嘘つき娘の憂鬱 5
葛笠とデート!(ただし、葛笠には内緒)
などと、浮かれながら彼所有の青くて小さな車の助手席に勇んで乗り込んでみたものの、いざ出かけようという時になって、紅子は考え込むことになった。
中学の頃から葛笠への恋心をこじらせてきたせいか、はたまた全体的に自由恋愛とは無縁の《お嬢様》たちに囲まれて学生生活を送ってきたせいか、紅子は、今時の交際中の若者たちにもてはやされているような店や場所に、まるで心当たりがなかった。デートの行き先として思いつけるのは、特大のチョコレートパフェやクリームたっぷりのワッフルを目当てに友人たちと行きつけにしてきた乙女チックな内装の喫茶店や、子供の頃から家族で利用してきた茅蜩館ホテルのティールームがせいぜいだ。他に葛笠と行くいったら、買い物ぐらいだろうか。しかしながら、せっかくのデートなのに、行きなれたところに行くのでは、つまらない。なんというか、デートならではの特別感に欠けるような気がするではないか。
(紫乃姉さまは、弘晃義兄さまと動物園や東京タワーへお出かけしていたみたいけど……)
一番上の姉と外出がままならない彼女の夫のことを思い出しながら、紅子は、運転席に乗り込んできた葛笠を盗み見た。紅子が動物園に誘ったら、彼は、いったいどういう反応をするだろう?
「ねえ、葛笠さん。動物園とか……」
「はい?」
「いえ。なんでもない、です」
紅子は、慌てて提案を引っ込めた。やっぱり無理だ。それに、葛笠は、紅子が就職活動中だと思っているからこそ、彼女に同行しているのであった。そんな男を動物園に誘ってどうするのだ? 馬鹿なんじゃないの、私?
「紅子お嬢さま?」
自分の頭をポカポカ殴っている紅子を、葛笠は、いぶかしんでいるようだった。
「どうかしましたか? ところで、今日は助手席なんですか?」
「うん。今日は、こっちに座りたい気分なの」
彼女は、問答無用といわんばかりに、そそくさとシートベルトで助手席に自分を固定した。今日は断然助手席がいい。この車にたまに乗せてもらえる時の定席となっている後部座席よりも、助手席のほうが《彼女》っぽいではないか。
「そんなことより、行き先よね。ええと、行き先……行き先は……その、もちろん、あるのよ」
ただ、ちょっとばかり場所が具体的ではないというだけだ。
「ああ、なんだ。そういうことか」
紅子の挙動不審の理由を探ろうとするかのように彼女をじっと眺めていた葛笠が、ようやく合点がいったというようにニヤリと笑った。口調も、いつのまにか、仕事用のそれではなく、六条姉妹の下の3人娘といる時にしがちな気安いものに変わっている。
「要するに、息抜きがしたいのか?」
「うん、まあ……そう、かな」
『いいえ。実は、一方的にあなたとデートをしようとしていました』と白状するわけにもいかない。紅子は視線をそらしつつ、彼の言葉を肯定した。
「そういうことなら、茅蜩館と富美屋、どっちがいい?」
門に向かってゆっくりと車を動かしながら、葛笠が紅子に訊ねる。ごちそうしてくれるつもりのようだ。ちなみに、彼が名前をあげた富美屋とは、多くのお子さまに愛されている洋菓子のチェーン店である。いつまでも子供扱いする葛笠に、紅子の声が尖った。
「葛笠さんって、ケーキを食べさせれば、私の機嫌が良くなると思っていない?」
「ならないのか?」
「な……なるかも」
「それならよかった」
ハンドルを手に視点を前方に置きつつ、葛笠がホッとしたように表情を和ませる。「女性の慰め方なんて見当もつかないからな」とぼやく彼は、なかなか可愛い。だが、ちょっとだけおもしろくない。
「どうせ、私は、お子様ですよぉぉぉだ!」
「別に子供扱いしているつもりはないが、大人の女性は、そういう顔はしないよな」
ふてくされる紅子に動じることなく、葛笠が軽口を返してくる。「それに、昔からケーキひとつで機嫌を直すのは、どこのお嬢さまだったっけな」と問われれば、これまで妹たちと一緒になって何度も葛笠にたかってきた紅子には、返す言葉がなかった。「それで?」と彼に選択を促された彼女は、イチゴと生クリームがたっぷり使われた富美屋のスペシャルショートケーキと、新鮮な果物が彩りよく飾られた茅蜩館のタルトを頭の中で瞬時に天秤にかけてから、「茅蜩館」と答えた。
葛笠の目論見どおり、リニューアルによって以前よりも更に風格を増した茅蜩館本館のティールームの窓際の席で、つや出しのシロップでコーティングされたフルーツタルトを前にした途端に、紅子の機嫌は急上昇した。どうやら、彼女は、自分が考えている以上に父親の過ぎた《おせっかい》による被害にめげていたらしい。フォーク片手にホクホクしている紅子を、葛笠が面白そうに眺めている。
いつ食べにきても思っていた以上に美味しく感じられるタルトのおかげで凹んでいた気持ちが丸みを取り戻してくると、騙すような真似をして葛笠とデートしようとしていた少し前までの自分が、ひどく浅ましいものに思えてきた。紅子は葛笠と過ごせて楽しいかもしれないが、彼は仕事として彼女につきしたがっているにすぎない。そのうえ、彼女の機嫌を取るためにタルトまでおごらされるなんて、彼にしてみれば、いい迷惑でしかないだろう。
彼がおごってくれたタルトが美味であればあるほど、紅子を見守る彼のまなざしが穏やかであればあるほど、老舗ホテルのティールームが提供するゆったりとした時間の流れと優雅な雰囲気が心地よければよいほど、彼女の罪悪感は増した。おかげで、タルトを半分も食べ終わらないうちに、彼女は、就職活動を断念するつもりでいることを葛笠に白状していた。
「だから、もう、私をつけ回さなくてもいいわよ」
父には自分から話しておくとも約束する。だが、六条コーポレーションに入社して以来、なにかにつけて六条姉妹の年少組3人娘に振り回されてきた社長秘書は、とても疑り深かった。
「まさか、断念する言って油断させておきながら、俺が目を離した隙に……」
「そんなことしないもん」
紅子は頬をふくらませた。
「それに、そんなことしても無駄だもの」
採用されるまでには、説明会や面接のために何度も会社に出向かなくてはならない。ただでさえ採用関係者から逃げられまくっている紅子が、何度も葛笠や父を出し抜きながら内定を勝ち取れるわけがない。
「だから、もういいの」
「君も苦労するな」
強がって笑ってみせる紅子に、父親の傍若無人ぶりを熟知している葛笠は、きれいごとめいた叱咤や慰めの言葉などは言わないでくれた。
「そうね。でも、仕方がないわ。父親を変えるわけにもいかないし」
六条源一郎の娘ならではの苦労もあるが、娘だから得してきたことだってたくさんある。よそのうちの子になりたいと思ったこともない。
「仕方がないから、お父さまの娘に産まれた運命だと思って開き直ることにする」
「そうか。しかしなあ、君みたいに、人あたりもよければ礼儀も正しくて常識的で、数カ国語に対応できる才色兼備とくれば、本来なら多くの会社がほしがる人材だろうに」
「あ、ありがとう」
思いがけない言葉をもらって、紅子はうろたえた。
「で、でもね、私を慰めるために、無理に誉めてくれなくても、大丈夫よ」
「事実に余計な世辞を盛ったつもりはないがな。まあ、少しばかり早とちりだったり失言が多かったり、突拍子のないところは、欠点と言えば欠点か?」
「ひどい」
「すまん。だが、就職活動していた時の俺自身と君とを比べたら、その程度のことは、欠点にすらならないだろう。……なんて、俺と比べるのは、失礼だったな。なにせ、あの頃の俺は、ひどかったから」
葛笠は、口にしかけたコーヒーが入ったカップを置くと、嫌なことを思い出したとでも言いたげに顔をしかめた。
「でも、ひどいのは見た目だけだったでしょ」
葛笠に惚れている紅子でも、そこだけは否定できない。
紅子が葛笠に初めて会った時、彼は大学生で、父の会社の会議室近くの廊下に用意された椅子に座って採用面接の順番を待っていた。その時の彼は、スーツこそ着ていたものの猫背で、鼻の頭あたりの長さまで達したボサボサの前髪が顔の半分以上を隠していた。
あんなだらしない見てくれでは受かるものも受かるまい。たまたま父の会社を訪れていた六条姉妹の誰もがそう思った。思ったどころか、口に出した者もいた。
「気持ち悪いって言われていたな」
葛笠が懐かしむ。ちなみに、そんな残酷なことを言ったのは、当時小学生だった月子だった。彼は耳が良いので、彼女の無邪気で残酷な陰口をしっかりと聞き取っていたそうだ。
「ゲゲゲの鬼太郎とも」
「あの時は、ごめんなさい!」
含みのある笑みを浮かべながら紅子の反応を伺うようにわずかに体を傾げてみせる葛笠に向かって、彼女は、タルトに顔を突っ込みそうな勢いで頭をさげた。彼が妖怪に似ていると言ったのは、他ならぬ中学生当時の紅子だった。そればかりか、うっとうしい彼の前髪をなんとかしたほうがよかろうと、自分の髪留めを彼に差し出しもした。「パッチン留め」とか呼ばれている髪留めだ。今にして思えば、とんでもなく失礼な行為だが、葛笠は、紅子のピントがずれた親切を受けてくれた。そして、髪留めなど扱ったことがない葛笠に頼まれて彼の前髪を掻き揚げるようにすくい上げた時になって初めて、彼女は、彼の前髪が、かなり薄くなってはいるが右眉の付け根の上あたりから頬骨に向かってまぶたを縦に切り裂くような傷跡が残る彼の右目を隠していたことや、その右目が義眼であることに気がついた。
片足が悪いことも、あの時に教えてもらった。椅子に座っている葛笠を遠くから見ただけでは、彼のハンディキャップのことなど知りようがなかったというのに、六条姉妹が自分の身だしなみではなく目や足のことで嗤ったのだと勘違いしていたと葛笠が言うのを聞いて、彼女は、それまでの彼が、たくさん傷ついてきただろうことを知った。
「謝ることなんてないよ。それに、君がくれた髪留めの効果は、絶大だったからな。俺が就職できたのは、君と、社長が親馬鹿だったおかげだよ」
「それは違うと思うの」
訂正する紅子の声が強くなる。社長の愛娘の髪留めをつけて面接に臨んだ葛笠に面接官たちが怯えたために、彼が内定獲得までに必要なステップのいくつかを省略されたことは事実だ。しかしながら、父が葛笠を選んだのは、葛笠本人の資質によるものだ。
『昨日、うちに面接に来ていた葛笠という大学生を見かけたそうだね。彼をどう思った?』
葛笠に初めて会った翌日の朝食の席で、父は娘たちに質問した。紅子からもらった女の子用の髪留めをつけたまま堂々と面接に臨んだ学生がいたことを社員たちから報告された父は、彼に興味を持ったようだった。
葛笠は、娘たちの無遠慮な視線や「気持ち悪い」という言葉を不快に思ったようだが、紫乃からの謝罪を快く受け入れてくれたし、「身だしなみをどうにかしたほうがよい」という彼女の忠告も素直に聞き入れてくれた。陰口に反応して反射的に睨み付けてしまったせいで夕紀を怯えさせてしまったことを詫びてもくれた。紅子のトンチンカンな親切を馬鹿にするようなこともしなかった。それどころか、目や足が不自由なことを気にするあまり、他人に対して必要のない警戒心や敵意を抱いていたようだと反省してもいた。紅子の髪留めをつけて面接に臨むことにしたのは、この機会に、人の視線を気にしすぎていた彼自身を変えたいと思ったからだったようだ。
娘たちからの葛笠評を聞いた父は、ますます彼に惹かれたようだった。その場で佐々木に命じていたから、父が葛笠についての詳しいプロフィールを改めて取り寄せたことも、紅子は知っている。
葛笠を自分の会社に迎えるにあたって、父は、通常の入社希望者に対して行うよりもずっと多くの情報を吟味したはずである。その結果、父は、実際に会う必要を感じないほど、葛笠のことを気に入ってしまったのだろう。この男ならば、いずれ彼の跡を継ぐことになる息子の右腕にふさわしい。そうなるように、自ら手塩にかけて育ててやってもいいと考えるほどに。おかげで、葛笠は最終面接で、父とではなく兄と話すことになった。葛笠を入社させれば、将来的に兄が彼と一番長く深く付き合うことになる。ならば兄が彼を見極めるべきだと、父は判断したようだ。とはいえ、父がそれを決めたのは、面接日当日の朝だった。しかも、当時の兄は、まだ高校生だった。
「あの日。お兄さまにしては珍しく、ものすごく動揺していらしたわ」
「俺だって、混乱したよ。なにせ、社長室の扉を開けたら、学ランを着た美少年がいたんだからな。しかも、脚を組んでふんぞり返ってたから……」
「お説教したのですってね?」
「説教というより、『おまえみたいなガキが将来社長になるなら、こんな会社は、すぐにつぶれるだろうから、こちらから願い下げだ』と啖呵を切っちまって……」
「お兄さまの狙いどおりにね」
兄が求めていたのは、社長令息である自分をむやみに恐れたりこびへつらったりせず、彼に直言できる人物だった。そして、そんな葛笠の気質は、今の彼の、それこそ彼の《見た目》に顕れている。
紅子は、「そうだな。まんまと和臣さまの策にはまってしまった」と、ばつが悪そうな顔で認める葛笠の見えない右目をのぞき込んだ。紅子の髪留めをつけて面接を受けた直後から、なにやら開き直ってしまったらしい葛笠は、前髪でずっと隠してきた義眼を取り替えた。遠目にはわからないが、彼と向かい合った人間は、彼の義眼の瞳が一般的な日本人にありがちな茶色がかった黒ではなく青みがかった黒であることに気がつくだろう。しかしながら、誰か彼の不自由な目や足に哀れみや蔑みのこもった眼差しを向けようと、別の誰かがわざわざ普通と違う色にした義眼に呆れた顔をしようと、今の彼は決して気にする素振りをみせない。見えるほうと見えないほうの目の両方を相手から背けることなく、堂々としている。
彼の青い義眼は、他人の視線を恐れず、誰に対しても態度を変えないという彼の決意の証のようだ。青い義眼の葛笠と最初に向かい合うことになった兄は、彼をひとめ見るなり「彼を選んでも大丈夫だ」と確信したという。紅子も、彼の青い目が大好きだ。どことなくふてぶてしい雰囲気を持つ彼の容姿にも、よく似合っている。
「まあ、俺のことはともかく、だ」
紅子にじっと見つめられているうちに居心地が悪くなってきたらしい葛笠が、咳払いをひとつして話題を変えた。
「これから、どうする?」