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第十話 あなたにも神の祝福を

 城塞都市ティランは、ヘルヴェティア王国への道沿いに位置していた。

 国内有数の流域を誇るベティス川を背後に構え、関所が細長く続いていた。

 ゴードンはここに向かうまで、かなりの準備をしていたそうだ。さほど目立つ品を身に着けてはいないが、あまり日用品なり食料を持ち歩かずに済んでいるのは各地に協力者がいるからだと思うと、相当な人望があるのだろうと鳴は考えた。

「君には大変な迷惑をかけてしまった。だが、もうここでその苦労もしなくていい」

 ゴードンは目の前の道を指さしつつ語る。

「あそこを越えるとあとはもう平坦な道を歩くだけでいい。ヘルヴェティアに慣れ親しんだ知己がいるんだ。しばらく彼らの元にとどまろうと思う」

 この目の前の更に遥か、まだ見ぬ国々が存在している。それを見ることができたらどれだけ楽しいだろうか。しかし、彼らにはそんな贅沢な空想は許されていない。

 鳴はゴードンからの信頼に最大限報いたかった。

「隣国との国境が安全とはとても思えません。きっと追いはぎや獣が徘徊しています」

「君には君の事情があるだろう?」

 ゴードンは笑った。気品のある笑みだった。

「……そうですね」

 鳴は、自分にはゴードンのような笑顔はできないと思った。それは、集団を統率する人間が持つ自負心から来るものに見えたからだ。二人の心は遠い所で離れていた。

「それにこの道は以前から交通の便を図るために整備されていたんだ。地方領主の権勢をそいで。より国王中心の国を作るためにな。じきに他の道も作られて楽に往来できるようになる予定だ。もっともその計画を立ち上げた大本はハイランド大公なわけだが……」

 鳴は最初から国の運命を左右することに深入りするつもりはなかった。ただ、ゴードンに

「君はブーケファルスで突入して敵を攪乱するんだ。その隙に僕は内通者と協力して門をくぐる」

「そこに逃れて、後はどうします?」

「ヘルヴェティアの王侯に縁故があるからね。そこで再起を図り、アルカディアに乗り込むんだ」

 ゴードンともう少し話したかった。ヒルダぶりに、この世界で話し合う人間が現れたのだ。

「そこを通れば君。神の祝福あれ」

「あなたにも神の祝福を」 危険な旅路だからこそ、重みが違った。


 ゴードンの説明では、この関所は見た目に反して非常に高度な魔法技術が使われているらしかった。全く見えないが、魔法による透明な壁が空高く立っているらしい。

 どんな魔法を使えば、あれを打ち破れるのだろう……とふと考えていると、森の中で吸血鬼と戦った時の記憶が蘇った。あの時よりも力がみなぎっている。魔法の素養があるとは思わないが、これほど短期間に実在したと思ったこともない物を鍛えるとは、実に数奇な運命。

 いや、それ以外の謎の何かが足元からみなぎってくるかのようだ。

(腰のあたりで何かが……一体これは……)

「急いで、鳴」 不意にエレクトラに叱られる。鳴はすぐさま我に返り、

「頼む、ブーケ」 全体の名前を呼ぶのが嫌で、短縮して呼ぶ。

 拍車を賭けただけで馬は空中に飛び上がった。それからはもう、鳴は馬が期待通りに動くのを願う他なかった。

 しかし馬はこういう肝心な時には律儀だった。驚くほど軽い身のこなしで城壁まで飛び上がる。

 石と煉瓦でできた床を踏み鳴らすその蹄の音と来たらけたたましかった。簡単にその足場を砕いたのは間違いない。

「敵襲か!?」

 鐘が鳴り響く。たちまち、眠りから覚めた兵士たちが城壁の上へと昇りだす。

 すぐ異変に気付いて、見張りの兵士が向こうから集まってきた。鳴は、ひたすら逃げることだけを考えていた。どれだけ人間の摂理が戦いを求めているとしても、鳴はやはり力を用いることに消極的にならざるを得なかった。かつては闘擾をこととしていたのだから、なおさらだ。

(本当は誰も、傷つけたくない)

 ヘルムホルツと相対した時はどちらが死ぬか分からなかったから、仕方がなかった。だが今は、

 鳴の不安に反し、馬は敵兵の群れにためらうことなく突っ込んでいく。

 もしここで誰かと戦ったりすれば、姉の約束を守れなくなってしまう。だがゴードンの期待を裏切るわけにもいかないのだ。

 城壁の向こう側には規則的な距離で柱が並んでおり、そこからピンクがかった光が漏れていた。

 確かに魔王の城壁は堅固だが、それを発しているのは同じ間隔をあけて敷き詰められた壺のような装置。

 ブーケファルスはまるで箱でも潰すように城壁の発生装置を踏み荒らし、破壊した。

 あとはここから離脱するだけだ。鳴は馬の神速ぶりを信じていた。王都であれだけ暴れたからには、ここからすぐに逃げられるはずだ。

 だが、そうは問屋が卸さない。

 夕闇から光を放ちながら、急な速度で近づいていくものがいる。

 あの時王都で見たのと同じだ。

 鳴はいちはやく危険を察知して拍車を叩いた。

 たちまちブーケファルスは高く飛び上がった。

 いまだになつかないこの馬は鳴の動揺など一切我関せずの様子で動き回った。

 たとえどんな怖ろしい猛獣を持っていても、飼いならさなければ何の意味もない。鳴は「聞いてるのか! ここから離脱するんだ」と叫んだが、馬の方では兵士たちに嚙みつきたくて仕方がないらしかった。

 馬の力は激しかった。どんどん見張りの兵士を蹴散らしていった。

「そこの賊、今すぐ降伏しろ!」

 杖の上で、いくつもの人影が物々しい影につつまれ浮いている。幾何学的な模様でまわりを囲う。

 光る何かが鳴の頭をかすめた。エレクトラは恐怖におののいた声で、

「あいつら……明確に私たちのことを知ってる!」

 王都にいた時から、鳴たちの動きはすべて読まれていたのだろう。

「もしかしたら、私たちが王都から逃げた時でもついてこられてたのかも」

「だとしても仕方ないだろ! ここから逃げなきゃいけない」

 ブーケファルスは依然として気ままに暴れていたがそれでも敵の魔法を避けることだけは明確に意識していた。丸太のように太い脚で近づいて来る甲冑たちを蹴散らし、城壁の下へと突き落としていく。

 その目が空中の魔法使いに深々と怒りの瞳を突き立てる。だが彼らは決してひるむことなくブーケファルスと鳴の逃場を速やかに塞いでいく。

 王都から到達した追手は伊達な強さではなかった。その次々と放たれる魔術を前に、鳴は呪文を詠唱する暇すら与えられなかった。ただブーケファルスだけがますます激しく四肢を震わせ、城壁の外へついに翼を生やして魔法使の群に食らいついた。

 ペガサスだ。それは一瞬鳴にはその美しさに見とれそうになったが、この激しい戦闘の間では白銀の馬の姿を賞美する暇もなかった。

 カスパールがもう少し馬の機能について教えてくれればいいのにと鳴は恨んだ。

 だが魔王使たちの乗りこなす杖から魔術の波頭が飛んでくるのを見ると、呪文を唱えずにはいられなかった。体内に宿るエレクトラの力が、鳴の感情と舌を通して牙のようにたぎっていく。

「雷の精霊の御名によりて――」



 ゴードンは振り向いた。ほとんどが闇にかき消えた中で、淡い光が格子から差し込むように筋状の模様。

「激闘……か」

 鳴は無事なのだろうか。王国の主導権争いと言えば高尚な物に見えるが、思えばそこには常に損得が絡んでいた。どれだけ金をもらえるか、領地をもらえるか、その駆引だ。だが大抵の場合、人間はそれを美辞麗句で飾り立てるのだ。この言葉ほど空しい物はない。しかし、鳴の目つきは違った。

(あの男の目は何て曇りなく明るいのだろう)

 全部が違う。鳴の言葉に偽りはなかった。その好意を無下にすることもなかった。一体何がそうさせるのだ。神への信仰か、あるいはそれ以外か。

 ゴードンは鳴を従者として迎え入れたい気分だった。

(彼のような人間の方が多い世の中ならどれほど住みよいことか……ああいう人間が真に報われる社会でなければならない)

 王子は走って、隣国との国境を目指した。



 鳴はゴードンのことなどほとんど忘れ去っていた。足元から、空中から魔術による攻撃が吹き荒れる。

 刃も魔法も通さないブーケファルスの鎧も、次第に動きが鈍くなってきた。

 鳴は馬の首を叩き、

「頼む、ここから離脱しろ! 離脱しろって言ってる!」

 言い終わらない内に衝撃波が迫り、馬の足場を揺さぶった。

 馬は威嚇するように荒くいななき、頭を振りかぶって再び数人を真っ逆さまに突き落とした。

 鳴はこれ以上言うことを聞かない馬に叱りつけるよりは、呪文の詠唱に専念した方がいいと考えた。

 すでに、断続的ではあるが魔法をすでに一部実体化できる段階で引き出しているのだ。どれだけ魔法を行使すればその技能が上がるのか鳴には見当もつかなかったが、少なくとも初めて魔法を使った時よりは勘が冴えている。

 鳴は胸から腕にかけて電撃を走らせ、敵を鞭のように打ち叩く。誰かがうめき声をあげて墜落するのが見えたが、鳴はもはや敵を倒すことに躊躇などなかった。

 だが敵の方も鳴にたやすく屈するつもりはなかった。物々しい輪郭であるにも関わらずその動きは軽妙で、横へ体を傾けていとも簡単に鳴の雷鳴を躱してしまうのだ。

 どこからどこまでが呪文による効果であるか知れなかったが、彼らが相当な魔力の持ち主であることは明らかだった。

 手を杖に載せ、口も布で覆っている彼らがどのようにして魔法を発動しているのか皆目知れないが、とにかく彼らはより効率的に魔法を発動する手段を持っている。

 鳴はそろそろ集中力が切れかかっていた。この包囲網から逃れるには無理やり敵の幕を破る他ない。だが前に進もうとすると容赦ない凶悪な光の波濤。

 城壁の方からも攻撃を受けているのだ。似たような柄のローブに身を包んだ連中が、謎のきらめきに包まれた手から光線を発射している。その光線の一つが鳴へと向かっていき、ブーケファルスの巨体ごと広がって包み込んでくる。鳴の体重が急に増えた。何とも思わないはずの服が急に下へ下へとのしかかってきた。

 察しの早いエレクトラ。

「重力魔法だ! あいつら私たちを引っ張って固定しようとしてる!」

「どうすれば倒せる!?」

「そりゃあいつらを倒すしかない。でも後ろを向けば――」

 もう妖精の言葉を聞く前に鳴はかすかに振り向いていた。

(あいつらも倒すしかないのか?)

 宵闇をかぶって、その足元や手が見えるに過ぎない。鳴はそれを見て、もはや躊躇などなかった。

(どうせ遠いんだ。まともに当たりはしない)

 手心をかけることがどれほど愚かか分かっていても、鳴は覚悟を決めることができなかった。それが結局、命取りになった。

 何かが鳴の体を貫通した。

 体に穴が開き、血が迸った。

 鳴は、不思議と痛みは感じなかった。ただ、全身から力が抜けていった。エレクトラの存在も感じ取れなくなった。

 ブーケファルスはこちらを見ている。だがもはや助けに向かうことはしない。生命体ではなく機械に近い存在であるにしても、無感情な顔だった。

 いや、確かにその顔には。幾分か生き物らしさがあったのである。だがそれは、もう何かを諦めつくして、突き放すような冷たさだった。だが鳴にはもはやその表情の理由を推量るだけの頭も回らなかった。

 下には、漆黒の闇に包まれて静かな波が漂っている。何だか鳴には、その水面との距離が無限に開いているような気がした。

 その時、鳴の脳裏をかすめた感情は思考の産物などではなかった。

(このままじゃ俺は……あの世で姉さんに顔向け……)

 身動きも取れず鳴は、ベティスの水面へと墜落していった。水面にぶつかると、そのまま底へ底へと沈んでいった。


 ◇


 ほぼ同じ時刻、カルミナ村でブリュンヒルデは待っていた。机に頬杖を突きながら、もう暮れてしまった空の向こうを想像していた。

 無数の蛙の鳴声があたりにこだましていた。みみずくのさえずりがわずかに、ヒルダの孤独を理解するかのように聞こえた。

 ここ数か月、ヒルダにはあらゆる物が色を失って見えた。見る物全てに興味を示し、理解しようとする鳴との暮らしがどれほど楽しみに満ちていたか、今の彼女には痛いほどわかった。

 誰もが、ヒルダの変貌ぶりに薄々気づいていた。しかしそれを口にしようとはしなかった。鳴の存在はこの村では最初からなかったものとされたからだ。誰一人教会の決定に逆らうことなどできなかった。

 以前あれほど懸想をかけてきたイアンはもう村に姿を見せることもなくなった。名誉を求める必要がなくなったのだろう。噂では別の村にいい土地をもらったからだと聞くが、鳴の生死に比べれば取るに足りない話題のように思えた。

 だが、その葛藤を人に漏らすこともないくらい、ヒルダは塞ぎこんでいた。

「まだ、鳴が恋しいのか?」

 キルデリクが背後から尋ねる。思ったほど、それは大きな声でも険しい声でもなかった。

「もう奴のことは考えるな。もう鳴は死んだんだ」

 本当に静かな声だった。

 だが、どこかで鳴は生きているはずだという期待をヒルダは捨てきれなかった。あれほど力に満ちた人間があっけなく死んでしまうなんて信じたくなかった。

 けれど、その真偽は神だけが知っている。ヒルダの隣では花瓶に一本差されたアネモネが彼女の境遇に寄り添おうと垂れ下がっていた。

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