プロローグ
「本当に退部するつもりか?」
「はい」
俺はボクシング部の顧問兼監督の言葉に小さく頷いた。
すると監督は渋面になり、「うーん」と唸っている。
「お前には期待していたんだがな。 退部の理由は何だ?」
「視力の低下と大学受験に専念する為ですよ」
俺は学生の伝家の宝刀を取り出し、監督の反論を封じる。
まあ嘘は言ってない。 視力の低下は別の理由だが、学業に
専念したいという言葉も嘘ではない。
「そうか、でも悔いはないのか? 奴さえ居なければお前は――」
「悔いはありません。 だから退部させてください」
そう言って俺は頭を下げた。
思いの他、監督が引き止めするな。
でも俺はもう嫌なんだ。 永遠の二番手という位置づけが。
「わかった、そこまで言うなら退部は認めよう。
但し今度の大会には出場してもらう。 それが条件だ」
「か、監督っ!?」
「雪村、お前は他の選手を押しのけてレギュラーの座を
勝ち取ったんだ。 だからその手前、お前が戦いもせずリングを
降りる事を許容するわけにはいかん。 これだけは譲れない」
ちきしょう。 痛いところついてきやがる。
こう言われたら、俺もNOとは言いにくい。 策士め。
大方、大会に出場させて俺の気が変わる事を期待しているのだろう。
だがお生憎様。 俺の気持ちは変わらない。
「分かりました、試合には出ます。 ですが俺の気持ちは変わりませんよ?」
「うむ、試合は週末だ。 それまではちゃんと部活に出ろよ?」
「はい、それでは俺はもう失礼します」
俺は監督に背を向けて、部室のドアのノブに手をかけた。
すると背後から監督が独り言のようにこう言った。
「雪村、他人に負ける事は恥じゃないんだぞ。
本当に問題なのは、自分自身に負ける事だ」
何処かで聞いたような台詞だが、俺の心にはまるで響かない。
もうそういうありきたりの言葉じゃ俺の決心は揺らがない。
「それでは失礼しました」
ふう、やれやれ。 結局、即退部にはならなかったな。
まあでも今度の試合さえ終われば、晴れて自由の身だ。
もう毎日汗臭くて痛い思いをする生活ともおさらばだ。
そう思うと自然と心が躍る。
さて今日はさっさと帰って、今夜もネットゲームでもするか。
そう、実は言うと俺の視力低下はネトゲー中毒が原因だ。
かれこれ中二から高二の今まで約三年近くプレイしている。
当然そんな事をしていたら、視力も低下するが、
『ネトゲーで視力低下しました』というのは、やや外聞が悪い。
だから視力低下の原因は、あくまでボクシングという事にしたい。
ガチのボクサーからすれば、ボクシングに対する冒涜だと言って
怒られそうだが、俺は何の後ろめたさもない。
もうボクシングは嫌なんだ。
いや正確にいうと、誰かの噛ませ犬になるのが嫌なんだ。
「先輩、雪村先輩っ!!」
急に呼び止められて、思わず声の方向へ振り向いた。
するとそこには、栗毛のセミロングの女生徒の姿があった。
ここ私立・鏑崎学園の制服は、
男子がクラシックな黒い詰め襟に対して、女子は黒いブレザーのジャケット、
白いブラウスの胸元に青いリボン。 チェックの薄緑色のスカートという格好だ。
目の前の少女は、そんなお洒落な女子の制服を綺麗に着こなしている。
目が大きくてパッチリしており、手足も長く、スタイルも良い。
だがいささかその胸元の自己主張は謙虚気味だ。
「ちょっと何処見てるんですか?」
「あ、悪い。 おう、真理亜。 何か用か?」
「先輩、本当に退部するつもりなんですか?」
この少女・朝比奈真理亜はこう見えて、
鏑崎学園のボクシング部の一年生マネージャーだ。
今風の女子高生といった垢抜けた雰囲気の彼女だが、
彼女の実家はボクシングジムを経営している。
彼女との出会いも俺が中二の頃に朝比奈ボクシングジムに
通ったのがきっかけだ。 当時から明るくてジムの皆から、彼女は
可愛がられており、それはボクシング部のマネージャーになっても変わらない。
容姿端麗だけでなく、明るくて世話好きな彼女は部員からも好かれている。
「ああ、今しがた監督に退部届けを渡したよ」
「そ、そんなっ……退部するなんて勿体ないですよっ!?」
やれやれ、どうやら彼女も俺を引き止めにきたらしい。
こういう所は少々おせっかいと思うが、表情には出さないでおこう。
「いや視力の低下が顕著でな。 あと大学受験にも専念したいからな」
「……でもせっかく中学二年から頑張ってきたのに、今辞めるなんて
勿体ないですよ。 そりゃ先輩の階級にはあの人が居ますけど……」
真理亜の言葉に思わず、眉毛がピクリと動く。
理由がわかっているなら、口に出すなよ。 と思わず内心で毒づく。
「いいじゃねえか。 本人がもうやる気ないんだから」
「でも大会にも出場しないで辞めるなんて……」
「大会には出るさ。 それで綺麗さっぱり終わりさ。
もういいだろう。 俺は用事あるんだよ。 じゃあな、真理亜」
そう告げて、俺はこの場から立ち去った。
まったくどいつもこいつもいらぬ世話を焼きやがる。
本人にやる気がなかったら、部活なんて辞めた方がいいんだよ。
もうボクシングは終わりだ。 これからは毎日ネトゲーしながら、
ほどほどに勉強して、少しでもランクが高い大学を目指すのだ。
これの何が悪い。 誰にも迷惑なんかかけてないじゃないか。
そう思いながらも、俺の胸が妙にズキンと痛んだ。
「クソッ、俺は噛ませ犬なんかじゃねえ」
帰宅後。
夕食を終えて、風呂に入ってから俺は自室に戻った。
俺は黒いパジャマ姿で、パソコンの電源を入れた。
俺の部屋は六畳一間で、板は木張り。 部屋の壁には
国内国外の有名ボクサーのポスターが張られている。
だがもうボクシングは辞めたから、これらのポスターは要らないか。
パソコンが立ち上がる待ち時間の間に俺はポスターを剥がしていく。
だが最後の一枚だけは、剥がすことを止めた。
この金髪碧眼のイケメン白人ボクサーは今でも俺の憧れだ。
19歳の若さで世界王者になり、26歳の時に無敗のまま
交通事故で他界した伝説中の伝説の世界王者。
最後の最後まで無敗で他界するなんてマジでカッコいい。
容姿も端麗で、そのボクシングスタイルも最高に格好良かった。
などと思っていたら、パソコンが立ち上がった。
俺は剥がしたポスターを重ねて、机に置いてからマウスを手に取る。
そしてゲームのトップ画面を立ち上げて、早速プレイを開始。
俺がプレイするこのゲームは国産のMMO。
超有名な国産RPGドラゴンズ・エクシードをオンラインゲーム化したものだ。
そのシリーズの熱狂的なファンだった俺は、サービス開始時の三年前から
このゲームをプレイしている。 今ではかなりのベテランだ。
前衛の攻撃役から後衛の回復職。
更には支援職など大体の職業をする事が可能だ。
ゲーム内通貨も毎日地道な金策をして、今では億以上持っている。
もちろんRMTなんか絶対しない。 全部自力で稼いだ。
俺はログインするなり、ギルドのメンバーに挨拶する。
するとギルドのメンバーがこぞって挨拶を返してくれる。
俺、雪村氷河は子供の頃から目つきが鋭くて、
よく同級生から怖いとか言われた。 実はいうとボクシングを始めた
理由も目つきの悪さで上級生に絡まれたのが原因だ。
その時は何もできず適当に謝っていたが、後で情けなくなり
ボクシングジムへ通い、毎日身体を鍛え始めた。
その甲斐もあって、もう上級生がちょっかいかける事もなくなった。
だがその代わりますます周囲から恐れられるようになった。
でも俺自身は不良なんかじゃない。 ちゃんと勉強もしているし、
喫煙や飲酒もしない。 だが確かに自分でも目つきは悪いと思う。
人の判断基準は基本的に外的印象が大きい。
俺自身それは否定しない。 自分が怖いと言われるのは嫌だが、
俺もパンチパーマをかけた怖いオジサンは嫌いだ。
だがこのゲームの世界では、リアルの格好など関係ない。
好きなようにアバターを弄れて、装備も見た目も変えたいように
変えれる。 そしてこういうゲームでは、えてしてリアルの
話は禁句だ。 故に気楽に他人と繋がれて、遊べる。
気がつけば俺は毎日のようにログインしていた。
週末なんかは徹夜に近いプレイをする事なんかも日常茶飯事。
とにかくこの世界は俺にとって非常に居心地が良かった。
今もこうしてギルドメンバーが挨拶を返してくれる。
だがプレイして三年経つが、ギルドメンバーのリアル情報は
殆ど知らないし、興味もない。 俺自身も学生という事で通している。
年に何回かはオフ会も開かれてるようだが、俺は不参加だ。
正直リアルで顔を合わせたら、色々幻想が壊れそうで怖い。
だからあくまでこれはゲーム、別の世界として楽しんでいる。
でも今の俺には欠かせない大切なゲームとなっている。
「ああ、いいな。 俺もリアルで剣と魔法の世界へ行きてえよ!」
俺は誰に聞かせるわけでもなく、そう呟いた。
だが仲の良いギルメンにボス討伐に誘われたので、
そんな事は忘れて、この日はボス討伐に没頭した。
そして週末の土曜日。
俺は約束通り高校ボクシングの地方予選に出場すべく、
学内のスクールバスに乗り込み、試合会場へと向かった。
監督との約束通りあの後も毎日練習に出ていたが、
正直練習は手抜きした。 というか昨夜も遅くまで
ネトゲーしていたので、今日は寝不足気味だ・
「先輩、雪村先輩! 起きて下さいっ!!」
「ん? 真理亜か? どうかしたか?」
「どうかしたかじゃないですよ! もう皆、バスから降りてますよ」
「ん? ああ……本当だ。 了解、了解。 今降りるよ」
「本当にもう……えっ!?」
「ん? どうかしたか……なっ!?」
バスから降りると、俺は思わず呻き声を上げてしまった。
真理亜が立っている場所に目掛けて、別の高校のスクールバスが
突っ込んできていたのだ。 よく見ると運転手が左手で胸を
押さえている。 これはヤバい。 このままでは真理亜がヤバい。
「真理亜っ!! 逃げろおぉっ!!」
そう叫ぶと同時に俺は横から真理亜を庇うように、飛びついた。
だが眼前のスクールバスも蛇行しながら、同じ方向へ進んでいる。
おい、冗談じゃねえぞ。 なんでそこでタイミングよく蛇行する!?
嘘だろっ? このままだと真正面から衝突してしまうっ!!
だが次の瞬間、容赦なくスクールバスは俺達二人を轢いた。
俺と真理亜はスクールバスに跳ね飛ばされて、
近くのコンクリートの外壁に衝突。
「ごふっ……」
肺の中の空気と共に口から多量の血液を吐き出された。
ふ、ふざけんなよ……。 お、俺、死んじゃうのかっ!?
俺はまだまだ生きたいし、まだ童貞なんだぞっ?
し、死にたくねえ。 こんなので死にたくねえよ。
だが身体に力が入らない。 というか目を開けるのも苦しい。
そして次第に瞼が閉じてきて、そこで俺の意識は途絶えた。
「雪村氷河さん、ようこそ死後の世界へ。 あなたはつい先程、
不幸にもお亡くなりになりました。 ですがあなたは死の直前に
知り合いの少女を助けようとしました。 故にその善行を称えて、
あなたには二つの選択肢を与える事にします」
真っ白い部屋の中、俺は唐突に眼前の美女にそう告げられた。
淡く柔らかな透き通った白銀のロングヘア。
秀麗な眉目に、手足が長く胸も大きい黄金比率のプロポーション。
そして露出の多い白い羽衣に身を包んだ妙齢の美女。
なんだ、これ? もしかして流行の異世界転生ってやつか?
「そうですよ。 一つ目の選択肢は記憶を消した上であなたを
輪廻転生へと送るのですが…いかがなさいます?」
「うーん、すんげー金持ちの家の生まれで、当然イケメン。
超可愛い美少女の幼馴染が居て、何もしてなくても頭脳明晰で
スポーツ万能って設定で生まれ変わる事は可能?」
「無理です」
にっこりと微笑んで否定する眼前の美女。
もしかしてこの人は女神?
「そうですよ」
「結婚してください」
「嫌です、じゃなくて無理です」
一秒で散る俺の求婚。
やれやれ、どうやら本当に死後の世界にきたようだな。
「あのう、私の話を聞いてもらえないですか?」
「ん? ああ、いいけど二つ目は異世界に転生するんだろ?」
「ええ、そうですけどよくわかりましたね」
「いや最近の流行ですよ。 女神さん、勉強不足ッスね」
「あはは……で説明は聞きますか?」
「ん? ああ、お願いします」
すると銀髪の女神は「コホン」と咳払いして、説明を始めた。
「では一応説明しますが、その世界はあなたの世界で言う、
所謂ファンタジーの世界です。 その世界――レヴァンガティアには
魔力や魔術があり、魔物や魔獣と呼ばれる人類の外敵となる存在がいます」
ふうん。 本当にテンプレみたいな説明だな。
というか剣と魔法の世界か。 いいじゃん。
俺が大好きなドラゴンズ・エクシードみたいじゃん。
なんか少しテンション上がってきたぞ!
「そして現在レヴァンガティアは魔皇帝の脅威に晒されています。
あなたには勇者として、その世界を救ってもらいたいのです。
というのは建前で、本当は可哀想なあなたには記憶が
そのままで言語などの問題もこちらが処理した状態で、
もう一回人生をやり直す機会を与えようという話ですわ」
随分ざっくりとした説明だな。
というか魔皇帝は倒さなくていいの?
「いや勿論倒してもらえば幸いですが、別に無理して倒す
必要はないです。 なんだかんだでその世界は魔皇帝と
各国の王侯貴族の緊張関係で成り立っている部分が多いので」
ふうん、まあ日本でもそんな感じな部分あったし、
それは異世界でも変わらんか。 んでなんか特典はないのかよ。
「ありますよ。 従来なら記憶の受け継ぎと言語などの問題以外は、
特に優遇しないのですが、人助けで命を落とした人に限っては、
特例を与えます。 故に可能な限りあなたの要望には応えます」
ほう、これはいい条件じゃねえか。
正直このまま記憶を消して転生するのは微妙だ。
ならば好条件で異世界で人生をやり直す方が面白そうだ。
よし、ここはおもっきり好条件を突きつけてやろう。
「んじゃとりあえずイケメン。 高身長で足は長くな。 ここ重要。
後、最初からそれなりの金は用意しててくれよ。 後で困るからな。
それと美少女と美女。 ここ大事な。 絶対美少女と美女に群がれた
ハーレム生活を希望。 それから超強いチート能力も頂戴」
「無理です。 というか欲張りすぎですよ!」
「でも可能な限り要望に応えるんでしょ?」
「そう言いましたけど、限度があります。 それに今のお顔も素敵ですよ」
「じゃあやっぱり結婚しようよ」
「嫌です!」
二度目の求婚もあっさり即答で断られた。
つうか今度ははっきり嫌と言われたぜ。
「なっ? 社交辞令的な褒め言葉はいいんだよ。
どうせ人生やり直すなら、分かり易いステータスが欲しいんだよ。
どうせその世界でもイケメンと金が正義なんだろ?」
「え、ええ……まあそういう部分はありますが、それが全てじゃないですよ」
「でもあれば色々有利なんだろ?」
「ああっ……面倒くさいっ!! さっさと異世界へ行ってください!」
「おいおい、女神さんが仕事の手抜きとは感心しませんね?
というか特典はきっちり払ってくださいよ。 ここは譲れないわ」
「ああっ……こいつウゼえ! もうこっちで勝手に設定するから、
異世界でも何処でも行ってください。 んじゃさようなら、雪村さん!」
「ちょ、ちょっ……いくら何でも乱暴じゃねえかっ!?」
「大丈夫です。 あなたが前世でしていたボクシングとゲームの知識を
生かせば、あなたは新たな人生を謳歌する事ができます。
いいですか。 ここは重要なのでよく覚えておいてください!
では雪村氷河さん、異世界へ行ってらっしゃい!」
女神がそう告げると、俺の身体が眩い光に包まれた。
ヤバい。 まだだ、まだ俺の要求は通ってねぇ。
つうかコイツ、絶対手抜きしてやがるっ!!
「さあ、早く消え失せろ……じゃなく旅立ってください!」
「うわああああああーっ! クソ、調子こいて交渉に失敗したぜ!」
「大丈夫ですよ。 ある程度は要望に応えるわ。 だからもう消えてね。
というかアンタみたいに面倒くさい奴は初めてよ?
あと女神に対する敬意がないわ。 童貞小僧が調子乗らないでよ!」
「ぐほっ……」
女神の会心の一撃が命中。
どうやら俺はふっかけ交渉にミスしたらしい。
だがこうなったらもう一度新しい人生を歩んでやる。
――こんにちは、異世界。
――今度こそ俺は人生を最高に楽しんでやる!
そこで俺の意識は暗転した。
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