第四章 其の五
レフリーがそう宣言して、王者決定戦が開始された。
とりあえず俺はいつも通りガードを固めて、摺り足で前へ進む。
すると眼前の男――仮面の男がだらりと左ガードを下げた。
そしてその長い左腕を死神の鎌のようにゆさゆさと振った。
あの構えはヒットマンスタイル!?
かつて元五階級制覇した名王者が得意としたファイトスタイル。
オフェンス、ディフェンス共に有効な攻防一体のスタイルだ。
あのだらりと下げた左腕からフリッカージャブと呼ばれる
変則的なジャブを放ち、相手の前進を食い止める。
仮に懐に飛び込んだとしても、次に待ってるのは右のチョッピングライト。
離れていたらフリッカージャブ、接近すればチョッピングライト。
この二つのパンチで常に主導権を握るのが、このファイトスタイルの特徴だ。
だがこのファイトスタイルはリーチが長くないと成立しない。
更にディフェンスに関しては目と反射神経の良さが重要となるので、
並のボクサーでは、このファイトスタイルを使いこなす事は不可能だ。
そして俺の見る限り、この眼前の男はこのファイトスタイルが妙に板についている。
――隙がまるでない。 こいつは強い、間違いなく霧島より強い。
すると次の瞬間、だらりと下げた左腕から変則的な左ジャブが放たれた。
普通のジャブとはやや軌道が異なる変則的な左ジャブ。
一発、二発目は躱したが、三発目以降はまともに喰らった。
ク、クソッ……予想以上にジャブが伸びやがるっ!?
更にフリッカージャブが連打される。 とりあえず俺は足を使って逃げる。
こいつはにわか仕込みじゃない。
間違いなくこのスタイルを得意としている。
ならば接近したいところだが、そうするとチョッピングライトが来るだろう。
クソッ、ジリ貧だぜ。 そもそも俺は高校レベルのボクサーだぜ?
大体、日本の高校生ボクサーでヒットマンスタイルやフリッカージャブを
使いこなす奴なんてまず居やしない。 そもそもプロの世界でも稀有なくらいだ。
それを容易に使いこなす眼前の仮面の男。 こいつは並のボクサーではない。
とてもじゃないが俺なんかが太刀打ちできる相手ではない。
こりゃ、まともに勝負しても勝ち目はないな。
そう思いながら、俺は乾いた唇を舌で舐めた。
だが俺の中で棄権するという選択肢はない。
どういう形であれ俺はここまで勝ち残った。
言うなれば他人を押しのけて、勝ち得た栄冠だ。
だから勝ち目がない戦いでも、途中で逃げ出す事は許されない。
「意外と骨があるな。 だが貴様では俺のフリッカーを躱しきれまい。
このまま人間サンドバックになるか、棄権するか好きな方を選べ」
「へっ、嫌だね。 確かにアンタはボクサーとしては、俺より遥かに格上だ。
だがこれはボクシングの試合じゃない。 ――だからこういう戦い方もある!」
俺はそう言いながら、左手に水の闘気を纏い、仮面の男の足元に照準を定める。
そして左掌から直線状に水撃を放つ。 それをサイドステップで躱す仮面の男。
そこから今度は右手に光の闘気を宿らせて、ステップインして前進する。
迎撃するように放たれる左のフリッカージャブ。
それをヘッドスリップで躱しながら、俺は右手から光弾を打ち放つ。
至近距離からの砲撃。 だが光弾は直撃する前に消し飛んだ。
野郎、右手に闇の闘気を宿らせて、レジストしたな!
だがそれも計算内。 俺はダッシュしながら、地面にしゃがみこんだ。
「喰らえ、蛙飛び――」
「ふん、小癪な真似をっ!!」
俺は両足に風の闘気を纏い、全力で地を蹴った。
そして頭を前方に突き出して、仮面の男目掛けて突貫する。
それと同時に仮面の男は右腕を振り上げて、迎撃体勢を取る。
右のチョッピングライトでカウンターを取るつもりか!
だがそうはさせない。 俺はそこから横っ飛びして、
閃光のような右カウンターを躱す。
そうあくまで蛙飛びは擬態。 本当の狙いはこれだ!
「――今だ、カゼルパンチッ!!」
俺はがら空きになった眼前の男の右脇腹にカゼルパンチを叩き込んだ。
鈍い感触と共に拳に確かな感触が伝わる。
僅かに身体を九の字にする仮面の男。
よし、このままもう一撃ガゼルパンチを奴の右顎に喰らわせて……
と思った矢先に顔面に痛みが走った。 俺は思わずバックステップする。
「舐めるなよ、俺もボクシング以外の戦い方は心得ているぜ」
「ぺっ、裏拳を使うとはボクサーの風上にも置けないぜ」
「だがこれはボクシングの試合ではない。 そう言ったのは貴様だぞ?」
「違いねえ。 上等、上等。 なら心行くまで戦おうじゃねか!?」
俺は左手の甲で顔を拭いながら、そう吐き捨てた。
再びファイティングポーズを取り、俺は地を蹴った。
そして放たれる左フリッカージャブ、仕方ない、多少被弾しても前で出る!
しかし俺が前進する前に、顔面に何かが衝突して鋭い痛みが走った。
な、なんだ? 今の痛みは?
するとまた閃光のような速度で何かが飛んで来た。
俺は両腕に闘気を纏い、腕を十字にして防御する。
パチン、パチン、パアチンッ!!
防御越しにも、響く一撃。
更に目を凝らして、飛び交う何かを見据える。
――み、見えた。
野郎、左ジャブを出すような仕草をしながら、
闘気の塊を指弾のように指で弾いて、こちらを狙い撃ちしていたのか。
コイツ、霧島とは違い、この異世界での戦い方も心得てやがる。
だがある意味フリッカージャブの方が厄介だ。
ならばここは多少危険でも前に出る。
俺は全身に闘気を纏って、両腕で顔を防ぎながら、全速力で間合いを詰める。
バシン、バシン、バシン、バアシンッ!!
鈍い痛みが身体の至る所に伝う。 だが耐え切れないレベルではない。
そして奴との間合いを狭まり、射程圏内に入った。
今だ、ここからガゼル――パンチならぬキックだ!
地を滑空して、弧を描きながら、俺はおもむろに左のローキックを放つ。
バシン!
だが俺のローキックが命中する前に、眼前の男は右足を上げてブロックした。
「な、何っ!? ローカットしやがった!?」
「お前の戦いぶりは決勝戦で見せてもらったよ。 狡いがなかなか
理に適った戦法だ。 だが俺には通じんよ。 ――今度はこっちの番だ!」
「や、ヤバい!?」
「――遅いぜっ!!」
次の瞬間、俺の顎の先端に激痛が走った。
奴の体重がたっぷり乗った右のチョッピングライトが直撃。
俺は背中から地面に転がり、勢い良く後ろに十メートル程、吹っ飛ばされた。
「ヒョウガ・ユキムラ選手、ダウン! ワン、ツー、スリー……」
カウントを取り始めるレフリー。
だが俺の全身はピクりとも動かない。
まるで身体の中枢神経が破壊されたような感じだ。
次第に意識が混濁してきた。
ク、クソッ……顎が痛てえ、もしかしたら割れたのか?
「……フォー、……イブッ、……ックス……」
次第にレフリーの声も掠れてきた。
強い……なんてものじゃない。 レベルが違い過ぎる。
結局俺はこの世界でも最強の称号は得られなかったか。
だが悔しいという思いより、安堵感の方が強かった。
このまま寝ていたら、少なくともこれ以上怪我する事はない。
正直立ち上がる気力もない。 立ち上がれば、最悪殺されかねない。
情けない限りだが、この時の俺は本気でそう思っていた。
言うならば動物の自己防衛本能。 絶体的恐怖の前には勇気も霞む。
情けないが、それが俺と奴との強さの違い。 単純に器が違うのだ。
「……ブン、……イト、……イン、……」
そして最後までレフリーのカウントを聞く前に、俺は意識を失った。




