第十六話 俺はあの賢者たちから離れたいんだ
見晴らしのいい草原の中、鳴は竜を追っていた。
竜はこちらを見るとにわかに逃げ出した。人間にはとても追いつけない速度だ。
ブーケファルスに乗ってわずかな間に距離を詰め、雷を放って気絶させる。初めてワイバーンに遭遇した時からは想像できないほど、鳴は勇猛果敢に獲物を追っていた。
しばらくすると、鳴はワイバーンの頭を持って村里の住民たちに示した。たちまちどよめきが起きた。
「ありがとうございます! ずっとあの竜には田畑を荒らされ、困っていたもので……!」
別にそんな大変なことはしてないんだがなあという表情、依頼人から報酬を受け取った。
この世界ではどうやら魔獣退治が相当な金になるらしい。数世紀前までの戦争で大体の異種族が討ち果たされたとはいえアルカディアには依然多くの魔獣が生息している。
握りしめて鳴はその村を去った。
外れに行ってブーケファルスにまたがり、こっそりと袋の中の金貨を眺める。
「ざっと見て300マナリオか……」
エレクトラが半笑い。
「数週間のパンには困らない金額だね」
「いや、もっと稼ぐ。情報を得るにも金は必要だからな」
あの賢者たちに頼らず元の世界に戻る方法があるかもしれない、という希望をエルフの里を出るころから彼は抱き続けていた。
何日経っても、メルキオールからの連絡が来ることはなかった。それは確かに異常事態としか思えなかった。
カルミナ村で数か月過ごしても彼らから何かしら呼び出されることはなかったが、それは鳴がこの世界に順応するための一種モラトリアムだったからだ。だがそこからエルフの里での戦いが終わるまではまさに激動の日々と言っていい。そして、あの謎の少年との遭遇。彼らは賢者のことについて知っていた。
ならば、カスパールたちが何かしら干渉しないはずがない。
(あるいは、俺が知覚しない間に何か暗示をかけているのかもな)
そう疑いたくもなる。だがその一切合切を、エレクトラに知られたくはなかった。
もはや日が沈んで何もかもが藍色に染まった平野、静かな二人で焚火を囲っているとまずエレクトラの方が話し始めた。
「ずっと鳴に話したくて、話さずにいたんだけど……」
「おう、何のことだ?」 興味津々。
「実は私……この世界以外にも別の世界があるってことをある人から聞いたの……」
エレクトラは低い声で。その時、急に鳴の表情が動転した。
「ある人だって? 教えろ」 興味津々。
「長い話になるけど、いい?」……
そこで初めて、鳴はルウルウやファドラーン、ヒシャームのことを知った。もっともエレクトラの理解を通してのものだったから、正確に知ったとは言い難いが。
「お前に言ってなかったかもしれないけど、実は俺も異世界から来たんだ」
エレクトラはさして仰天しなかった。
「……だろうね。そんな気がした。だって、この世界に元からいた人間って感じしないし。世間に疎い感じからしてさ」
「そりゃ、この世界に初めてやってきた頃はな?」
鳴は特に巨大なからくり人形ファドラーンに会ってみたいと思った。賢者たち以外に、別世界の存在を知る数少ない存在だ。遥か昔に他の世界のことを知っており、なおかつ往来できる技術があったならば、そんな世界に生まれたかった。
(あいつが言う太古の科学技術さえあれば、姉ちゃんの元に戻れるかもしれねえのにな……)
だが、彼らが別の物語の主人公であることも鳴は承知していた。生きている世界が違う以上、その旅路を妨げるわけにはいかない。
鳴には何となく、アルカディアがその方面のことを知るにはあまりふさわしくない状況だということを勘づいていた。
いっそ王都に戻って何かしら調べればよかったかもしれないが、官憲から追跡を受けたことを思えば、とても帰れる状況ではない。
だとすれば……目ぼしい場所はどこか。
「アントニアノープルはどうだろう」
エレクトラの提案。
「アルカディア北岸の港町だよ。他の国々の船を入り口みたいな場所。色んな所」
「じゃ、そこに行こう。もしかしたら何か手がかりがあるかも」
「でも遠いよ? 相当な時間と旅費がかかる」
エレクトラは大分心配そうな表情をしていたが、鳴にとってはそれどころではなかった。
「俺はあの賢者たちから離れたいんだ。あいつらの忠告なんてもう耳を傾けたくもないからな」
◇
鳴とエレクトラがまだ見ぬ旅路への期待と不安に胸を膨らませている頃、メルキオールもカスパールも浮かない表情をしていた。
鳴とは、何十日も連絡がとれなくなっていた。あの時少年のかけた魔法が鳴とカスパールたちとの接続を断切ってしまったのだ。カスパールは鳴の脳内にもう一度接続するため呪文を唱え続けていたが鳴の姿を見ることはついぞなかった。今回の召喚者はかなり早く力を覚醒させているだけに、今回の遅延はなおさら許しがたいことだった。
(しかしなぜ、我々にとって不都合なことばかり起きるのだ!)
けれど少年みたいな体をした賢者は、妙に澄ましている。
「まさかあの少年が生きていたとはね」
メルキオールは珍しく焦った表情をしていた。
「二十年前に行方不明になったとばかり思っていたが」
「鳴は探さないのか?」
カスパールは催促した。彼らの魔法をもってすれば、鳴の位置を探索することなど容易なことだ。彼自身も、だがメルキオールはそれをしなかったし、仲間にもなかなかさせようとしない。
壁の天井近い所に、複雑な模様が描かれている。端から端まで、横に続いている。だがそれは出鱈目な文様ではない。拡大すると無数の長方形が敷詰められている。その一つ一つに、名前と顔と目と口が刻み込まれている。だが今やメルキオールはそれを興味もなさげに遠くから見つめるだけだった。
「今まで僕たちはこれだけの人間の人生を無駄に扱ってきた。彼らに怖ろしい破滅の運命を与えてしまった。この罪の大きさは何回死んでも償い切ることはないだろう」
カスパールも、その所業の凄絶さに寸毫も心を痛めないほど無情な人間ではない。このような異形の身になっていてもなお、不条理を嘆き悲しむ程度の良識はある。だがその良識を置いても、
「我々はそれでもあの計画を絶対に成功させなければならない」
心の動きがおのずとそういう結論に達してしまう。
あたりには二人以外の人影はない。生命の気配すらない。
二人の立っている場所の周囲には灰色一色、壁の起伏が若干あるにしてもがらんとした空間が横たわっており、ずっと遠くに続いているように見える。しかし、全ての光をこばむ闇が、この場所の地形の性格な理解を拒んでいた。最低限、ここに人の手が加わっていると思わせるのは、同じ間隔で天から地までを支える柱だけ。
「カスパール、あの子が僕たちにかけた呪いは相当なものだ。今ここから外界に魔法で干渉することも不可能になっている。外に直接出て様子を見るよりほかにない」
「何だと? では、我々の計画を隠し通すのも不可能というわけか?」
「別に構わないさ! こんな計画全ておじゃんになればいい。どうせ僕たちが失敗に終わってもまた誰かがやってくれるさ」
カスパールは返す言葉もなかった。
「……一万年の月日はそこまでお前を追い詰めてしまったのか、メルキオール」
「君こそ、長い命の中で思考を停止しているじゃないか、カスパール。君が選んだ人間はどれも悲惨な最期を遂げたんだ。力に目覚める中で人としての理性も感情も失って化物みたいになった奴がどれくらいいるか知れないんだからな」
メルキオールの冷笑的な言葉は、なおさらカスパールにとって煽るように聞こえた。彼の諦観が共感できるものであるからこそ、カスパールはなおさら怒る気にはなれなかった。
鳴が駄目であるならば、また他人を探せば良いという考えも別に否定されるべきものではないのだから。
「まあ、あとは神がご存じだ。我々の計画の是非を神が」
カスパールの複雑そうな表情を見かね、メルキオールはこう結んだ。
「それでも気になるのなら、ご老体の力にすがる他はない」
◇
カルミナ村もこの頃になると、やけに物騒な話が人々の口に昇っていた。
「戦争の準備!?」
ヒルダは驚いた。
「ゴードン殿下がヘルヴェティアに落ち延びたのを口実にしているらしい」
ずっと気になって仕方のないことだったが、キルデリクは教会の礼拝から帰るとその内容について話し始めた。
「あれほど絶大な権力を持ちながら、あやつの本性は臆病そのものだ。鼠のような精神性の持ち主のまま、権力によって国家を大きく揺さぶるとしている」
ヒルダにも、この国に暗雲がたちこめているのははっきりとわかった。この村の平和をおびやかす
だがとにもかくにも鳴のことが心配でならなかった。少しでも鳴のことを思い浮かべると、すぐ作業に身が入らなくなるのである。
そんなヒルダを見かねて、さっさと婚約者を見つけなければとキルデリクは焦っていた。ジェラルドあたりが
そのジェラルドが
「やあヒルダ、いるかい?」
「あら、何の用なの?」
ジェラルドは周囲に誰もいないことを確認してから、
「あの少年のことだよ」
ジェラルドの言葉を聞いて、ヒルダは感情を抑えられなかった。
「鳴? 鳴なのね!?」 伸びた腕が不意に胸倉をつかむ。
「ちょっ、胸が苦しいって!!」
ジェラルドは興奮しているヒルダに怖気づきながら、
「俺も噂話で聞いただけだから分からないが……なんでも鋼の馬に乗る男のことが話題になっていて……」
「鋼の馬?」
「それにまたがる人間の名前が高咲鳴って言われてるんだ。ディエラで聞いたんだよ」
自分がつい驚いて大声を上げてしまったことにおののきつつ、
「……すごい。一体どうやって暮らしてるの?」
「戦いだよ。戦って日銭を稼いでるみたいなんだ」
「戦い?」
「まあ、それ以上の詳しいことは分からない。あくまでもでもひょっとしたら……」
「ひょっとしたら……って?」
「ごめん、ただの言葉の迷いだよ。……じゃ!」
ヒルダは期待に胸を膨らませた。できることなら、カルミナ村を出てその鋼の馬にまたがる人間とやらを見たい気持ちだった。
◇
ゴードンは夢の中で鳴と話をしたような気がしていた。
ティランで混乱の内に分かれた今、どうしているか全く知らないが、それでも忘れない訳にはいかない人間の名前だ。
(あの者に爵位を与えたらどうだろう)
しかしそれはためらわれた。世俗の地位を与えるなら、もはやそれは対等な関係ではないだろう。彼とだけは、
それから王子は、キルデリクのことが懐かしく思い出された。幼少期から彼には剣の指導を受けていたのだ。だが戦争で受けた傷が元でもはや以前のようには戦えなくなり、四年前に暇を出されたのだが。
彼は今、ヘルヴェティアのある城に居候していた。サクソン地方を治めるコルネリオ男爵の城だ。
鳴に語った通り、旧知の間柄の一人である。
久闊を叙したのはよかった。
「ブルゴスにある田畑の徴税権が欲しい」
「しかしそこの葡萄畑は古くから続く」
無論彼らも無償で協力してくれるわけではない。折衝を重ねなければならない。
ゴードンは国家を維持する以上は、妥協せねばならないことを知っていた。
「ならば五年間は税を免除するとしよう」
「悪くない条件だ」
ゴードンはコルネリオがさらに要求を突き付けてこないかと恐れたが、それは杞憂だった。
「あまりにも広大な領地は統治するのが困難だからな。まして我が家にはそれほどの財力も方便もないのだから」
再び二人は私人としての会話を再開した。
「他にも議論すべきことはあるが、まあそれは明日に回すとしよう」
「もしかしたら、誰も知らない現実によって我々は動かされているのかもしれない」
「だとしたらどうする? 俺はそんなことでいちいち悩んだりしない」
「サイネリアのあの遺跡のことを誰も気にかけている人間がいないなんておかしくないか。」
たった
「僕たちはあれが存在することを認識するだけだ。なぜあれが怪しい物だと誰も思わないんだろう」
コルネリオは、ゴードンの顔を見てわずかに笑った。
「何の不思議もない。かつて世界を支配しようとした愚か者が戦って王都を巻き添えにして争ったdかえのことだ」
多分、ここで終わっていたのだ。
「僕にはそれ以上の何かがあるような気がするんだ。確かに知らなくても世の中に大きな影響はないだろう、だが間違いなく世界を裏から動かしている何かが」
「……ゴードン、お前はもう少し理知的な人間だと思っていたぞ。そんな物に興味を持つ年頃だったとはな」
コルネリオが去ると、ゴードンは窓から夜空を眺めながら、アルカディアで繰り広げられているであろう陰謀詭計と、鳴の行く末についてふと考えた。
王者になるということの孤独さを理解してはいても、その責任を負わなければならないとなるとやはり胸がしめつけられる思いがした。
しばらくして、ふと眠りにつきそうになると、側にある老紳士が立っていた。普通なら無断で闖入してきたかと疑うところだが、
「……あなたは」
その紳士は、王子にとっても見慣れた人間だった。
「私には資金があります。殿下の苦境を解決してごらんにいれましょう」
彼の氏素性をゴードンはそこまで知っているわけではない。謎の多い人物だ。だが、ゴードンには彼を信じるに足る理由がある。なぜなら彼はこの紳士に病気を治してもらった経験があるからだ。何より、古くから続くている家柄の出身と聞くし、教養も浅くない。
「では、一つの模擬戦を行って訓練できるだけの兵力を手配できるか?」
「なんなりと」
「うむ。よろしく頼むぞ、ヨーゼフ殿」