嘘つき娘の憂鬱 3
「このままじゃあ、就職活動を自主的に強制終了するしかないじゃないよおぉぉぉ!」
「自主的なのに強制だなんて、言っていることが、あべこべねえ」
蒸し暑さを感じる日が増してきた7月の午後。紅子が喚いている居間では、居合わせた女たちの軽やかな笑い声が響いていた。
内縁の妻が6人もいるという特殊な事情を抱えている六条源一郎の屋敷には、それぞれの妻とその娘のための居住スペースが用意されている。そのため、ひとくちに居間といっても「居間」と呼ばれている部屋は屋敷の中にはいくつもある。紅子にとっての居間は、屋敷の1階にある20畳ほどの広さの部屋のことだ。この部屋を含めた南の棟の1階部分が紅子と彼女の母親の住まいとなっている。
さて、現在の紅子は、女ばかりで使っている部屋の調度品にしては無骨な木のテーブルをげんこつで叩きながら、普通とは言い難い父親の元に生まれた自分の不運を嘆き悲しんでいるわけだが、彼女にとって残念なことに、この居間の女主人である母の朱音は、愚痴の聞き役としては最悪であった
六人の愛人の中で外見と言動が飛び抜けて無邪気で常に自分中心の生活を満喫している朱音は、昔から紅子が話すことならば何でも喜んで聞いてくれた。しかしながら、この母は、いつだって同情も助言もしてくれない。ただ喜んで聞いてくれるだけ。現状を紅子が辛いと感じていようがその逆だろうが、朱音に言わせれば、そのどちらもが『紅ちゃんが選んだ結果としての得がたい経験』であるという点で同じなのだそうだ。だから、朱音は、紅子がどれほど困っていても、いつでも満面の笑顔で言祝いでくださるし、その先の選択も紅子にゆだねっぱなしである。早い話が、丸投げだ。
相談相手として役に立たないという点では、怠け者の朱音の世話を一切合切引き受けているタキとスエも同じである。朱音の周りで日がな一日ちょこまかと細かい用事をこなしているふたりの老女は、どちらも小柄で、どちらも白い割烹着に身を包み、どちらも真白い髪をひとつに束ね、どちらも少しばかり時代がかった話し方をする。紛らわしい見た目のふたりではあるが、紅子にとっては一目瞭然。あえて見分け方を説明するならば、紅子が生まれる前から朱音に仕えているタキのほうが性格や物言いが穏やかで、数年前から朱音に仕えるようになったスエは、動作や話し方がおおげさだ。それから、タキは朱音に小言を言うこともあるが、スエは絶対に朱音に逆らわない。どういうわけだが、スエは朱音に心酔しきっているのだ。
普段から着替えひとつまともにできない朱音を相手にしているせいか、ふたりの老婆は、紅子が何をしようと――たとえそれが連敗続きの就職活動であろうと、紅子が「なにかをした」からという理由だけで誉め称えてくれる。不安でしかたがない時に「動かなければ、失敗もできませぬゆえ」と言ってもらえれることで少しばかり救われた気持ちにもなる。だが、失敗さえ偉業にカウントしてくれる老女たちは、彼女らが仕える朱音と同じで、紅子に喝采をくれても助言をくれることはない。慰めてもくれない。
かつて相談しがいのない母たちの代りに紅子を慰め励ましてくれていた3人の姉たちは、3人とも嫁に行ってしまった。同い年の妹の夕紀は、今も昔も一番の相談相手であるものの、今はピアノの練習中だ。姉妹の母たちは、紅子の母よりも親身になって紅子の愚痴をきいてくれそうだが、今日のところは朱音の居間に遊びにくる予定がないようだ。
それなのに、本日のこの居間には、辛辣な物言いに定評がある末の妹の月子がいた。月子もまた紅子の不遇に同情してくれなかった。タキが出してくれた小豆入りの白いういろうを黒文字の楊枝で薄く削ぎながら、「姉さまも、大変ねえ」と笑っている。悔しいので、紅子は「他人事だと笑っていられるのは、今のうちだけなんだから。月ちゃんだって、来年、私と同じ苦労をすることになるんだから」と忠告してやった。すると、一つ年下の妹は、小馬鹿にしたような笑みを浮かべながら、「しないわよ。私は紅子姉さまと違うもの」と、言い返してきた。
「自力で就職しようとしたところで、お父さまのせいで面倒くさくなることぐらい始めからわかっているじゃない。だから、私は、就職活動はしない」
いつか、結婚もするという。
「月ちゃんのことだから、大学を卒業したらお仕事するものだとばかり思ってた」
月子の母は、働く女だ。源一郎に知り合うことになったきっかけについて、「節操なしの金持ちの色男を利用して、弟が跡を継いだものの潰れる寸前だった会社をどうにかしてやろうと思った」のだと、色気も素っ気もない口調で大っぴらに言ってのける彼女は、たいそうなやり手だと聞いている。月子は、その母とよく似ている。独立心も上昇志向もある月子のほうが、紅子以上に父の言いなりにならなさそうな性格をしているし、父の言いなりにならなくても生きていけるだけの才覚も有している。
「仕事はするわよ。外に働きにいかないとも言ってないわ」
「じゃあ、月子ちゃんのお母さんの会社に、お勤めするの?」
「それもしない。私は、私を仕事のパートナーとして頼りにしてくれる人を見つけて結婚するつもり」
戸惑う紅子を面白がっているような顔をしながら、月子が打ち明けた。
「仕事のパートナーって、橘乃姉さまと梅宮さんみたいに?」
「う~ん。どちらかといえば、私は、橘乃姉さまよりも梅宮さんの立場でありたいというか」
「役割が逆ってこと?」
月子の言っていることがいまひとつピンとこない紅子に対して、老女たちは、月子の意図を十二分に理解したようだ。
「なるほど。夫となる方から確実に頼りにしていただくなら、あえて頼りない者から選ぶのがよろしゅうございますねえ。欠けたるものが大きければ大きいほど、それを補う月子嬢さまの有り難みがわかりましょうから」
「それに、欠けたる者を進んで選びたがるオナゴは少のうございますからな。月子さまほどお美しく、しかもお金持ちのお嬢さまともなれば、選り取り見取りでございましょう」
「でしょう? 一緒に追いかけたくなるような夢も持ってるし、それを実現するだけの才能も発想力もありそうだけど、ちょっとばかり変人だったり、金勘定や交渉ごとが苦手だったり、人を使うことが苦手だったりする人っているじゃない。そういう人が狙い目だと思うのよ」
ただし、彼女は、芸能や文学的才能に溢れる男には興味がないのだそうだ。彼女が求めるのは、あくまでも、なにかしらの事業に繋げられるような人並み外れた才能と熱意を持つ男性であるとのこと。
「そういう男の人を月ちゃんが掌で転がすのね。素敵ね!」
「転がすなんて人聞きが悪いわ。朱音おかあさま。私は、お互いがお互いにとって価値があると思える人と一緒になることを目指しているだけよ」
小さなふたりの老女と若い娘、そして年齢不詳で白地に大きな赤い金魚が大胆に描かれた和服に身を包んだ童顔美女がキャッキャとはしゃいでいる様子は、視覚的に大変微笑ましい。だが、いかんせん、彼女のたちの話の内容が腹黒い。
「月ちゃんは、旦那さまになる人を好きかどうかってことよりも、その人の能力や才能のほうが大事なの?」
「それのどこがいけないの?」
啞然とする紅子を挑発するように、月子があごを突き出した。
「お姉さまたちの結婚相手だって、相手のお家の事業規模とか格式とかを基準に、お父さまが決めているじゃない。それに、私の場合は、『好き』かどうかより『すごい』と思える人を選ばないと、結婚生活が続かないような気がするのよね。才能に対する評価は、簡単に色あせたりしないわ。万が一夫婦としてのお互いへの愛情がなくなっても、仕事のパートナーとして信頼できる関係を続けられると思うの」
「たしかに、そうかもしれないけど……」
相手に見切りをつけた時の月子の態度の冷たさを知っているだけに。紅子は、妹の言葉を否定する気になれなかった。だが、利害関係を最優先した月子の結婚観は、紅子には、どうにも受け入れがたいものがある。筋が通っているように聞こえはするが、なにか肝心なことが抜けているような気がしてしかたがない。これなら、父親に結婚相手を選ばせたほうが、まだ愛のある結婚が期待できるのではなかろうか。
「でも、月ちゃんが結婚相手を自分で見つけてきても、お父さまがその人との結婚を認めてくれるとも思えないのだけど……」
「お父さまの許可ならもらっているわよ」
月子は、自分で30歳までと期限を切って、父親と交渉したのだそうだ。父の言いなりになって結婚しないつもりではいるが、父が推薦したい人物がいれば喜んで話を聞かせてもらうつもりでいるともいう。
「そ、それで、お父さまは……?」
「喜んでいたわよ。『与えられるだけの運命に満足することなく、未来という冒険の旅の道連れを自ら選んで果敢に軽やかに道を切り開いていこうとする君を、私は誇らしく思うよ。月子に見いだされた男性は、至上の愛と栄光を手に入れることだろう』ですって」
軽やかに立ち上がった月子が、芝居がかった仕草をしながら、父親の口調を真似てみせた。
「なにそれ。月ちゃんだけ、ずるい!」
「ずるくなんかないわ。お父さまを説得しようとした人が、私以外に誰もいなかったってだけじゃない」
「そういえば、そうねぇ」
間延びした口調で母の朱音が姉妹の言い合いに割って入った。
「紫乃ちゃんの時は、――――心の中では良からぬことを企んでいたみたいだけど―――、本人が中村家との縁談に乗り気だったように見えたものね。明子ちゃんの時も、急に決まった結婚に抗議したのは紫乃ちゃんだけ。明子ちゃん本人は、源一郎さんが決めたことに逆らおうとしなかった。明子ちゃんが喜多島さんと別れたいと言い出した時も、源一郎さんは明子ちゃんを叱ったりしなかった」
「でも、明子姉さまが森沢さんと再婚する時には?」
ムキになって紅子が思い出させる。父は、到底達成できそうにない条件を森沢に課し、それをクリアしない限り明子とは結婚させないと息巻いていたではないか。
「だけど、森沢さんは、その条件を最短でクリアしたでしょ。それに、結婚のための条件を課されたのは森沢さんであって、明子姉さまじゃないわ」
もしも、森沢が結婚の許しを得られなかったにしても、明子が自分の意志で森沢について行ったら源一郎は止めなかっただろうとも、月子は考えているようだ。朱音も「たとえ、源一郎さんがひとりで再婚に反対しても、どうにもならなかったわね。なにしろ、源一郎さん以外の全員が明子ちゃんの味方だったものね」と、懐かしげに目を細めた。
「橘乃姉さまの時も、そうよ。姉さまが梅宮さんを選ばなかったとしても、それどころか冬樹さんという最悪の選択をしたとしても、お父さまは姉さまの好きにさせたと思う。もっとも、梅宮さんのことだから、お父さまが彼との結婚を橘乃姉さまに無理強いしたら、梅宮さん本人がお父さまを諫めるでしょうけどね」
「それもそうかも……」
橘乃の夫の梅宮要は、六条源一郎を恐れない。源一郎に対してなんの気負いも感じることなく真正面から真っ当な抗議ができる、ほとんど唯一の若者である。
「そして、紅子姉さまだけど。姉さまは、なにかしたの?」
月子が、紅子に訊ねる。指こそ突きつけないが、突き刺さるような妹の視線が痛い。
「独身主義者だとか独り立ちした女になるとか、お父さまに対して何年も前から変な予防線を張って縁談を遠ざけたくせに、いざ就職となったら、うまくいかないって愚痴っているばかり。誰かに迷惑をかけたくないとかコネはいやだとかいう綺麗事を並べて、お父さまのことも利用しない。結局、就職からも逃げてるだけじゃない」
「逃げてなんか……」
「逃げてるわよ。っていうか、姉さまの場合は、自分の本当の望みから目を背けているだけじゃない」
「それは……」
紅子は言い返せなくなった。
月子に指摘されなくてもわかっている。
そのとおり。
本当にずるいのは、月子じゃない。紅子だ。