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他には何も望まない  作者: 風花てい(koharu)
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嘘つき娘の憂鬱 4


 痛いところを突かれて黙りこんだ紅子は、勝ち誇ったように微笑む月子を涙目で睨みつけた。このまま言われっぱなしになるのは癪だ。「あ~あ、また月ちゃんに言い負かされちゃった」という母の楽しげな声をゴング代わりに、苦し紛れの紅子の反撃が始まった。


「つ、月子ちゃんこそ、『愛する人より仕事のパートナーを探す』とかなんとか格好の良いこといっているけど、それこそ、ただの言い訳なんじゃないの?」

 それは、月子が得意げに話していた時に、紅子がなんとなく感じたことだった。あの時の彼女は妙に饒舌だった。

(そういえば、こういう時の月ちゃんは、たいてい……)

「もしかして、月ちゃん、怖いの?」 

 末っ子の月子は、最年少ゆえに無理に背伸びした言動をしがちなところや意地っ張りなところもあるが、常に兄や姉からかまわれてきた分だけ、人一倍さみしがり屋だったり恐がりだったりもする。そんな月子が、結婚相手に仕事のパートナー以上の繋がりを期待しないなどということがあるだろうか。それこそ、彼女らしい強がりではないだろうか。


 気遣わしげに発した紅子の質問は、思っていた以上に的を射ていたようだ。ついさっきまで落ち着き払っていた月子の顔がわずかにこわばり、声がうわずった。

「こ、怖いって、私が、なにを、どうして怖がっているっていうのよ?」

「だから、ええと…… 好きで結婚した方と仲が悪くなってしまうのって、けっこう怖いことだと思うのよ。自分がものすごく好きでも相手からは何とも思ってもらえないのも、怖いだろうし……。あ、ということは、月ちゃんは、誰かに片思いしているの?」

 もごもご言っているうちに思いついたことを、紅子は質問の形で口にした。すると、月子の顔が耳まで真っ赤になった。紅子は、こんどこそ真実を言い当ててしまったらしい。道理で、彼女の言っていることが変に具体的だったわけだ。


「そうだとすれば、月ちゃんの好きな人は、突出した才能があるけど、そのことに夢中になりすぎて他に気が回らないような人なのかな。人とかかわるのも恋愛も、その人にしてみれば、興味の対象外。それどころか、そもそも彼の視界に月ちゃんが入っていないようなところがある……とか?」

 月子の表情の変化を探りつつ、紅子が言葉を続ける。

「だっ、だから、そんな人はいないってば!」

 月子が、とうとう怒り出した。

「ってか、視界に入ってないってなんなのよ。視界にぐらい入っているわよ。失礼な!」

 これは、もう当たりだ。となれば、俄然気になってくるのは、月子の想い人である。


「誰だろう。私の知っている人かな?」

「だから、そんな人はいないってば!」

 椅子から腰を浮かせて月子がわめく。そして、この妹は、言い負かされたまま引き下がるようなことは絶対にしない子であった。


「姉さまこそ、怖いくせに!」

 追い詰められた月子が、話を蒸し返した。

「独身主義者だって嘘つきながら、いつまで葛笠さんに片思いしているつもりなの。ウジウジ思ってないで、とっとと告白しなさいよ!」

「で、できないわよっ!」

 そんなことをしたら、父が、葛笠をクビしかねないではないか。


「どうしてよ。お父さまがクビにしたくても、兄さまが黙っちゃいないわ」

 葛笠晴之は、父の秘書であるが、兄和臣の片腕でもある。そうなるようにと父と彼の片腕である佐々木が葛笠を手塩にかけて仕込んできた。

「姉さまは、葛笠さんに決定的にふられるのが怖いだけ。お父さまを言い訳にして逃げてるだけよ」

「う……」

 二の句がつげなくなった紅子に、「見ていて、本当にじれったいったら」と、月子が追い打ちをかけた。


「月ちゃんの意地悪」

「紅子姉さまが、唐突に変なこと言い出すからいけないのよ」

 フンと鼻を鳴らしながら、ふたりはお互いから顔を背けた。紅子はもちろん月子も言い過ぎた自覚があるようで、気まずい沈黙が続く。それでも、自分のほうから謝る気にもなれない。背けた顔の位置を変えぬまま、紅子は助けを求めるように、ちらりと朱音を見た。


「まったく、困った子どもたちですねえ。さあて、悪いのは、どっちの子かなあ」

 朱音が、座ったまま体を大きく左右に傾けて、ひとりひとりの顔をじっくりとのぞき込んだ。だが、彼女は視線をそらそうとするふたりを面白がるように微笑むばかりで、どちらが悪いとも謝るべきだとも判じなかった。その代わりといってはなんだが、彼女は、ふたりに訊ねた。

「ところで、この曲、なあに?」

「え? 曲?」

 思いがけない質問に、紅子と月子が面食らう。常のことなので気にしていなかったが、問われてみれば、いつものように、どこからともなく夕紀のピアノの音が聞こえてくる。


「それじゃあ、曲の名前を当てた方が、この勝負は勝ちね。負けたほうがゴメンナサイして仲直りすること!」

 互いにそっぽを向いていたふたりが期せずして顔を合わせるなり、朱音が宣言した。

「なんで、曲当てゲームでどっちが悪いかが決まるの?」

 文句を言いながらも、口を閉じた月子が耳を澄ます。紅子も聴くことに集中した。口げんかの最中に強引に訪れた沈黙の中、水のせせらぎを思わせる柔らかな音色がとげとげしかった居間の空気を優しく清らかなものに変えていく。「いつもながら、夕紀さまのピアノは、身を濯がれるようなすがすがしさがございますねえ」と、ほれぼれとした口調でタキが言い、「ほれほれ、早く当てたもの勝ちですぞ。ほれ、5、4、3……」と、回答を急かすスエがカウントダウンを始めた。


「……2、1。さあさあ、お答えくださいませ!」

「り、リスト?」

「じゃあ、シューベルト」

 心許なげに首をかしげながら紅子は作曲家の名前を挙げた。月子の答えも、おそらく適当だろう。夕紀が練習している曲といったら、名前も聞いたことがないような作曲家ものとか、なんとか長調とか作品番号なんとかかんとかいう小難しい名前ばかりだ。夕紀と一緒に始めたものの数ヶ月の稽古でピアノを投げ出した紅子には、とうてい覚えられない。


 答えは、まもなく居間にやってきた夕紀が教えてくれた。


「ふたりとも、はずれ。さっき弾いていたのは、日本の作曲家さんが書き下ろした曲なの」と説明する彼女の声には元気がなかった。タキからもらった湯飲みを手にしたまま、ぼんやりしている。

「夕紀ちゃん、どうかした?」

「なにか困ったことがあるの、姉さま?」

 喧嘩をしていたことなど忘れて、紅子と月子は、両側から夕紀に寄り添った。気の弱い六条家の五番めの娘を守るのは、昔から年齢が近い紅子と月子の役目だと決まっている。心配するふたりに夕紀は笑いかけようとしたようだが失敗し、大きくため息をつくなり腕を伸ばしたまま力尽きたようにテーブルに突っ伏した。


「夕紀ちゃん?」

「……。通っちゃった。事前審査」

 消え入りそうな声で、夕紀が打ち明けた。事前審査とは、夕紀がエントリーしているピアノコンクールの予選に参加するための審査のことであろう。先ほど弾いていた曲は、このコンクールのために書き下ろされたオリジナル曲だそうだ。通過通知と共に楽譜が送られてきたそうで、2次予選から使うらしい。


「夕紀姉さま。そこは喜ぶところでは?」

 がっかりしているようにしか見えない夕紀に月子が冷静に指摘する。「まあ、夕紀姉さまの腕前なら当然だけどね」と誇らしげに続ける月子の声に、紅子たちの祝福の声が重なった。それでも、夕紀はテーブルに打ち伏したままだ。

「夕紀ちゃんは、嬉しくないの?」

 優しく朱音が問いかけた。夕紀は、少しだけ顔を上げると、小さな声で「審査に通ったことは、嬉しいけど」と答えたものの、「でも、皆の前で弾くのは……」と言いながら、またテーブルに額をくっつけてしまう。そんな夕紀を見て、「ああ、またか」と、月子と紅子はこめかみを押さえた。


 ピアノ好きが高じて専門の大学にまで進んだ夕紀は、極度の人見知りだ。ピアノは大好きだが、知らない人の前で弾くのは大の苦手。幼い頃からピアノ漬けで生きてきた彼女の大学の同級生たちが何度となく体験してきた発表会も、年齢やレベルに応じて挑戦してきたコンクールも、すべて避けて生きてきた。中学や高校での合唱発表会等でのピアノ演奏でさえ、やったことがない。もっとも、紅子たちの中高の同級生には習い事としてピアノを続けている子が大勢いたので、夕紀が譲るまでもなく伴奏志願者には事欠かなかったのではあるが。


 夕紀が在籍する大学において、彼女ほどのピアノの腕前を持ちながらこれほど実績のない学生というのは、相当珍しいらしい。少なくとも、夕紀を指導している教綬が受け持ってきた生徒の中にはいなかったそうだ。人気教官である彼が教えてきた生徒は学生たちの中でも特に優秀であるらしく、名の知れたピアノコンクールで入賞し国際的な演奏家として華麗にデビューすることを夢見る野心的な学生ばかりだという。教授の指導を受けていない者にせよ、コンクールに出たくても出られない者はいても、出たくないと思っている者など夕紀の学友にはいないと思われる。それでも、夕紀はコンクールに出たがらない。なぜなら、事前審査は録音テープの提出だけでよいらしいのだが、一次予選から先は、ホールに集まった大勢の人々の前で演奏しなくてはならないからだ。一次予選に受かれば、二次予選。二次が受かれば本選。入賞すれば、さらに記念の演奏会とやらがあるという。

「コンクールなんて出たくないのに」

「でも、コンクールで演奏しないと、卒業させてもらえないんでしょう?」

 ウジウジしている夕紀の長い髪の一房をすくい上げながら、紅子が、もう何度目だかわからない説得を開始する。


 音楽を楽しむ権利はすべての者にあるというのに、演奏者が音楽を聴かせる者を選ぶようではいけない。六条夕紀は、多くの者と自分の音楽を分かち合う術を身につけなければならない。最低でも、家族と教師以外の人間に自分の音楽を聴かせることができるようになるべきだ。でなければ、この大学で学んだ意味がない。つまり必修科目の単位をやるわけにはいかない。……と、夕紀の引っ込み思案に業を煮やした教授は、彼女にコンクールへの参加を厳命した。命じたというよりも、夕紀の参加意志を確認することなくコンクールに勝手に申し込んだ。入賞なんぞ期待していないから、とにかく人前で弾いてこいと、教授は夕紀に命じたそうだ。

「先生の決定は強引だったかもしれない。だけど、演奏家が聴き手を選ぶべきではないという先生の言葉は間違ってないと思う。なにより、夕紀姉さまのピアノは、素敵よ。皆に聴かせるだけの価値がある」

 月子の言うとおりだというように、夕紀を囲む皆がうなずいた。夕紀には、国際舞台でプロの演奏家として活躍するほどの度胸も野心もない。才能や技術も足りていないかもしれない。それでも、彼女のピアノは、このまま埋もれさせておくのは惜しいと思わせるだけの何かがあると紅子は確信している。教授もそう思っているからこそ、夕紀に酷なことを言うのだろう。


「それに、こんなに夕紀姉さまが困っているのに、あのお父さまが先生に殴り込みにいかないぐらいだから」

「そうね。あのお父さまでさえ、先生の決定に口出しする気になれないみたいだものね」

 「ここは覚悟を決めるしかないわねえ」と、テーブルに突っ伏したままの夕紀の頭の上で顔を見合わせた紅子と月子が苦笑いをする。「怖がりの一等賞は、夕紀ちゃんだったわね」と、朱音や老婆たちも笑う。


「でも、うちのお母さまは出ないほうがいいって。『どうせ緊張しすぎて失敗して、恥をかくだけだって』だって」

「そんなことない!」

 夕紀の最後の抵抗を、姉妹は全力でつぶしにかかった。すべてにおいて否定的な夕紀の母親は、なんにだってケチをつけたがる人なのだ。あの人の言うことをいちいち聞いていたら……いや、いちいち聞いていたから、夕紀がこれほど消極的な娘になってしまったのではないか。

「悲観的なことばかり言ってないで少しは応援してあげればいいのに、夕紀ちゃんのおかあさまって、なんで、あんなに後ろ向きなわけ?」

「おそらく、あの方の目の前に化け物が映る大きな鏡があるからでございましょう」

 スエが口を挟む。

「だから、恐ろしゅうて前に行けぬのでしょうて」

「なあに、スエさん。今のは、なにかのおとぎ話?」

 月子が興味を示したが、すかさずにタキから「スエ。他所の奥様のことをとやかく言うのは感心しませんね」と厳しい口調でたしなめられたばかりか、朱音からも軽い口調で「スエ。変なこと言っちゃだめよ」と注意されて、スエは気の毒なぐらい小さくなった。


「ともかく、こうなった以上、全力をつくしかないわ。予選当日は最前列で応援してあげる」

 紅子は激励するように夕紀の肩を叩いて立ち上がると、紅子はいったん居間を出て自分の部屋から上着とカバンを取ってきた。

「紅ちゃん。どこかに行くの?」

 置き去りにされる子供みたいな顔で、夕紀が訊ねた。


「そう。ちょっとね、デートっていうか……」

「その格好で?」

 月子が、タイトスカートと同じ色の紺色の上着を羽織った紅子の格好を見とがめる。

「紅子姉さま。就職活動は強制終了するんじゃなかったの?」 

「するわよ。でも、とっても過保護なお父さまが、私の就職のためにあれやこれやと、それこそ私が自由に動けないほど念入りに計らってくれたのだもの。お父さまに報告するのちょっとだけ遅らせて、今の状況を自分の楽しみのために利用したところで、罰は当たらないと思うのよ」

 紅子は小さく舌を出した。聡明な末の妹は、姉が企んでいることを即座に理解したようだ。

「やっぱり、姉さまってば、ずるい。そういうことなら、うんと楽しんできてね」

 笑顔で激励する月子に見送られて、紅子は部屋を出た。玄関ホールで家政頭と紫乃の母の綾女に呼び止められ行き先を訊ねられている間に、玄関に近い場所にある部屋の扉が開いて、スーツ姿の背の高い男性が現れた。がっしりとした彼の体が少しばかり傾いで見えるのは、片足が多少不自由なせいだ。だからこそ、彼は、移動が少なくてすむ玄関近く、つまり、紅子の居室と同じ南棟1階に部屋を与えられている。


「ご苦労さまです」

 うんざりした表情を浮かべている葛笠に、紅子は小走りで近づいた。紅子が希望の就職先を父に教えないせいで、ここ数日間というもの、葛笠は父の命令で紅子の行く先々について回るハメにおちいっている。紅子が就職活動を断念しようと思ったのは、ただでさえ忙しい葛笠の仕事をこれ以上増やしたくなかったからでもあった。

「葛笠さんも、うちのお父さまが社長で、大変ね」

「お嬢さまこそ、社長がお父上で大変ですね」

 苦笑しながら、二人は互いに互いを労いあった。


「今日は葛笠号に乗せて」

 目と足が不自由な葛笠の右側に並ぶと、紅子は強請った。

「私の車ですか。行先は大学でよろしいですか?」

「そうねえ。どこに行こうかしら」

「は?」 

 怪訝な顔で問い返す葛笠に、紅子は「ごめんね」と謝った。


(だって、せっかくお父さまが葛笠さんをつけてくれたのだもの。せっかくだから、ちょっとの間だけ一緒にお茶するぐらい……ねえ?)


 忙しい葛笠には迷惑でしかないかもしれないけれども、できるだけ早く、本来の自分の仕事に戻りたいかもしれないけど……


 あと半日ぐらいは許されるだろう。それまでの葛笠の時間は、紅子のものだ。

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