第一話 何なんだこれは
高咲鳴は自分の死体を上から凝視していた。コンクリートが血に染まっていた。白い制服が禍々しい色彩に汚されていくのを、その半透明の腕ではどうすることもできなかった。
(どうしてだ……どうして俺はこうなったんだ……!)
鳴は、自分の身に何が起きたのかさっぱり分からなかった。いや、分かろうとはしなかった。分かれば、そうやって困惑するどころではないかも。
痛みすら感じなかったのだ。腕も足も、もはや視界には映らないのに、あるように感じられている。存在していない体が、あるふりをしている。ごく数分前の感覚のまま、止まっている。
どんどん地上の屍の元に人が集まっていた。もう命の宿っていない自分を救おうとしている。
(俺は、死んだのか)
そして、いつしか地上が見えなくなり、薄暗い暗闇が周囲を包んだ。かろうじて、赤や緑が淡く光、色も形も持たない泡状の何かが右から左へ、左から右へ漂い続ける深海みたいな空間だけがずっと見えていた。
麻酔を打たれたかのように、あらゆる感覚がマヒしていた。
「高咲鳴……お前は、選ばれた」
(誰だ?)
鳴は、その声を聴いて疑念を抱くよりは安心した。朦朧とした意識の中でも、本当に自分が消えてしまうのかという薄ら寒い嫌悪感があったから。
目も脳もないはずだったが、霧のような模様の中に突如具体的な像がガラス越しに現れた。
ローブを身にまとった、背の高い男がいた、どんな表情をしているか、布地のせいで分からないが。
(俺はどうなったんだ。ここはどこなんだ)
心の中で、強く念じた。
すると、相手に伝わった。
「お前は、死んだ。どうやら交通事故に遭ったようだ」
(交通事故だって!?)
ようやく、鳴は自分に何があったのか思い出すことができた。いつものように学校に行っている途中に、突然自動車にはねられたのだ。自分が死んだという感覚すらなかった。気づくと、魂が身体から分離して、ふらふらさまよっていたのだ。
「今のお前は身体を失い、幽界をさまよっていたのだ。だが、その無意味な旅も今ここで終わる」
再び不安が襲いかかってきた。いきなり死んだことを告げられたのだ。もはや身体がない。熱さも寒さも感じない。この表現しようのない気持ち悪さを、ローブにぶちまける。
(選ばれたかどうか知らないけど、俺は普通に生きてただけなんだ。今すぐ元の姿に戻してくれ!!)
ローブは鳴の不安定さにややうろたえたか、瞳をしかめたが、また気を取り直し、
「案ずることはない。お前はまた元の人間の姿に戻ることができる。ただし条件がある」
(条件だって?)
「お前には、この我々が住まう世界『アルカディア』にしばらくいてもらうことになる」
知らない情報が多すぎて、鳴はまた拒絶反応を起こしそうになったがその時頭、というより精神の中の何かをいじくりまわされたかのように意識がかき回された。それは一瞬不快感をともなうものだったが、その後鳴にはなぜかローブが信頼するに足る、慈悲深い人間のように思われてきたのである。鳴は、相手に何か
急に無理難題を言われたので、
「お前は我々の言うことに疑問を抱く必要などない。ただそうするだけでお前はもう一度」
(世界を救うだって? どうして俺が救わなきゃ――)
再び何かの衝動に襲われ、無理やり鳴は相手の意見を聞いた。
(分かった。あんたの言うことに従いさえすれば元の世界に帰れるんだな)
「その通りだ」
それから後ろを向いて、どこかへと消え去ろうとする。
(待ってくれ。その前に名前だけ訊かせてくれ)
「我が名はカスパール」
若干間を置いて、ローブは静かに言った。
初めてカスパールは姿を見せた。男は禿頭で、若い僧侶という感じの顔立ちだった。肌の血色は良くまだ若さに満ちているが、目だけがまるで何百年も生きているかのように鋭く奥まで続いているかのような険しさを感じさせた。
祭壇の前に立膝を突き、仰々しく呪文を唱えだした。長い呪文だが、それを聞くたびごとにありえないはずの耳が震え、まだ存在していない全身が大きく揺さぶられる衝撃に見舞われた。いや、それは単なる錯覚ではなかった。
ずっとぼやけた色彩が急に鮮明さを取り戻し始めた。寒さが身を覆った。鳴は絶叫しそうになった。骨が、筋肉が、皮膚が塵から再生していくのをもろに感じ取ったからだ。目を傾けると、腕から手の骨が生え、骨の周りに赤いスライム状の液体がまとわりつくのを見てしまったからだ。
長い時間をかけて、鳴の体が元に戻った。鳴には何もかもが幻想に思えた。しかし指を動かし、脚を折り曲げて、それが本物であることを確かめた後、上体を起こす。しかし突然羞恥心がわき起こった。鳴は全裸のままだったからだ。
灰色の壁には、何かの絵がレリーフの技巧で描かれていた。三人のローブを着た誰かが一人の子供に手を添える場面。その子供が動物や人間を従え、その空で四角形の物体が光線を放つ場面。
そして、ビルや城や工場が崩れ去り、あらゆる人間が子供の前についていって光の中に帰っていく場面。だが、その意味は鳴には皆目分からなかった。
「俺は……生き返ったのか」
感情を見せないようにして、カスパールに恐る恐る視線を向ける。それは、感謝を込めての言葉ではなかった。今自分は、全く知らない世界にいる。
カスパールは少年に緑色の布を着せながら語るよう、
「お前はこの世界を導く者。特別な選ばれたものなのだ」
「俺は世界を導きたくなんかない。第一どうやって世界を導く?」
カスパールは頭を抱えたい風に眉をしかめた。
「そこまで故郷が恋しいのか?」
「恋しいとかじゃない。ただ残された家族や友人がどうしてるか考えれば、こんなところにいてもたってもいられないだろうが」
「それは君にとって大切なことだ。だが世の中にはより大事なことがごまんとあるものなのだよ」
カスパールはなかなか自分の意に沿わない鳴に対して思い切り告げる。
「私は単なる善意で君を蘇らせたわけじゃない。我々にだって今すぐに目指さなければならない目的がある」
我々とは誰を含んでいるのかと鳴は問いただしたくなったが、それをする必要はないと心のどこかが強く戒めていた。
「あんたが言う所では、この世界は俺が知ってるのとは違う世界のようだな」
「そうだ。世界はいくつも存在している」
カスパールが宙に手先で不思議な模様を描き、指を鳴らした。
無数の地球が、星空に現れた。その壮観さに、思わず見とれる鳴。
「……綺麗だ」 こればかりは、心の奥から出た感嘆だった。
「以前にもこの世界にやってきた人間がいる。だが彼は自らの意思で道を誤り、今は行方知れずだ。安心しろ、我々の言うとおりにすれば何の心配もない」
この男自身がそれに何と思っているのか気になる部分はあったが、カスパールは彼に質問する余裕を与えない。
「お前が元の世界に帰りたい望みはかなえてやる。しかしこの世界も危機を迎えている」
言われていること自体は、あまりにも重大なことだ。
さほど鳴は不安を感じていなかった。死人を蘇らせ、他の世界が存在することを認識できるほどの技術を持っているこの男ならきっと自分の信頼を裏切ることはないだろうと咄嗟に考えた。
「長く説明するわけにもいかない。お前にはしばらくの間この世界に滞在しなければならないのだ」
「俺は……」
だがそこから言葉を続けることができなかった。まばゆい光に包まれたからだ。
田畑を耕しながらブリュンヒルデは太陽を見た。まだ日の入りまでには長すぎる。
生まれてからずっとこの地で暮らしていた。そして、結婚して子供を産むという、先祖から続く伝統的な人生を送ることが運命づけられているものとばかり信じていた。しかしそれを裏切るような展開が起こった。
少し離れた、田畑のない空き地に突然白い光が灯った。この真昼間にそれはあまりに異様な光景だった。太陽が降臨したかのようなまぶしさだった。
だがブリュンヒルデが目をつむったのはわずかな間だった。光が収まると、そこに一つの人影が現れ、そのまま地面に倒れこんだ。
ブリュンヒルデは思わず、その場に駆け出した。
「あなたは……!?」
ごく若い、自分と変わらない年頃の人間だ。
少年の体を日陰に移してから、様子を観ることにした。死んでいたら、とんでもないことになる。だが幸いにも、腕に脈がある。目をわずかに開けた。しかしまた目を閉じて、弱々しくうなだれてしまう。
ブリュンヒルデはどうしようもないといった感じで、腕に抱えていた袋から牛乳を飲ませた。だが、少年の口には合わないのか、
そうこうしている内に、壮年の男性がやってきた。
「ヒルダ! その男は何だ!?」
「分からないの……いつの間にかこの野原に倒れていて……」
キルデリクは、ブリュンヒルデが様子を見ている少年の顔を怪訝な顔で見やる。
「国王派のスパイだったらどうするつもりなんだ?」
「まさか。こんな子がそんな人なわけ――」
ブリュンヒルデが返事に困っていると、
「こ、ここは……?」
大声を出した。
「良かった! 生きてたのね」
ブリュンヒルデの安心した顔を見て、一気に意識が戻った。大きな目、太いまつげ、肥えた頬、そしてほどよく日焼けした肌をしている。鳴が見慣れた人種とはかけ離れた顔だった。
鳴よりも先に、この少女は好奇心に満ちた声で問いかける。
「それにしても、あまり見ない顔ね。もしかして、小人族?」
鳴は、この少女にあまりにも違う世界観を見せられて面食らったが、どう説明すればいいかもわからず少女の顔をまじまじと見つめるしかない。
「に、人間だよ」
だが急に遠い場所へと強制移動させられたせいか、身体に激しい痛みがある。
耐えきれず、再び草叢に倒れこんでしまう。
「ちょっと、元気がないじゃない!」
困惑する少女。
キルデリクは両腕を組んでしばらく考え込んでいたが、低い声で、
「とりあえず、家にまで運べ。あとでじっくり話を聞く」
ブリュンヒルデは非常に鳴に興味を示しているらしかった。
「あなたの名前は?」
「高崎鳴っていうんだ」
「高崎? 聞きなれない名前ね」
どこまで言えばいいか、慎重に言葉を選びながら返事していく。
「私はブリュンヒルデ。とりあえず、ヒルダって呼んでね。」
「ここじゃない、別の世界からやってきたんだ」
「別の世界? ……別の国ってこと?」
このまま説明し続けても埒が明かないと判断して、とっさに嘘をつく鳴。
「記憶がないんだ。今まで自分が何をしてきたのか」
「記憶がないだと? もしかしてこいつ、魔術にかけられているんじゃないか?」
キルデリクはにらんだ。だいぶブリュンヒルデと顔が似通っているが、目力の強さに特化した感じの類似性だ。
「本当なんです。気づいたらここにいて……何もわからないままあの野原にほうりだされていて……」
カスパールが脳裏でささやく。
(そのままでいい。お前は記憶がないふりを続けろ)
鳴は、場をひたすら取繕うために賢者の言葉に従って会話を続けた。
「ヒルダ、こいつを信用するのか?」
「おじさん、この人はそう悪い人間には見えないわ。きっと良い人だよ」
(この二人は、親子じゃないのか) 鳴は、二人の顔を交互に見やる。
「だがまだ牛の乳をしぼってないんだ。いいから手伝え」「はいはい」
ヒルダは苦笑いしながらキルデリクについていった。
鳴はようやく自分がいる場所がどんな風なのか観察する暇が与えられた。
隅に飼い葉桶があり、牛のいななきがひっきりなしに聞こえてくる。
あまり深呼吸することはできなかった。会話している間はあまり気にしていなかったが、気づくと植物や糞尿の匂いがきつく、むせ返りそうになる。鳴はあらためて、そこが異世界であることを確認した。
再び、垂幕を上げてブリュンヒルデが入ってきた。
「案内してあげるから、ついてきて」
見ず知らずの他人になぜここまで好意的でいられるのか不思議でならなかったが、少女の腕に強くつかまれ――間近で見ると、実に太く力強い腕だ――家から村に連れ出された。
絵本のような光景が続いていた。
それは鳴が今まで見たどんな光景とも違って見えた。田畑があり、緑の山が城壁のように左から右まで地平線をそこには科学の恩恵など被らない、近代以前の世界が広がっていた。
「この村でみんな生まれて死んでいった。でも私、本当はこんな狭い所から抜け出して、色んな所を旅したいの」
異邦からの客人として、ヒルダは
「色んな所、か」 ヒルダの親しげな様子に戸惑いつつも
「もしかして、あなたも色んな所を旅してここにやってきたの?」
「いや、別に……そういうわけじゃ……」(だめだ、話せないことが多すぎる)
ヒルダには、やはり鳴の意識が朦朧としている物と見えた。
(長旅で疲れ切っていたのね)
やむを得ず、差し障りのないことを言う。
「でも、この村はとても美しい光景だ」
「カルミナっていうの。素敵な名前でしょ?」
「カルミナ……」(アルカディアのカルミナ村か。覚えた)
「まあ。あまり難しいことが考えてないの。私にとってはこの村がすべてみたいなもんだから」
若干の諦めがある。
電車や飛行機など見る影もない時代なのだ。
頭を傾けるとどこまでも青空が広がっている。その美しさに反して風にも小汚い香りが立ち込めていたが、だんだん鳴はそこにも一種の風情を感じるようになっていた。
「ねえ、この場所が気に入った?」
「え? まあまあかもしれない……」
「若造、あまり怪しいことを言うものでないぞ。身元が分からないとは実に困ったことだからな」
しかしそれを荒らすような出来事が起こった。地面を踏み鳴らす、絶えず続く足音がこちらに近づいてきた。
「この辺に王子の手下はいなかったか?」
騎馬兵がいる。それまで絵や映像でしか見たことがなかったが、この距離から見ても威圧感がものすごい。
「まずい。大公派の奴らだ」
「何一つ見ておりません」
「キルデリクが言うならそうなのだろうな。もし奴らを見かけたらすぐに伝えに来い。まだ奴の倅も捕まっていないのだからな」
騎馬兵は轟音を上げてそこから去っていった。
寒々しい空気がまた元に戻った。この空気感は戦争か暴動のような荒々しさがあり、鳴は一瞬息が止まっていた。
「その、大公派の奴らって何なんだ?」