一話
この学校には多くの噂がある。化け猫が出るとか、兵士の幽霊が出るとか、真夜中に人斬りがでるとか、校長や理事長よりも権力がある委員会があるとかその他イロイロ。
まぁ、転校してきたばかりの僕は知らないというか信じていない。でも、唯一わかることがある。
「オイ、伊藤。俺らの課題やってきたんだろうな?あと金、金持ってきたか?」
「え?あ、その……」
この学校に、僕の居場所はないってことだけ。
転校してきて二日目に彼らに目をつけられた僕の毎日は、この台詞から始まるのだ。
そいつはこのクラスのボス的存在で(ちなみにあだ名もボスである)、取り巻きもたくさんいるし、誰も逆らわない。逆らうと容赦なく暴力を振るってくるからだ。だから誰も助けてくれない。見て見ぬふりだ。担任まで我関せずである。
その日も僕は昼休みにボスとその取り巻きにパシられて昼食を買いに行き、言われた裏庭にまで来ていた。そいつらは当たり前のように僕から昼食の入った袋をもぎ取るように奪い、あれがないこれがない役立たずとブツブツ言いながら確認して、不機嫌そうに僕の側に寄ってきた。
「おい、これしかねーのかよ。もう一回行って来い」
取り巻きの一人が見下ろすように覗き込みながら袋を突き出してくるが、無理だ。もう時間がないのだ。近くのコンビニまで片道十分。買い物時間合わせるとここに戻るまでに三十分近くかかってしまう。しかし、あと十分もすればチャイムがなってしまう。
「じ、時間がないよ……」
小さな声で抗議し、どうしたものかと視線を泳がせていると、ガツンという衝撃と共に視界がぶれ、転倒した。地面に触れ、殴られたのだと理解した。
痛みに呻きながら顔を上げると、そこには不機嫌そうなボスの顔。
買ってきた袋の中に入っていた菓子パンを咀嚼しながら、倒れた僕の髪をわし掴んでもちあげる。
「このクズが……。しょうがねぇからあるだけ金出せ。それで許してやる」
僕は黙って財布をだした。こいつらに逆らう気も、何か一言でも言える強気もない。わかっている。
僕は弱い。
だが、今回のように抗議したりしなければ、何も言わなければ殴られないし、傷つかない。何もできないならできないなりに平穏に過ごしていく術は知っているのだ。
全部諦めて、財布から有り金全部だして渡そうとしたその時、ありえないことが起きた。
ボスとその取り巻きの後ろ、ちょうど数メートルの位置に、突如として現れた人影。そう、上から人が降ってきた。
そいつはきれいに地面に着地すると、倒れた僕と、殴りかかろうとするボス、それを囲むようにして見ている取り巻きたちを一瞥すると、下を向いて小さく息を吐いた。
ゆっくりと顔を上げた時、その瞳はまさに獣のそれと同じで、そう感じた時にはそいつは地面を這うように走り出していた。そして、息をつく暇もなく、そいつから一番近くにいた取り巻きの一人(赤いモヒカンの男だった)が鈍い音と共に宙に舞い、地面に落ちた。
すべてが一瞬のうちに起こったことで、誰一人認識できなかった。もちろん僕もそうだ。何が起こったのか理解するものはなく、ただ馬鹿みたいに突っ立っている。殴られた奴は動かない。気絶しているのだろうか(ちなみにモヒカンが潰れているがどうでもいい)。
ゆっくりとその現状を把握し、止まっていた思考回路が復活して、ようやくその人物を認識することができた。
よくよく見れば、そいつはなんとこの学校の女子生徒だった。スカートを風になびかせて、口をきつく一文字に結び、こちらを睨み付けている。
ボスは、殴り飛ばされた取り巻きとそいつを交互に見て、ようやく理解したらしく、焦りながらも怒鳴りつけた。
「てめぇ!なんのつもりだ『白雪姫』!!」
ボスは彼女を知っているのであろう。顔を真っ赤にしながら戦慄いている。
だが、その言葉を聞いて、ピクリと眉を動かした『白雪姫』と呼ばれた少女は、すぅ、と目を細めた。その瞳には明らかな怒気が込められていて、恐ろしいほどに冷たい空気を醸し出している。ほんのわずかな表情の変化だけで、空気がさらに重く、冷たくなっていく。自分に向けられたものではないとわかりながらもわずかに体が震え、汗がにじみ出てきた。
実際その視線、空気の対象とっているボスは、小さく悲鳴のように息を吸い込む。だが、逃げられないとわかっているのか、一歩後ずさっただけで、彼女の視線から逃げようとはしなかった。
だが、『白雪姫』はそんなことは興味ないと言わんばかりに制服のポケットの中に手を突っ込み、何かを取り出した。
鈍い銀色の手のひらサイズの何かが、その手の平の中で太陽の光を反射し、暴力的に光っている。
メリケンサック。
彼女は当たり前のように右手にはめて、ゆっくりと近づいてくる。それだけで僕はもう息をすることも忘れていた。まわりは動くこともできず、ただ、彼女の動きをゆっくりと眺めているだけで、気づいた時にはもう彼女はボスの目の前まで来ていた。
ボスと彼女とでは身長差がわずかながらにもあるはずなのに、まるで彼女がボスを遥か高くから見下ろすように見つめながら、ゆっくりと首をコキリと動かした。
怒気を通り越し、殺気を含み瞳孔の開いた瞳に見据えられ、動くこともできないボスに向かって静かに口を開いた。
「……私がこの世で嫌いなものを教えてやろう」
ゆっくりと、諭すように。
「辛いもの。悪党。風紀を乱す馬鹿。そして……」
フー……、と地面に向かって長く重く息を吐き、ギラリとした視線と共に顔を上げ、吠えるように叫んだ。
「その呼び方だこのやろう!!」
その瞬間、ボスの隣にいたやつ(ちなみに青のリーゼントだった)が吹っ飛んだ。
ボスは勢いよく振るわれた拳とその風圧を頬に感じながらも、まるで銅像のように動くことができず、理解することもできなかった。
『白雪姫』と呼ばれた少女はフー!フー!と荒い息をつきながらギラついた目をこちらに向けている。姫というより野獣に近いだろう。誰もがそう思っているだろうになぜ『白雪姫』なのだろう。と場違いなことを考えながら、他人事のようにこの光景を眺めていた。
彼女は一度大きく息を吐いて、同じように大きく息を吸い込むと、まるで爆弾のように叫んだ。
「私の名は!岩白雪姫だ!!」
びりびりとまわりの空気が震えるような音量で叫ぶ。
雪姫と名乗る少女はまるで気高い獅子のように胸を張り、こちらを見据える。まるで彼女がこの世界の全てのように。
「う、うあぁぁぁぁぁ!!」
その光景を見ていた取り巻きの一人が、耐えきれなくなったのか、どこか壊れたように奇声をあげながら雪姫に飛び掛かった。多分、本能的にやばいと感じたのだろう。だが、彼は素直に逃げていればよかったのだ。攻撃を加えるのではなく、無様でも地を這ってでも逃げるべきだった。
「うぜぇ……」
今度はそちらを見ることなく虫を振り払うように殴り飛ばした。鈍い音と共に地面に転がった彼は呻くだけで起き上がることはなかった。彼女の眼に映っているのは只一人、ボスだけ。
だが、雪姫はゆっくりと周りを一瞥すると、気だるげに口を開いた。
「……邪魔すんじゃねぇよ」
そしてまたボスへと視線を戻す。ボスは一度離れた視線で何かを理解したのか、周りにむかってやけくそに叫んだ。
「て、てめぇら何してやがる!やっちまえ!!」
その一括で周りも息を吹き返したかのようにざわめき、顔を見合わせつつも動き出した。この人数だ。勝てると判断するのがお約束。各々武器を取り出して彼女を取り囲む。
雪姫はまるで動じずに一人一人ゆっくりと見回すと、盛大にため息をついた。
「虐めに暴力にかつあげに無断外出に武器所持の挙句の果てに女子生徒一人をリンチだなんてなぁ……」
やれやれといったように首を振ると雪姫は上に向かってゆっくりと左手を伸ばした。
その行動に周りは警戒すれど意味があるようには思えない。誰かが馬鹿にしたように嘲笑するが、雪姫は動こうとしない。
しびれを切らしたボスがまわりに向かって「やれ!!」と叫んだ。
「オラァァァァァァ!!」
「死ねやコラァァァ!!」
「舐めんなぁぁぁぁ!!」
その号令に数人がお約束の言葉と共に勢いよく飛び出した。
その時僕は確かに見た。空中から何かが降ってくるのを。
彼女の右手にはめられてるのと同じように、太陽の光に反射して鈍く光りながら落下してくるそれをいともたやすくキャッチすると、まるで刀のように横に一閃した。それと同時に飛び掛かった三人は地面へと倒れ伏す。
それを右へ左へと降ると、自らの肩に置いた。その動作には一片の狂いも迷いもなくて、美しささえあった。コキリと動かした首の動作さえも絵になるようだった。
だが彼女には殺気と怒気しかなくて見惚れている自分は場違いだとやはり他人事のように考える。そして彼女の左手に収まっているそれをようやく認識した。
金属バット。
「邪魔すんなって……言わなかったか?」
もはやその表情は怒りを通り越し、笑っていた。いや、嗤っていた。恐怖を与えるには十分で、でも、どこか惹かれるものがある。なぜだろう。
「何度も言わせんじゃねぇぞ……?」
だが、その一言でこの場にいた僕とボス以外の全ての人間が動き出した。もちろん彼女にむかって。
雪姫は小さく「うぜぇ……」と呟くと臨戦態勢に入った。腰を落として、まるで居合い斬りをするかのように金属バットを構える。これが金属バットでなければかなりかっこいい。
それからは、一瞬だった。
次々と雪姫に飛び掛かり、次々と倒されていく。ある者は殴られ、ある者は蹴飛ばされ、ある者は吹き飛ばされる。
右手と左手がまるで別の生き物の様に動き、取り巻きを蹴散らしていく。逃げようとする者には首根っこを引っ掴んで壁にぶつけて一か所にどんどん積み上げていく。まるで単調な流れ作業のようだ。刃向う者は蹴散らして、逃げる者は捕まえる。
そして最後に残ったのはボスと僕だけだった。
「う、ウソだろ……?」
さすがに予想外だったのか(まぁ、かなりの人数いたし)、呆然とするボスに向かって歩いてくる雪姫。彼女には傷一つなくて、制服も少しも乱れてはいない。その剣幕におされてか、僕を人質に取るように後ろに隠れた。
「う、動くんじゃねグファ!!」
最後まで台詞を言うことなく、変な声を発し後ろへと吹き飛んだボス。
どんな脚力をしているのか、いつのまにか彼女は僕の真横へと来ていて、ボスを殴り飛ばしていた。僕はへたりとその場に座り込んでしまったが、雪姫は止まることなくそのまま僕の横を通ってボスを追いかける。とどめを刺す気だろうか。僕は怖くて後ろを振り向くことができなかった。
数分、いや数秒だったのかもしれない。後ろからの鈍い音と悲鳴の連鎖が消えたのは。
半ば現実逃避のように呆けていると、ドン!と大きな音がした。僕はビクリと体を震わせる。ゆっくりとそちらを見れば、この現状をつくった張本人が仁王立ちしていた。そうだ。彼女だ。彼女がやったのだ。先ほどの音は彼女の手に持っている異常なものを振り下ろした音だろう。その彼女が、ゆっくりとこちらを見た。
切れ長の肉食獣のような目。猛る獣の尾のように一つに結わえられた黒髪に、耳のように見えるリボンをつけている。少しも着崩さず、きっちり着込んだ制服。まるで完璧な模範生のような姿なのに、違和感がある。
「お前が、伊藤茂か?」
目の前までやってきた彼女はそう言って、ほんのわずかに微笑んで手を伸ばしてきた。
そんな彼女の右手にはメリケンサック。左手には金属バット。