さよなら、私のブルースター
信じていました。
あなたに、手を振り払われるまで。
件の少女──男爵令嬢のマーガレット様と私の婚約者が抱き合っているのを見たのは一回ではありません。内、何回かは意地悪そうに嗤うマーガレット様と目が合いました。
あれは、意図的でした。見せつける様に、私を馬鹿にしたあの目は今でも忘れることができません。
マーガレット様の、庇護欲そそる可愛らしい見た目と中身は反しておりました。
気が付けば彼女は何人もの男性を侍らせるようになっていて、その取り巻きの中には私の婚約者もいました。
彼の瞳が彼女を追っているのは明らかで、それに比例して私を視界に入れることを厭うようになりました。
いえ、目が合えば逸らされる程度はまだいい方です。私が汚いものかの様に、彼は顔を顰めるようになったのです。
彼の態度はどんどん酷くなっていきました。
マーガレット様と私の容姿を比べて嗤い、肩に少し触れただけで睨み、ダンスに誘わなくなり、私が失敗すれば大袈裟に溜息を吐くようになりました。
一年以上こんな仕打ちをされてしまえば、もう、私は彼が怖くて堪らなくなっていました。
週に一度はしようと決めていたお茶会やデートも、ちょっとした贈り物や手紙のやり取りもなくなりました。
流石にお誕生日のお祝いがカード一枚だけだった時には勇気を出して意見したのですが、「意地汚い」と責められてしまいました。
──プレゼントが欲しかったのではないのです。
私は疲れ果てておりました。
夜は眠れず、食欲は減退し、口数は異常に少なくなりました。
「婚約を解消したい」
ある日彼から言われた時には喜びを感じてしまう程に追い詰められていたと思います。
結局、婚約は白紙にはなりませんでした。家と家との取り決めですから当然です。
しかし、そんな状態になるまで何をしていたのだとお父様に叱られました。
でも私は努力したのです。
怖くて堪らない気持ちを抑えて、彼と向き合う努力を。がっかりだと言われた容姿やセンスを少しでもマシにする努力を。
──それを言ってもお父様はきっと納得しないのでしょうね。いつも、ろくに私の話も聞かずに、努力をしろと命ずるだけですもの。
マーガレット様は、学園に入学するほんの少し前まで市井で暮らしていた元庶民でした。お母君が亡くなられた彼女は男爵の庶子で、身寄りがない彼女を引き取ったという話です。
これは特段珍しい話ではありません。彼女が特殊なのは、境遇ではないのです。
マーガレット様が侍らせている爵位が高い彼等には勿論、婚約者がいます。だから彼女に注意をしたのです。元庶民であることを言い訳にしてはいけません。貴女はもう貴族なのです、と。学園では立場が平等であるとされていますが限度があります、と。それは常識で、教えてあげることが親切だと思いました。そう思っていたのは私だけではありませんでした。
私達は学園で『淑女たれ』と教えを受けました。貶めた言い方をしたご令嬢はいません。きちんと一対一で場所を整えてお話しました。婚約者がいる殿方と親密になるのは良くない、マナーが目に余る、優し過ぎる程の口調で注意しました。
しかし。
「皆んなとお友達になりたいだけ」と言う彼女に、「では私と友達になりませんか」と言えば「酷い」と泣き喚かれました。廊下を歩いていて、突然目の前に現れ悲鳴を上げて転んだ彼女に手を差し出せば怯えられました。
何が悪かったのでしょう……私は、本気で悩みました。
そうしているうちに、婚約者である彼から呼び出され「マーガレットにしてる嫌がらせをやめろ」と言われたのです。
靴を水浸しにし、教科書を破き、階段から突き落とした……覚えがない私の悪事を彼は責めました。怒っている彼の腕に震えるマーガレット様がしがみついていて、その顔はいつか見たあの意地悪そうな笑顔でした。
「昨日、マーガレットを階段から突き落とそうとしたそうだな」
「わ、私、そんなことしてません」
「白々しい。ではなぜマーガレットが泣いているんだ? お前が彼女を呼び出したのは知っている」
「それは……ただ、注意を……」
「だから、その注意をやめろと言っている。危うく大怪我しかけた」
「違っ! 誤解です!」
「うるさいっ! 今度マーガレットに近付いたら承知しないからな!」
どうして?
どうして信じてくれないのですか?
彼はその日以降、私を蛇蝎の如く嫌いました。
酷い言葉で詰られ、振り払われた手が痛かったのを覚えています──これが彼が酷い態度になったきっかけです。
彼は私の名前を呼ばなくなり、「お前」と呼ぶようになりました。
家格、見目に優れた彼等がマーガレットに言い寄る様を見て、矜持を傷付けられたと婚約を白紙にしたのはオリヴィア様です。彼女のようになれたらいいのにと強烈に憧れました。
婚約者に口汚く罵られ、傷付きながらも必死で婚約者に縋るミッシェル様とフィオナ様は哀れで惨めでした。
私が言えた立場ではありませんが、痛々しく、お可哀想で見ていられませんでした。
──私も周りからそう見られているのでしょうか。
燃え上がるような、物語みたいな恋ではなかったけれど、ずっと一緒にいるならこの人がいいと思える人でした。この気持ちを疑ったことさえありませんでした。
私の十二歳の誕生日に成った婚約者の彼は同い年だけれど大人びた少年で、弟妹がいる為か面倒見が良く、彼が声を荒げた所を一度も見たことがありませんでした。
彼は私に優しく、人見知りで泣き虫で鈍臭い私を急かすことなく待ってくれました。だから、焦らずに気持ちを伝えることができたし、失敗しても怖くありませんでした。
真面目で誠実で穏やかで優しくて、苦いチョコレートと甘い紅茶が好きで、笑う時に出来る笑窪が可愛くて、動物や子供に好かれやすい人。
彼の良いところがあり過ぎて、お友達に呆れられても、照れた彼にやめてくれと言われても、止まりませんでした。
私より一回り以上大きな手も、柔らかく癖のある黒髪も、湖畔を思わせる凪いだ青い瞳も、私を呼ぶ声も、全てが愛おしいものでした。
相手を傷付けないように言葉を選ぶ人でしたから、私が彼の言葉で傷付ついたことなど一度も……学園に入学するまでは、たったの一度もありませんでした。
ですが、マーガレット様と出会って彼は変わってしまったのです。
恋をすると、誰しもああなるのでしょうか。一人の女性を数人で共有することに疑問も持たずに、長年一緒にいた婚約者を蔑ろにし、罵るようになるのが、恋?
彼に暴言を吐かれた時に思ったことは、悲しいでも悔しいでもありません。
──死ねばいいのに。
彼も、あの女も。
そう思いました。
「お嬢様、お見えになりましたが……」
侍女が手に持っている花を一瞥してから首を横に振ります。
それは私がかつて一等好きだった花──今では大嫌いな花です。
「今日は体調が良くないからお断りして。……贈り物は今後一切受け取らないでって昨日も言ったのだけど覚えていて?」
何回も同じことを言わせる侍女に苛立ってつい強い口調で言ってしまい、罪悪感と後悔が湧きます。
八つ当たりなんてしたくないのに……感情のコントロールができません。
「休みたいから一人にしてちょうだい」
感情を隠せない私の声に、侍女は何かを言いかけ、頭を下げて部屋から出て行きました。
マーガレット様が魅了という禁じられた古い呪いを使用して男達を惑わせていたと判明したのは、つい二週間前のことです。
夢中になっていた彼等は呪いが解けると、膝を突いて婚約者達に謝罪をしました。
オリヴィア様には新しい婚約者の方がいるのを、魅了にかかった元婚約者はそれはもう嘆いているそうです。
ミッシェル様とフィオナ様からは彼が戻ってきてくれて嬉しい、というお手紙をいただきました。
他にもマーガレット様の魅了でおかしくなった人達はいたようですが、そんな彼等を許さない者より許す者の方が多かったと聞きます。呪いの被害者だから悪くない、だそうです。皆さん、お優しいですね……正気なのでしょうか。
マーガレット様の処置は現在どうするか話合わせているそうですが、死んだ方がマシだと思う刑に処されることは間違いがないとオリヴィア様から聞きました。なんでも新しい婚約者の方にそうお願いしているとのことです。
オリヴィア様を怖いと言う気持ちよりも、マーガレット様に対していい気味だと思いました。
「これにて、一件落着ですわ!」
うふふ、とオリヴィア様が綺麗に笑まれました。
「そうですね」
貴女は、ね?
微笑み返しながらも私の心は一気に冷えました。なぜこんな人に憧れを抱いていたのか分かりません。
たった一言、たった三十秒前の出来事で、人への気持ちは変わると知りました。
──私も、変わってしまいました。
彼は呪いが解けた日から私に毎日会いに来ます。
私は彼が会いに来る時間にだけ、いつも体調が優れなくなるので、部屋の前で話す声しか聞こえませんが。
「フランチェスカ」
私を呼ぶ声に返事はしないまま、そっと目を閉じ、両手で耳を塞ぎました。聞きたくないのです。あんなに好きだった声を耳障りで不快なものに感じてしまうのです。
彼と私は、学園を卒業したら予定通り式を挙げます。
お父様が許したのです。私が彼を「許さない」と言ったところで意味はないのです。許そうが許さまいが結婚するのですから同じこと……私への謝罪はもう要らないのです。
彼は今日も頭を下げます。扉の向こうで、耳を塞ぐ私に向かって。途中からあまりにも大きな声でみっともなく叫ぶものだから、嫌でも届いてしまいます。
──フランチェスカ、申し訳なかった。すまない。顔を見せて欲しい。それが無理ならせめて声を聞かせてくれないか。頼む。お願いだ。一言でいいんだ。どうか、許して欲しい。
謝って済むなんて思ってない、と言いながら彼は今日も謝ります。「済まない」と思っていない証拠です。私を舐めきってるのでしょうね。
こんな風に思う私は意地が悪いでしょうか?
「もう許してやりなさい。気持ちはわかるが……式も近いし、そろそろ……」
お父様は言います。
あんなに謝っているのだから、と。呪いのせいなのだから許してやりなさい、と。
「お父様」
マーガレット様の魅了とは、『ほんの少しの好意が増幅する呪い』です。
彼は被害者なのでしょうか? マーガレット様の魅了にかからなかった方もいるというのに?
跳ね返せない呪いではなかったと聞きました。それを。許せ、と言うのですね。
反省すればどんなことも水に流さねばいけないのですか? 私の辛く惨めで不安な時間は何だったのでしょう。返してくれるなら許してあげてもいいですが、返せますか?
戻ってきてくれて嬉しいと言わなければだめなのですか? 私の気持ちをどうして聞かないのですか? 私の気持ちは私だけのものなのに、なぜ勝手に決めるのか理解できません。
私ではないのに、私の気持ちを分かるなど二度と仰らないでください。
お母様が生きていたらこんな時、私になんて言うでしょうか。許してあげましょう、と言うと思っているのですか?
やっぱり、「きっとそうだ」なんて言うのですね。そんなことを言う人の言うことは聞きたくありません。
私、嘘吐きは嫌いなのです。大嫌いなのです!
「結婚はします。お父様の命令ですもの。従います。許そうが許さまいが、私は命令に従うと言っているじゃありませんか。……これ以上、命令しないでくださいませ」
彼が好きでした。
くれる花も、言葉も、視線も、全部、好きでした。
私の世界はいつも優しいものでした。
欲しいものが手に入ることが当たり前で、持っていることが当然で、与えられた幸せを信じていました。
でも、今はもう違うのです。
私は、以前の優しいと言われていた私ではなくなってしまいました。与えられるものを、優しいと感じられないのです。
ぼんやりと窓の外を見ていると、馬車から降りた婚約者が目に入ります。
私は、近い将来あの男と結婚し、いずれ子を生すのです。
果たして、その子供を私は愛せるのでしょうか。
触れられるのも悍ましいあの男の子供を、私は抱けるのか……とても不安です。子供に罪はないのに、憎んでしまったらどうしたらいいのでしょう。
ああ、その前に結婚式がありますね。神の御前で私は誓わなければいけません。
──彼を愛し、信じることを誓いますか?
彼がふと立ち止まり私に気付きました。目が合ったのは随分久しぶりです。
「フランチェスカ!」
私の名前を叫んだ彼が、また同じ言葉を繰り返します。聞き飽きた謝罪の言葉に対する感想は、うんざりの一言に尽きます。
顔を見たら、絆されてしまうのではという思いは杞憂に終わり、むしろ腹立たしさを感じます。
性懲りも無く彼が持って来たのは私の嫌いな青い花。
それは彼が膝を突いた拍子に踏まれ、地面に落ちて汚れています。あんなに踏み躙られてしまっては、もう元に戻ることはないでしょう。
──彼を愛し、信じることを誓いますか?
「……いいえ、誓いません」
【完】