感謝の言葉を聞いて、傭兵はたしなめる顔で鳴の胸を叩いた。
「俺が善意でお前を助けたと思うなよ。当面の間味方だから付き合ってやってるだけだ」
(なぜ、俺はこんな奴に情をかけているんだ)
次第に、責めるような言い方になっていく。
「はっきり言って勝手に持ち場を漂うなど正規の軍隊では決して許されん。物理的に首が飛んでもおかしくないんだからな」
だが、半ば自身に投げかける自責のようでもあった。
「じゃあ……何でそこまで俺についていくんですか?」
「俺の息子もお前と俺くらいの年頃だからだよ。それがこんな所で命を危険に晒すなんて、ただで済ませられるか」
ステファンから離れ過ぎないようにして、鳴は荒野を歩き回った。
鳴は、破片を持っていた。それが本当にブーケファルスのものだったのか皆目知れなかったが、
「どうして……」
だがその直後、金属片が磨かれたかのようにまばゆい光を放ち始めた。
あたりの石や草、金属の破片が一箇所に集まりだした。
「おい……何なんだよこれは」
鳴がおそれおののく前で、それはうず高く積り広がっていた。上にごぼごぼと泡かはらわたのような何かが沸立っていた。
「ブーケファルス……!」
すでに馬は元の姿をとどめていた。あの時の大破ぶりを少しも
「でも、何だったんだあれは? どうしてあんな形に変形した……?」
問いかけた。その直後、記憶が流れ込んできた。遥かに長い、何人分もの記憶だ。
その馬は、ただ、四足で歩行するだけではない。まるで月のように弧を描く翼として、人を空のかなたへと連れて行った。
ただ、翼を生やして駆けるよりも速く、空を切り裂いて世界を縦横無尽に駆け巡っていった。
「何、今の記憶……」
エレクトラもどうやら同じ光景を目にしていたらしい。
「分かったよ、ブーケ。あいつらのようにすればいいんだね?」
鳴には、すでに自分のなすべきことが明確に分かっていた。
「あの巨人の殺し方が分かった。あの力を使えばいいんだ」
心なしか、以前よりもブーケファルスがやせた体に見える。輪郭が細い。
「今は休めよ。回復するので精一杯だろう」
ブーケファルスは飛んでいった。
ステファンはその姿を目の当たりにして、驚いた。だがあえて何一つこの少年の秘密を詮索はすまいと心に決めてもいた。
(まさかあの馬こそが俺の知る――)
ステファンも、その馬のことは古くから聞いていた。それが何者に作られたかなど、露知らなかったが。
「あれ? どうかしたんですか?」
一連の出来事を見られたのかと思い、冷や汗をかく。鳴はこの点に関して何か尋ねられるのが嫌で、わざと白を切って見せた。ステファンにしても、あまりこんな所に長居して仲間から疑われるのは避けたいので、鳴の意向をくみ取った。
「俺は何も見なかった。ただ蠅が飛ぶのを見ただけさ」
だがブーケファルスに関する噂はステファンの沈黙で抑えられるものではなかった。気づけば、誰もがその馬のことで持ち切りになっていた。
「神馬を見たんだ。おれもガキだった頃、あれを見たことがある……!」
「おいおい、気のせいだろ?」
鳴のあずかり知らない所で、兵士たちが噂話に興じていた。
「ヘルヴェティアでも似た伝承はあるよ。でも……」
「俺はそんなもの信じない。ただ個人的に言えば……」
だが、一体だれがその馬を駆っていたのかまでは、不思議なことに誰も怪しもうとはしなかった。