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第十一話 かっこいいことなんかじゃないよ

 俺が目覚めると、姉が側にいた。

 姉はいつも俺より早く起きる。仕事があるのもあるが、基本的にてきぱき課題をこなす方なのだ。

「おはよう、鳴」

「おはよう、姉ちゃん」(ああ、俺は今日も性懲りもなく目覚めちまったのか)

 俺はいつものように厚着の服を着こんで店に出かけた。もう高校には行っていない。というより、いられなくなった。

 どんなに顔を隠そうが、分かっているのだ。この街に俺の居場所なんてないって。

 中学や高校の頃何かと縁のあった悪友たちは今ではほとんど噂を聞かない。俺はあいつらとはきっぱり関係を絶ってしまった。どうしてるのか知らないし、知ろうとも思わない。

 普通なら絶望で頭がおかしくなりそうな身の上だが、俺の正気をかろうじて保たせてくれるのが近所のおじさんだった。俺はあの人の元でいつも古武術の指導を受けるのだ。多分このあたりでは俺を唯一偏見なく接してくれる人間だろう。

 途中の路を行く。この時だって、俺はできるだけ人目を避ける。だが、屈辱に案の定出くわさなければならなくなった。

「よう、小僧……」

 その名前は知っているが、今では思い出したくもない野郎。

 俺はそいつの正面から顔を見た。もうあの頃よりも背が高くなり、顔の彫も高くなっていたが目の奥の幼さはちっとも変っていない。

「あの時傷が今でも残ってるんだ。少しそのお返しをさせろや」

 俺は抵抗しなかった。俺は従容として殴られ続けた。痛みはあるが、過去のことを思い出せば大した苦痛などではなかった。

「殴り返さないのか? 変な奴!」

 もはや嫌な表情になる気もなく、俺は静かに告げる。

「俺はもう昔のお前らじゃないんだ。喜ばせたくはない」

 あいつは退散していった。

 ついで同情通いの、顔見知りの小学生がまるで安心したような顔を浮かべて、

「兄ちゃん!」

 子供は俺の元に駆け寄った。どきっとした。俺に弟なんていなかったし、そもそも誰かを弟分として従えるのが好きな方でもなかったから。

「お前、優しいな。俺なんて男の片隅にも置けないような輩なんだから」

「でも兄ちゃんみたいなかっこいい人になりたいな。だって強いし」

 そいつの表情には何の悪意もない。純粋に俺のあこがれている。しかし俺にとってはその無邪気さが何よりも苦しいのだ。

 俺は反論せずにはおけなくなった。

「かっこいいことなんかじゃないよ!」

 だが、そこから先が続かずに、俺は慚愧に絶えず子供の前から逃げ出していた。


 生きていると本当に悔いの方が多い。

 俺は死んだのか? 生きているのか……?

 もう分からない。すでに、俺が感じ、知覚しているものはカスパールに蘇らされる前の姿だ。

 肉体を失い魂だけの。

 今度こそ消滅しちまうのか……? いや、そもそもこうして考えている俺は俺自身なのか。 そもそも俺は一体どこから来たのだ。そしてどこに行くんだ。

 ブリュンヒルデ、エレクトラ、ゴードン王子……この世界で会った人間の顔が次々と現れていく。姉の、高崎麻里の顔も。だが、人生全ての記憶が美しいはずはない。そこには必ず嫌な奴の顔だってある。

 俺は怒りを覚えた。時には怒りが

 いや、俺が一番許せない人間の顔だ!


 俺は何と浅ましい人間なんだろう。ひたすら誰かの期待を裏切り続け、恨まれ続け、最終的には自分が見込んだ人間にはなれやしなかった。恥ずかしいことこの上ない。

 あれは……そうだな、俺が高校三年生のことだった。あの時教室には一人、クラスのドンのようにのさばっている奴がいた。雨宮あめみや鎮樹しずきという名前だった。俺なんかよりよっぽど美形で、弁も巧みな人間だった。

 ある時鎮樹は校庭の隅に徒党を集めると小さな声で語り始めた。

「夜の学校で肝試しをしないか?」

「肝試し?」

「ああ。学校の七不思議で真夜中にだけ開く、開かずの部屋ってのがあるじゃないか。あれの真偽を確かめようと思うんだ」

 鎮樹はいつも悪友たちから信用されていた。あいつがどれくらい信義を重んじるかは分からなくても、口ぶりや表情で何となく信頼できるような感じがしてしまうのだ。俺はガキだったからすっかりあいつの虚飾の落とし穴にはまっていたが。

 仲間を集めることに関して俺よりもずっと上手だった。俺ですら奴には従っていたのだ。基本誰かと群れるのは嫌な性格だが、それでもあいつと一緒にいる時だけは何となく安心できるような気がした。

 他の学校の方にも味方を集めていたらしい。

「鍵がかかっているから誰も入れない。だから夜に忍び込んで中をのぞき見ようってわけさ」

「なるほど、そりゃ面白そうだ」

 ある説では、その学校の

 松木や黒部も同じ考えだった。

「あと、鳴だけはちょっと残ってろ。言いたいことがあるんだ」

 俺は驚くと同時に、少し期待した。俺がみんなの前で彼に名前を呼ばれるなど、初めてだったからだ

 二人きりになると、奴は急に声を低くした。

「さっきあいつらに肝試しのことを話したろ。でもあれは半分本当で半分嘘なんだ。俺がやりたいのは……」

「やりたいのは?」 俺は思わずその続きを聞きたがった。

 鎮樹はきざったいほどの思わせぶりな笑顔になった。

「PCのデータを書き換えることなんだ……」

 鎮樹はささやいた。

「あいつらの数人が成績良くなくてさ。このままじゃ卒業できないから、職員室に行ってパソコンを乗っ取り、データを書き換えようと思うんだ」

 その内容に、俺は思わず息を呑んだ。鎮樹にそんなことができるとは思えなかったが、基本的にどんな

 俺は、奴にことさら信用されている気がして、思わず増長してしまった。

「それで、俺にどうしようってんだ?」

「何のことはない。俺がパソコンを起動するからあとはパスワードなり暗証番号なりを見てくれればいいんだ。」

 それが、あの悲劇につながるなんて思いもしなくて。


 果たして、俺たちが夜の学校に忍び寄ると、鎮樹は懐中電灯であたりを照らしながら前を進んだ。今思うと、俺はここで怪しいと気づくべきだった。なぜなら、あいつは職員室の方には全く立ち寄らなかったからだ。廊下を渡りながら一階から三階まで登っていき、隅々をうろついてはいたが

 だが誰も、あいつの企みを知る者はなかった。俺ですら、本来いるべきではない時間に勝手に入っているというスリルによって、俺もそんなことを心配している暇はなくなってしまった。

 やがて踊り場の階段にさしかかった。鎮樹はライトを上に傾けながら、

「暗いぞ、気をつけろ」と言った。

 俺も、彼らが足元を踏み間違えないようにして、率先して鎮樹の隣に寄った。その時だ。鎮樹が突然脚を翻して黒部の尻を蹴り上げた。

「わっ」

 あまりにも間の抜けた声だった。そして、何メートルも下へと転げ落ちていった。

 わずか数秒の間のことだ。だがその一瞬で、俺の人生は暗転してしまったのだ。いや、俺がこんな腕白な道を選んだ時からすでに運命は決まっていたのかもしれない。

「みんな! 鳴が黒部を蹴りやがったぞ!」

 その声に一同が集まった。

 階段の踊り場に倒れこんだ黒部を助け起こしながら、鋭い指先で俺を突き付けた。

 たちまち、奴らは隅に俺を追詰めていった。

(何でだよ)

「お前、どうしてくれるんだ! 俺たちを!!」

 鎮樹は思い切り俺に怒鳴りつけた。俺は何も言えず、そこに凍り付いた。


 俺たちはそのまま、照明もない校庭の中心まで連れていかれた。

 俺は生きた心地がしなかった。鎮樹の表情は俺に対する見せかけの涙であふれていた。

 黒部に何度も呼びかけては、泣きだしそうになりながら、

「おいお前ら、救急車を呼びに来い!」

 と徒党を煽る。

 数人がその場から立ち去ると、

「お前、どうして黒部を蹴ったんだ」 鬼の形相で問い詰める。

 何よりもみんなが薄々、その嘘を勘づいていたことだ。少しばかりの勇気があれば、その嘘をあばくことだけできたはずなのだ。

 だがそれは鎮樹に盾突くことになる。鎮樹に盾突くとなれば、それはたちまち他の奴らに叩きのめされるということだ。

「お前が悪い」

「違う、俺のせいなんかじゃない!」

 みんな、鎮樹の言葉に何の疑いも持っていないようだった。

 誰もが俺を囲んでいた。俺は殴られた。

 鎮樹はまるで自分がひどい目に遭わされたかのように話すのだ。俺に対して一切の嘘をついた。

 思えば学校には色々な問題があり、俺が原因だったのもあるにはあったが、奴はそれらの根源を俺に押し付けた。鎮樹の言わばスケープ・ゴートにされたわけだ。

 そしてとうとう学校全体の騒ぎになった。それほどの凶暴な生徒を置いておけばそれは地域の評判に関わる。だが悪いのは何も俺だけじゃない。あいつらだってそれ相応の責任があるはずなのだ。今では全てが終わった出来事だから今さら掘り下げても詮無いことだ。であるにしても!

「君は何てことをしてくれたんだ!」

 教師たちも俺を激しく非難するようになった。それまではいじめがあっても無視してきたくせに、鎮樹の告発の後ではしきりに俺のことを槍玉にあげて生徒たちの失態を糾弾するようになった。

 ついには俺の家路でも悪口を聞くようになった。

 このままだと俺は完全に生きていく術をなくしてしまう。

 だが姉はそんな俺に同情なんてしなかった。無論、姉には起きたことを全部話した。問題の現況が鎮樹であることも。それを全部理解し、俺の苦しみを理解して、姉はこういった。

「あなたが悪いよ」

 姉にまでそういうことを言われた。

 俺はこの世の全てに見放された気がした。

 俺はほとんど最後に残された気力を振り絞って姉の顔を見た。しかし、案外姉はそこまで怒りの形相を浮かべてはいなかった。

「だから、鳴は自分を責めちゃだめ。全部受け止めなきゃいけない」

 姉はお茶を汲んで、俺の元まで持ってきた。

「迷惑をかけたみんなに謝ってきて。少なくとも、それが少しでも状況をよくするの」

「でも……俺が全部悪いわけじゃない!」

 この言葉を思い返すと、やはりどこかで俺は自分が悲劇の主人公であるかのようにふるまっていたのかもしれない。

 今もこれからも、自分が悪くない言い訳を見つけながら結局罪悪感に押しつぶされて生きていくのだろう。

 だがそこから逃げずに、正面から向き合って過去を清算するのは、あまりにも厳しい選択だ。

 まるで死出の路でも行くかのように黒部の家族の元に赴いた。何がつらいかって、俺は別に死ぬわけでもないし傷つくわけでもないからだ。何もされないのが一番つらい。 すぎるほどすぎるほど何があったかは考えたくない。これでも、俺を恥辱で殺すには十分すぎるほどだ……。

 だが俺は怒る気になれなかった。俺にも一端の責任があったからだ。

 俺は頭を下げた。

「ごめんなさい!」

 俺は最悪な気分になった。

 ああ、人に語ればとても恥ずかしいことだ。エレクトラに知られれば見放されちまう。

(何でなんだ。何で俺があいつの代わりに謝らなきゃいけねえんだ)

 冤罪なのだ。

「うちのひじりもだいぶ迷惑かけてたからさ。その返しが来たのさ……」

 黒部の父はさして息子の人事不省は悲しんでいなさそうな面持ちだった。それがあまりに悲しくて感情が死んでしまったのか、本当に意に介していないのか、まるで外からはうかがえなかった。

「こいつにはずっと迷惑をかけられていたんだ。私があいつのやりたいことを叶えさせてあげなかったから荒れてしまったんだ……」

 俺はその後いられなくなった。

 母親がこう言ったからだ。

「でもいくら何でも、これはないでしょう……」

 どちらも、まるで死んだ目をしていた。

 確かに俺にだっていくつも落ち度はある。そのために報復されようが何も異議はない。しかしだ。この苦境に追いやられるのは、完全にあいつの悪だろうが……!

「俺が悪いんです」

 自分が

 もしかしたら、仕方がない……どうしようもない奴なんだ。

 俺は茶を飲み干した。以外にも熱かった。だが、やけどをこらえて全部飲んだのだ。アルカディアでありついているどぶろくに比べればよほどおいしいものだった。

「頼むから俺を殴ってください。それがどれだけ迷惑だとしても……罪を償わずにはいられないんです」

「殴らねえよ」

「……」

 俺はいっそのこと、どこかガラの悪い連中に思い切り殴られればいいと思った。だが結局それも、つまらないエゴの渇望でしかない。改めて思えば、殴られれば、あるいは、叱られれば全部帳消しになると思うのはとてつもなく甘ったれた考えだ。

 あの後俺は何度も何度も引き下がった。けれど、対応はどこまでも塩。俺がどれだけ

 黒部はあれで寝たきりのようになってしまった。もうあいつのことさえ、今では何も知らない。

 知りたくもない。


 帰り道で、鎮樹が俺を襲った。

「よっ」

 その顔は、笑っていた。これまでもこの後でも、決して見たことのない邪悪な笑みだった。

 俺は殴ろうと思った。だが、それをすれば俺の悪評をますます現実にしてしまう。

「どうだ? 学校にいられなくなった気分は? 楽しいか?」

 俺は心臓に激しくしごかれながら、

「何で俺を……だましたんだ」

 俺には鎮樹が諸悪の根源に思えた。

「そりゃてめえが俺に従順じゃないからよ。いつも一人でいたがるやくざ者だからよ。どうやって陥れようかと考えるのが楽しくて仕方なかった」

 俺は石像のようになってあいつの話を聞いていた。

「このことを奴らに話しても無駄だぞ。何しろ体面を気にする奴らなんだ。どうせ今更真実が明らかになった所で、誰一人考えを改めようとしない」

 俺は殴る気にすらなれなかった。もはや鎮樹は俺を嘲笑する快楽にすら飽きている様子だった。

「聞いた所ではお前はコンビニから品物をたかったそうじゃないか。これは立派な犯罪なんだよ」

 それは嘘だ。俺は間違っても盗みなんて犯したことはない、そもそも自分の力を公共の場で示す程度の節度のなさなど俺は持ち合わせていない。しかしあいつらが俺をそうしてもおかしくない人間だと見なしていたことは事実だ。

「どうする。こんな所でぼーっとしてるとまた後ろ指さされることになっちまうわぜ?」

 俺は完全に奴を無視して通りすがった。後ろからまた何か罵ってくるかと思ったが、あいつはただひたすら無言でその場に立ち止まっていた。

 あいつは、俺がどん底に落ちぶれるのを観測しているに過ぎない。

 異世界に行ってからも、未だに鎮樹の顔は鮮明に思い出せた。

 あいつは間違いなく最低な人間で、そんな最低な人間が幅を利かせる世の中は狂っている。復讐はいけないことだとはいうが、そんな連中の被害者を止めるための復讐まで禁じられる謂れがあるのか?

 だが今ではもう、諦めた。俺には最初からあの世界に居場所なんてなかったのだ。


 俺は結局、この世にとって余計な存在でしかないのだろう。

 十分な金があったらこの街を早々と出て行ってしまいたい。だが、金がないことにはそれすらも叶わないのだ。

 俺は最低な気分で帰った。

 郵便箱にささった夕刊を見ると、そこには鎮樹が陸上部のエースとしてインタビューに答えている様子の写真が載っていた。県大会に出場する意気込みを語っていた。

 俺は最初の二行を詠んだだけで、くしゃくしゃにして玄関に入った。

 姉はソファに寝そべりながらジュースを飲んでいた。

 さして、いつもと変わらない様子だった。

「がんばったね」

 俺は思わず姉の胸によりかかってすすり泣いた。

「……泣かないでよ。私は鳴に強くいてほしいから」

 堪えられなくなり、俺は乱暴に姉の腰から離れて、

 俺は自分一人でいたかった。自分の弱い姿を、見られなくなんかなかった。


 そして俺はまたもや、姉は見る。たとえ俺自身がどうなろうとしても、姉ちゃんがこうして元気でいてくれれば――





 ◇


 鳴の屍が、藁人形のように水面を流れていく。

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