プロローグ
音が、聞こえる。否、これは人の声だ。常人では聞き取ることも難しい程の微かな声が、一人の男の耳には聞こえていた。
――何を言っているのだろう。
ぼやけた視界と薄れる意識の中で男は心の中で問う。暗闇の右も左も分からない中で自問自答している余裕など男には無かったのだが、聴き逃してはいけないと自身の本能が訴えていた。
――息が、できない。
体は冷えきって、呼吸すらままならず、手先足先の感覚も無く、自分が今何をしていて何処にいるのかも男にはもはや分からなくなっていた。
もうすぐこの視覚も終わりを告げる。故に男は薄れゆく意識の中で、まだ失っていない聴覚に神経の全てを集中させた。声の主は泣いているのだろうか。男は、掠れていて、でもどこか幼くて、寂しそうで、苦しそうな『声』を聞く。
「――私を、助けて……。」
全く聞き覚えのない声を聞き取れば最後、男は聴覚を失った。
味覚以外の全てを失った男はようやく理解する。自分が今死の淵に居て、たった今誰のものか分からない声を聞き取って、そして……自身の命の灯火が消えようとしていることを。
――あぁ、俺は死ぬのか。声の子は、誰だったんだ……?
男は背を地に向け、悠々と泳ぐ魚達の群れの間を通り、海の底へ底へと沈んでゆく途中なのだ。
この世で一番苦しい死に方は溺死だと聞くことがあるがきっと間違いないだろうと男は感じる。苦しくて、冷たくて、一人ぼっちで、暗闇の中で、魂が肉体から剥がされていくのを感じ取りながら朽ちるのだから。
どうしてこうなったのか。
そんな事を考える余裕も思考力も男にはない。考えようにも既に男の意識は途切れ、目も開けられない水圧の中でゆっくりと身体を押し潰されているのだ。意識もない中で頭を働かせることは普通ならば『不可能』と答えるだろう。
そんな時。男の意識の外で、白いノースリーブ型の衣装を着た一人の女が、桃色の髪を水中で揺らしながら近づいてきて、男の手に触れた。
常人ならもう耐えられるはずのない水圧の中を、服を着たままどうして悠々と泳いで近づいてこれたのだろうか。女は、男の指に自身の指を絡め、男の手を強く強く握った。二人が繋がった部分は暗闇の中で眩い光を放ち、その光は男と女を柔らかく包み込む。
「――生きて。」
次の瞬間、男は死の直前で意識を失ったまま
終わりを共にするはずだったこの世界から『連れ去られた』
初投稿となります!至らない点もあると思いますが暖かい目で見守って下さるとありがたいです。