幸運な災難 12
六条源一郎には詐欺師の才能がある。
もう、ずっと前から、葛笠はそう思っている。そして、何年も彼に仕えてきた影響で、自分のそうなりつつあるのではないかと疑ってもいる。
「六条源一郎は、不正のために娘を人身御供にしようとしているはずだ」という記者たちの思い込みが冬樹の戯言によってわずかに揺らいだとみるや、源一郎は、その状況を最大限に利用することにしたようだ。
これも源一郎が教えてくれたことだが、真実ではないことを他人に信じさせる秘訣があるとすれば、多くを語らずに、できるだけ嘘にならない言葉を選ぶとよいらしい。
「葛笠くんとのことは、娘が大学を卒業してから話をするつもりだったんだが……」
わずかな困惑とためらいの感情とを眉間のあたりに絶妙に滲ませながら、源一郎が無数のマイクやカメラに向かって打ち明けた。紅子が卒業したら葛笠と何をどうすつもりだったかなんてことは、あえて言葉にしない。「大切なのは、娘の気持ちだからね」と、曖昧な言葉と微苦笑を重ねれば、憶測が得意な記者たちは、源一郎の目論見どおりの反応をみせた。
一方の葛笠であるが、彼とて伊達に何年も源一郎のしごきや無茶ぶりに耐えてきたわけではない。入社した頃こそ人相も人当たりも最悪だったとはいえ、今では、それなりに性格も丸くなり、仕事用の愛想笑いも板に付いてきている。しかも、今回に関していえば、彼は、嘘も方便も使う必要を感じなかった。なにしろ、父親と兄を除けば、葛笠こそが、紅子に一番近しい男性であることは間違いない。マスコミの餌食となった紅子が被った迷惑も、紅子の悲しみも怒りも、紅子の傍でつぶさに見てきた。しかも、彼は、人の良い紅子とは違うから、彼女を苦しめた者どもに対する恨みも忘れてはいない。要するに、紅子の結婚相手となりうる男性すべての中で、葛笠以上に彼女についての質問に的確に答えられる者などいやしないのだ。
ならば堂々としていればいいと、葛笠は開き直ることにした。「自分の出世のために紅子を利用するつもりか」などど挑発的な質問をする者もいたが、その程度のことなら想定のうちだ。彼は、先の源一郎をお手本に、相手が余計な想像をしやすいように、曖昧な言葉と笑顔を駆使してみせた。顔の傷や右目の義眼のことを訊きたそうにしている者もいたが、こちらから説明してやる義理もない。
仕上げは、紅子と彼女が落とし穴から助けた記者たちだった。
突然始まった路上での婚約発表もそろそろお開きになろうかというころ、非常事態に駆けつけてくれた警備会社の者たちを見送るために紅子が門の近くに現れた。警備員たちが連行している薄汚れたふたりの男女は、落とし穴にはまった記者だと思われた。
(なにやってんだよ。門の前には大勢の記者が集まっていることを知ってるだろうが!)
警戒心に欠ける紅子を、葛笠は心の中で罵った。だが、呆れている暇はなかった。葛笠たちを囲んでいた記者の群れが、紅子を目指して動きだしていたからだ。
「紅子、来るんじゃない!」
立場も源一郎が傍にいることも忘れて、葛笠は叫んでいた。社長令嬢に対して社員がするような物言いではないことに気がついた記者数人が走る速度を緩め、「なるほどふたりの仲は本物のようですね」と言わんばかりの人の悪い笑みを葛笠に向けた。ばつが悪くなって口を閉じた葛笠の代わりに、源一郎が、家に戻るようにと紅子に向かって声を張り上げた。
だが、記者たちも諦めなかった。
「葛笠さんとの婚約が決まっているとのことですが!」
「紅子さんは、彼のことをどう思っていらっしゃいますか?」
門まで15メートルほど手前で歩みを止めた彼女から、記者たちが、なんとかしてコメントを取ろうとする。
思いがけない質問だったのだろう。紅子が、父親に問いかけるような視線を向けた。距離があるので声は届かなかったが、「本当なの?」と訊ねているようである。
「もちろん!」
源一郎が、声にしながら紅子に大きくうなずいてみせた。その途端に、紅子の表情が激変した。
まるで、ずっと欲しかったものを、プレゼントとして差し出された時のような。
ずっと禁止されていたことに、ようやく許可がもらえた時のような。
どんな言葉よりも彼女の嬉しさがダイレクトに伝わってくるような。
そんな、まっすぐで晴れやかな笑顔……
(おいおい、なんて顔をしてるんだよ)
紅子の笑顔を目の当たりにした葛笠のほうが、急に気恥ずかしくなってきた。
とはいえ、紅子は、もともとよく笑う子だ。紅子を見慣れている葛笠にとって、彼女の笑顔など、いまさら珍しくもなんともないはずだ。
(そう。いつもの顔……だよな?)
それなのに、どういうわけだが、今日の葛笠は、紅子から目が離せない。
(なんかわからんが、やばい……)
葛笠は、とっさに片手で顔を覆った。指に触れた自分の体温がなぜか常よりも熱く感じて、葛笠は、慌ててもう一方ての手も顔に押し当てた。
(いやいやいやいや、動揺している場合じゃないだろ。落ち着け、俺!)
なぜなら、あれは…… 紅子の、あの笑顔は……
そう。なぜならば、あれは演技に違いないからだ。
紅子は、遠くから見えたこちらの様子と記者たちから投げかけられた質問から、とっさに自分が今すべきことを推測して実行したにすぎない。ぼんやりしているようでも、さすが六条源一郎の娘である。
いかにも恋する乙女のような紅子の愛らしい反応に、記者たちは、おおいに盛り上り、紅子からもっと話を聴こうとした。だが、彼らの勢いよりも、落とし穴から救出された男性記者の熱意のほうが圧倒的に上回っていた。葛笠は、その記者の顔に覚えがあった。この騒ぎが起きる前から、たびたび源一郎に桐生喬久についての取材を申し込んでは断られ、それでもめげずに、妄想たっぷりの記事を書いては、葛笠とその同僚たちを面白がらせている不思議系雑誌『月刊レムリア』の記者である。
「六条さん、どうかお話を聞かせてください!」
「M資金」とか「予言の巫女姫」とか「連合国の傀儡」とかいう、桐生喬久がらみの陰謀論といえば定番の単語を発しながら、『月刊レムリア』の記者が、襲いかからんばかりの勢いで源一郎に近づいてくる。行く手を遮る他の記者たちを強引に押しのけようする彼に怒った他の記者たちが罵り声を上げ、彼を摘み出そう方々から手を伸ばした。その場に居合わせた屈強な警備員たちは、もみ合いになった記者たちを見て、「このままでは契約者である源一郎に被害が及ぶ恐れがある」と判断し、六条家前に集まっていた記者たちを強制的に解散させた。
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記者たちが一掃された後、屋敷に引き揚げた葛笠は、あらためて紅子に詫びた。
「申し訳ありません。私が婚約者役では、大変不本意だとは思いますが……」
「いいえ。私は、まったく嫌ではないわ」
紅子は面白がっているらしく、「むしろ嬉しい」と言ってくれた。
なんでも面白がれる性格をしている紅子の母の朱音も、今回のことを楽しむつもりでいるらしく、「良かったわね。紅ちゃん。葛笠さんと末永く仲良くね」とはしゃいでいた。彼女の下僕たる婆さまたちは、これがマスコミの追及をかわすための芝居だとわかっているのかいないのか、「お式は、当然神前式でございますよね」とか「葛笠どのは男前ですゆえ、紅子嬢ちゃまとは似合いの妹背となりましょうな」などと先走った想像をして盛り上がっていた。そのうちに、月子や夕紀までもがやってきた。葛笠をからかう口実ができたからだろう。「これからは、お義兄さまって呼ばなくちゃね」と、大喜びだ。
「お義兄さま……って……」
「ねえ、葛笠さん。葛笠さんこそ、迷惑しているのではないの?」
置いてきぼりにされた感のある葛笠に気がついた紅子が、申し訳なさそうな顔で近づいてきた。
「嫌ならば、私からお父さまに、お話するけど……」
「あら、葛笠さん。じゃなくて晴之お義兄さま。紅子姉さまでは不服だとおっしゃるの?」
紅子の質問を聞きつけた女たちが、葛笠にとげとげしい眼差しを向けた。
「い、嫌なわけないじゃないですか。むしろ光栄ですよ」
「月ちゃん、葛笠さんに無理強いするようなを言い方をしないで。葛笠さんにだって、お付き合いしている女性とか、結婚の予定とか女性の好みとかあるかもしれないでしょ」
「そんな女性がいたためしがないことぐらい、姉さまが一番よくご存じでしょ」
「いたためしがない……って」
月子の言葉は、真実であるがゆえに容赦なく葛笠の心を突き刺した。
「ええ。ええ。月子さまのおっしゃるとおりです。俺が紅子さまの婚約者を演じたところで、そのことに困るような誰かは、これまでも今も、どこにもいやしません。この先もないでしょうから、私のことは、どうぞお構いなく」
自虐的な気分になりながら、葛笠は紅子の懸念を払拭した。ヤケクソついでに、「どうせ誰とも予定がないのだから、できれば、このまま紅子さまに嫁にきてもらいたいぐらいですよ」と、軽口も言ってみたら、紅子の表情が固まった。
「あー……すみません」
(そうだな。オッサンで醜男の妻なんて、紅子が嫌だよな。冗談に聞こえないよな)
どうやら、知らないうちに葛笠もこの場の雰囲気に流されていたようだ。うっかり調子に乗りすぎてしまったことを反省しつつ、葛笠は「冗談がすぎました。ともかく、世間を誤魔化すためとはいえ、暫定的でも紅子さんの婚約者のふりをさせてもらえるだけでも、一生の思い出になりますよ」と、慌てて言い直した。
「い、いいえ。違うの。そうじゃなくて、私ね……」
「それでも、しばらくの間は私で我慢してやってください。しばらく本当の婚約者同士らしく振る舞って、世間を欺きとおすことに専念しましょう」
紅子に余計な気を遣わせまいと、葛笠は早口で言い切った。
いずれにせよ、当面は婚約しているふりを続けたほうがいいのだ。笹倉と六条との裏取引の見返りが紅子の笹倉家への嫁入りであるという噂が払拭されないままでは、紅子は気楽に外出もできない。楽しみにしている夕紀のコンクールでの演奏を聴きに行くことすら難しいだろう。
(ああ、そうか。だから、さっき、あんなに嬉しそうな顔をしたのか)
葛笠は納得した。ならば、葛笠は、マスコミが紅子への興味を少しでも失ってくれるように、偽婚約者の役を全力で演じるのみである。
(この馬鹿騒ぎを終わらせ、紅子が平穏な日常を取り戻せるなら)
そのために葛笠ごときにできることがあるのならば、喜んで詐欺の片棒でもなんでも担いでやろうではないか。
「俺、偽婚約者だってバレないよう、紅子さまに相応しい男だと世間に認めてもらえるように頑張りますから」
葛笠は約束した。紅子は、引きつった笑顔で「う、うん。よろしくね」と言った。
***
「頑張ってくれるのは、嬉しいのだけど」
舞い戻ってきているかもしれないマスコミに見せつけるように、仕事に戻る葛笠を婚約者らしく玄関まで見送ると、紅子は深いため息をついた。
葛笠が紅子の婚約者になってくれるなんて夢みたいだ。世間を欺くためとはいえ、彼が六条家令嬢に相応しい男だと見なされるよう精一杯頑張ってくれるつもりなのも、すごく嬉しい。だが、彼の「頑張る」の方向が、紅子が望んでいる方向とかなり違っているような気がするのは、彼女の気のせいではないだろう。気のせいではないどころか、明らかに違う。
「本当に葛笠さんのお嫁さんになりたいんだって、言っちゃえばよかった」
どうせ一生独り身なのだから紅子に嫁にきてほしいぐらいだというようなことを、葛笠は言ってくれた。残念なことに、冗談であると本人が訂正した。あの時、思いがけない言葉を聞かされた喜びのあまり一瞬意識が遠のいてしまったのは、紅子一生の不覚であった。紅子をお子ちゃまだとみなしている葛笠が、あの手の台詞をもう一度言ってくれる可能性は、あまりにも低い。
「低いというより、ゼロ?」
「ゼロかもなあ。あいつは、自分がモテないって頑なに信じているから。まあ、もともと外見にコンプレックスがあったうえ、四六時中和臣の隣にいるから無理もないんだが」
へこむ紅子の背後から、いきなり源一郎の声がした。
「お父さま、葛笠さんと一緒に会社に戻られたんじゃなかったの?」
「そのつもりだったんだがね。出かける前に朱音のところに立ち寄ろうとしたら、『偽婚約者として頑張る』とかなんとか、葛笠が不毛な誓いを紅子にしているのを偶然に耳にしてしまったのでね」
紅子が振り返ると、源一郎が苦笑いを浮かべていた。
「だけど、紅子は、それでは不満なのだよね。葛笠のことが、ずっと大好きだったから」
「知ってらしたの?」
「もちろん」
「じゃあ、今日の偽婚約者の話は……?」
「どうせ偽婚約者を演じてもらうなら、いつか本物の夫になるかもしれない男に演じてもらったほうがいいじゃないか」
我ながら良い考えだったと言わんばかりに、源一郎が得意げに微笑んだ。
「じゃあ、お父さまは、反対ならさないのね?」
「私から娘をかっさらっていく男をこの世から抹消してしまいたい気持ちは、葛笠に限らず、どの男に対してもあるけどね」
『特に森沢』と、源一郎が、次女の明子をかっさらっていった男の名前を挙げた。
「それでも、まあ、葛笠なら反対はしないよ。……最初から覚悟してたしな」
「最初からって?」
「まあね」
言いづらいことでもあるのか、源一郎がお茶を濁した。紅子の頭に、あのハイテンションな『月刊レムリア』の記者の姿が浮かんだ。
「もしかして、お母さまが先に何かを言っていたの?」
「『レムリア』の記者から何かを言われたのかい。朱音が予言の巫女姫だとか……そういう?」
「ええ」
「予言ねえ」
源一郎が呆れたように鼻を鳴らす。
「じゃあ、質問だ。とある予言者が大事故を事前に予知したおかげで、事故そのものが起こりませんでした。さて、この予言は当たったのでしょうか。それとも、外れたのでしょうか?」
「え……ええと」
予言があったから、事故を回避できた。だけども、結果的に事故は起きなかった。ならば、予言は外れたことになるのだろうか。
「質問その2。大きな災害が起こった後になって、自分はその災害が起こることをあらかじめ知っていたと言いだす者がいました。あるいは、いつか大きな災害が起こると、何かにつけていっていた者がいました。果たして、この人は本物の予言者でしょうか?」
「……」
「質問その3。とある男が予言者に……、ええと、そうだな、『おまえは、将来、偉大なる学者になるだろう』と言われました。男が、これからすべきことは、なんでしょう。その1、予言を信じて一切の勉強を止めてしまう。その2、ますます学ぶことに力を入れる」
「……。勉強する」
「な。予言なんて、そんなものだよ」
紅子の頭を撫でながら、源一郎がカラカラと笑った。
「朱音が私に言ってきてことで確実に当たることなんか天気予報ぐらいなものだ。まあ、それだって、たいしたものだけどね」
「じゃあ、あの人が言っていた、桐生のおじいさまのことも、まったくの嘘なの?」
紅子は、警備員に追い立てられて記者たちが撤収する時、源一郎と『月刊レムリア』の記者がほんの少しだけ言葉を交わしていたことに気が付いていた。
「会話の内容は聞こえなかったけど、お父さまが言ったことに『レムリア』さんが、とても興奮していたように見えたわ。もしかして、あの人が言うように、埋蔵金とか隠し財産とかいうものが本当にあったりするの?」
「さあ、どうだろうね」
紅子の鼻先まで顔を近づけた源一郎がニヤりと笑う。「マスコミによると、私こと六条源一郎は戦後最大の大悪党だそうだからね。本当のことなど誰にも語ることなく、桐生の遺した莫大な秘宝とやら独り占めしたかもしれないよ。あるいは、もっともらしいことを言って『レムリア』の記者をからかって面白がっているだけかもしれない。あの男は、いつもいつも、なかなか面白い記事を書いてくれるからね」
源一郎は真相を言ってくれるつもりはないようだ。「まあ、お父さまったら、意地悪ね」と、紅子は笑って話を収めることにした。
「桐生喬久のことで何を書かれようと、紅子が気にすることはないよ。特にあの雑誌には、書きたいように書かせておけばいい。桐生のことを本当に知っている人間なんていやしないのだから。……俺も含めて」
「お父さま?」
「仮に、朱音が予言者であったとしてもだ」
一瞬陰ったように見えた表情を誤魔化すように、源一郎が白々しいほど晴れ晴れとした顔を紅子に向けた。「最後の質問だ。その未知なる力を使って、彼女が君の未来をどうこうしてくれると思うかね?」
「思わない」
朱音が未来を知っていようといまいと、天気予報以上のことを紅子に話すことはないだろう。今まで、ずっとそうだった。結局は、紅子が自分で考えて、なんとかするしかないのだ。
「まあ、朱音についての『予言の姫』云々の噂については、葛笠もある程度承知しているから、困ったことがあったら、彼にも相談してみるといい。ところで、その葛笠だが……あいつは、かなり面倒臭いぞ。さっきも言ったが、自分が異性から好意を寄せられるなんて思ったこともないし、紅子のことは、妹みたいな存在だとしか思ってないかもしれない。そのうえ、今回の偽婚約者役だ」
「うん」
これから紅子が必死で彼に告白したところで、葛笠のことだから、全部演技の一環だと思うに違いない。
「余計なことをしてしまったかな」
「ううん」
申し訳なさそうな顔をしている源一郎に、紅子は微笑んでみせた。
いまさら後悔したってどうにもならない。この際だから、彼ともっと親しくなるためのチャンスだと思って頑張ってみよう。