幸運な災難 11
六条家の警備は、それなりに徹底している。
常駐の警備員こそいないものの、六条家の門前に至る私道から外れて雑木林に入り込もうとする不届き物がいようものなら、いたるところに仕掛けられている赤外線を用いた警報装置や監視カメラによって捕捉され、警備会社はもちろん、仕事中の六条源一郎にも知らせが入ることになっている。ついでに、社長の使いっ走りにされがちな葛笠のポケベルにも連絡が入る。
侵入者ありとの一報を受けた葛笠が状況確認のために中村家から六条屋敷に電話を入れると、非常に珍しいことに夕紀が応対に出た。侵入者は、例の落とし穴に落ちており、執事が確認のために外に出ていったばかりだという。ちなみに執事は武道の有段者である。2頭の番犬もいる。
(そういうことならば、執事と警備会社に任せるとするか)
だが、安心するのは、少しばかり早かった。
「それでね。紅ちゃんが、スエさんを追いかけて、執事さんを待たずに落とし穴を見に行ってしまって……」
「あの馬鹿っ!」
どうして、紅子は、自分からトラブルに突っ込んでいくようなことをするのか。そして、夕紀は、なぜ一番肝心なことを最初に言わないのか。スエもスエだ。朱音のおかげで、最近はすっかりおとなしくなったと思っていた。二度と《オババさま》のことで煩わされることはないから安心してほしいと、弘晃に保証したばかりでもあった。それなのに、あの婆さんは落とし穴にはまった人間(おそらく記者だろう)に会いにいってしまったという。しかも、紅子まで巻き込んて!
かつての《オババさま》ことスエが六条家に居座ることになったきっかけを作ってしまったのは、こともあろうに葛笠と彼の同僚たちだった。紫乃と弘晃の結婚が近づいた頃、スエは六条コーポレーションの社屋の正面で仁王立ちになり、中村家でもやってきたように『ここに大いなる禍が見える』と喚きだした。
しかしながら、中村家の先代を怯えさせたこの脅し文句は、六条の社員にはなんの動揺も与えなかった。
「……そんなこと、言われんでも知ってる」
六条の社員は誰もが思った。《大いなる禍》とは、彼らは自分たちが仕える六条源一郎に他ならない。
いたずら心をおこした社員たちは、自分たちからスエを招き入れて自分たちの魔王……もとい六条社長に紹介してやった。すると、次の日の朝には、すっかり身なりを整えて普通の老人と見分けがつかなくなったスエが朱音の傍でかいがいしく働いていたのであった。スエは、すっかり朱音に傾倒していた。タキのことも畏れてもいるようだった。彼女によると、朱音とスエでは、まったく格がちがうらしい。いったいスエに何をしたのかと朱音に訊ねてみたものの、「ただ、ちょっとお話をしただけよ。いろいろ勘違いをしていたようだから」と、いつものように無邪気に笑っていた。ただ、タキが「朱音さまがいらっしゃるので、スエのことは心配いらない。私も、責任をもって彼女をしつけなおす」と言ってくれたので、任せることにしたのだ。
あれ以来、スエは、何の面倒も起こすことなく過ごしてきた……はずだった。
「だああああぁっ、朱音さまは、なにしてんだよ!」
スエをどうにでもできる唯一の人物を罵りつつ、葛笠はただちに六条屋敷に向かった。
屋敷に続く私道に入ってから少し行くと、前方に黒塗りの社用車が立ち往生しているのが見えた。源一郎が乗っているらしく、行く手を遮るように数人が立ちふさがっている。運転手は、冬樹のようだ。
数年前であれば時代をリードする青年実業家ともてはやされ、そのルックスの良さでファッション誌にまで登場していた竹里冬樹と、桐生喬久のお稚児さんだったと某雑誌に書かれた元美少年の六条源一郎という取り合わせは、いろいろな意味で取材のしがいがあるのだろう。タイミングも最悪で、ちょうど午後のワイドショーが放映されている時間帯である。車を取り囲む人々は、何が何でも彼らを逃すつもりはないようだ。短気を起こしやすい冬樹が彼らに向かってアクセルを踏み込まなかったことに、葛笠は心底ホッとしていた。昔に比べると、だいぶ自制心が身についてきたのだろう。あとで誉めてやったら、喜ぶかもしれない。
それはさておき、あの人だかりをやりすごして葛笠の車が先に行くのは難しそうだ。だからといって、この場所から雑木林を抜けて落とし穴のある場所まで短時間で行くことも、不自由な葛笠の足では無理だろう。
ならば、源一郎と冬樹が奴らの注意を引きつけている隙に、葛笠は素知らぬふりをして舗装された坂道を徒歩で進むのみである。
コメントを求める記者たちに応じた源一郎たちが渋々と車外に出てきたのを確認してから、葛笠も自分の車から静かに降りた。先に進むにつれ、記者たちの質問が木々の香りを含んだ風に乗って、割合にはっきりと聞こえてきた。今回は、冬樹のほうが主なターゲットになっているようだ。
(そりゃそうだよな)
言動が派手なくせに尻尾を出さない源一郎に比べたら、冬樹のほうが格段に怒らせやすいから、失言も誘いやすい。
それに、彼らも気になっているのだろう。
(『どうして、あの竹里冬樹が六条の世話になっているのか?』だよなあ)
我がまま坊主のまま大人になった冬樹は、自分が面白おかしく過ごせればいいとばかりに多くの人を傷つけてきた。人生を狂わされた人間もひとりやふたりではないだろう。いまだに恨んでいる者も多い。冬樹が失脚したのは、葛笠に言わせれば自業自得である。大勢から向けられた積年の恨みが、彼から地位や名誉を奪った。
そうはいっても、源一郎の愛娘と彼女の婚家となった茅蜩館ホテルに関わらなければ、冬樹は、今でも俊英な青年実業家としてチヤホヤされていたかもしれない。あの当時、冬樹の失脚と六条とを結びつけるような報道をしたところはなかったようだが、報道関係者ならば、一般人よりも事情に通じている者も多いはずだ。六条家の不正を暴き立てようとする者たちであれば、なおさら当時の六条が冬樹にどう関わったかを知っているのが当然だと思われる。
知っているのならば、彼らは違和感を感じているはずだ。疑問にも思うはずだ。憤りもするだろう。
どうして、竹里冬樹が、敵にも等しい六条に身を寄せているのだろう?
どうして、六条源一郎は、もはや世間の鼻つまみ者でしかなくなった竹里冬樹の面倒を引き受けたのだろう?
六条は、竹里冬樹が人間のクズだと知っているはずのに。
竹里冬樹は、まともに謝ることさえできていないのに。
真摯な反省もせず、ロクな制裁も受けていないのに。
それなのに、彼は大金持ちの六条源一郎を頼って、もう普通の生活に戻ろうとしている。
ねえ。そんなの許されることなの?
もう赦されていいと思っているの?
ねえ。
なんで?
そんなの、おかしくない?
冬樹に向けられた言葉は丁寧ではある。だけども、質問者たちの言葉や態度の端々から、彼らの本心が漏れ聞こえてくるようだ。
(この人たちの言いたいことをまとめると、『自分のしでかしたことを忘れて、こんなところでのうのうと生きているなんて、良いご身分ですね。六条さんとは、人として最低な者同士で気が合うのではないですか? 次は、ふたりでどんな悪さをするつもりですか?』ってところか)
そして、冬樹に向けられていた厳しい質問は、元々の標的であった六条源一郎にも向かう。
多くの人を傷つけた冬樹は、まだまだ罰せられるべきではないのか。
それにもかかわらず、なぜ、あなたは彼に手を差し伸べるのか。
冬樹を引き受ける見返りに、武里グループから金銭でも受け取ったのではないか。
それとも、冬樹を失脚させることからして、異母弟を煙たがっていた3人の兄に頼まれて仕組んだことだったのか。
冬樹を嵌めた、あるいは引き受けることになった見返りは、あったのか。
自分の利益になりさえすれば、あなたはなんだってするのか。
あなたには、人としての良心がないのか。
ある者は遠回しに、また別の者は直接的に、源一郎を問いただす。
まるで、問うことによって源一郎の間違いを自覚させようとするかのように。
(まあ、気持ちはわかる)
葛笠にせよ、冬樹を手放しで受け入れたわけではなかった。和臣と一緒になって、源一郎の決断を変えようと粘ったこともあった。現在ふたりを取り囲んでいる記者たちよりも、もっと酷い言葉で冬樹を批判することもした。しかし、源一郎には、なにを言っても無駄だった。
(いや。むしろ逆効果なんだよな)
記者たちの糾弾は、要するに的外れなのだ。外しまくった言葉が、源一郎の心に響くわけがない。
「だから、違うって!」
それまで言われっぱなしだった冬樹が、面倒臭そうに質問者たちに言い返した。
「俺ががしでかしたあれやこれやについては、今では、非難されてもしかたないことだとわかってる。だけど、このオッサンを俺のことで責めるのは、なんか違うだろ。第一、俺は、ぜんぜん赦してもらってないし」
「それは、どういうことですか?」
「だから、俺は赦されたからここにいるんじゃなくて、赦してもらえてないから、ここにいるしかないんだよ。つまり、これが俺に与えられた罰みたいなもん。そうだよな、オッサン?」
「オッサンではない。社長と言いなさい」
源一郎が、冬樹の頭上に拳骨を振り下した。
「いってええ」
冬樹が両手で頭を押さえる。だが、源一郎は容赦しない。スキが生まれた彼の右頬に更なる一撃を繰り出しながら、「それから、こういう場で使うべきは『俺』じゃなくて『私』だ」と注意した。「チヤホヤされてた時期には、もっとまともな話し方をしてたじゃないか。社会人なのだから、公私の区別ぐらいつけて話しなさい」というわけだ。
さっきまで『冬樹は罰せられるべきだ』と騒いでいた人々は、問答無用の体罰を目の前で見せられて、さすがに黙り込んだ。
「あなたがたのおっしゃるとおり、こんな男を赦してやることなんぞありませんよ」
拳を撫でながら、源一郎が嫌味なほどさわやかな笑みを報道関係者たちに向けた。
「あなた方もよくご存じでしょうが、こいつは人として最低でした。友達や部下という名の子分とつるんで悪さばかりしていました。弱い者に対して残酷で、異性に対して傲慢で、無邪気に多くの人を傷つけた。そんな奴が今さら真人間に生まれ変わったところで、過去の罪がなかったことになるわけではありません。少なくとも、彼が傷つけてきた者全員が彼を赦す気にならないかぎり、彼は赦されたことにはならんでしょう」
記者たちの言い分を全面的に受け入れるかのように、源一郎が幾度もうなずく。
「だけどね。この先、彼がいつまでも『その頃の彼』のままだったら、どうなりますか?」
一息の間を置いたあと、源一郎は彼を囲む者たちに静かに訊ね返した。
「時が過ぎれば、あなた方マスコミは、彼への興味を失う。そして、世間も彼を忘れるでしょう。しかしながら、悪い人間とはいえ、冬樹くん本人は刑罰を受けるような罪は犯してませんから、死刑にもされず、終身刑にもならない。今のところは、周囲の目が厳しく、私や彼の身内に見張られて窮屈な生活を余儀なくされていても、いずれは……それも遠くない未来には、誰の監視もなく自由に外をうろつくことができるようになる。その時、この男が何の反省もないまま、昔と同じ悪ガキのままだったら、どうなりますか。困るのは誰ですか。怖い想いをするのは誰ですか。少なくとも、あなた方ではないでしょう?」
源一郎が、記者たちに厳しい眼差しを向ける。
「その時。もしも、この男が、過去の過ちを反省するどころか、自分を失脚させた人間たちに深い恨みを抱いていたらどうなりますか。テレビや雑誌の取材などで自分のことを悪く言っていた同級生や知人を突き止めて、報復しようとしたら?」
画面にモザイクを入れ声を加工したところで、なんになるだろう。視聴者にとっては赤の他人でも、冬樹にとっては知人である。話された内容から発言者の見当がつけられるはずだと、源一郎が言う。
「そんなことになったら、過去に彼に苦しめられた人々は、未来にも彼に苦しめられることになりませんか。彼らは、一生冬樹くんに怯えて暮らさなければいけないのですか。彼らだけではない。昔のままの彼であれば、新たな犠牲者が生まれることは確実でしょう。というのも、彼は、まだ若くて見てくれも良い。実家もけっこうな金持ちなままです」
世間を騒がせたとはいえ、結局のところ、冬樹が同じ間違いを犯す外的な条件は、いまだに損なわれていないのだ。
「彼を昔のまま野放しにした場合、なにが起こるか。それは『彼を赦すべきではない』とおっしゃるあなたがたのほうが、私などより想像がつくのではないでしょうか?」
皮肉たっぷりに源一郎が訊ねた。
冬樹が失脚した時に、リゾート開発を利用した彼の母と伯父による私的な蓄財のカラクリを暴き立てたついでに、冬樹の過去の悪行を徹底的に暴き立てたのは、他ならぬマスコミだった。その彼らがわからないはずがない。想像できないはずがない。
「彼を赦すべきではないと、あなた方が思うのは勝手です。だが、私は、この先、彼に苦しめられる者をなくすためには、彼のほうをどうにかする必要があると思っています。彼が二度と、昔の自分に戻りたいと思えなくなるように、誰かが、どうにかしなくちゃならない」
言い方は悪いが、冬樹には修理が必要なのだ。誰かが彼の性根を直さなくてはいけない。変えなくてはいけない。「だから、私が、こいつを引き受けることにしました。彼を変えるためにね」と、冬樹の頭に手を置いた源一郎が宣言する。
「彼のためではありません。彼に迷惑を掛けられた人たちと、これから掛けられることになっていたかもしれない人たちのためですよ」
「でも、どうして……?」
「たまたま縁があったからでしょうか」
一種の道楽のようなものだと源一郎が肩をすくめる。
「それと、私が昔、同じ事をしてもらったから……というのもありますかね」
「あなたが桐生喬久さんに同じことをしてもらったということですか?」
問いかけに、源一郎は微笑むだけの答えを返した。
「あ。そうそう。私のほうが冬樹くんよりも強いからだという理由もあります。彼より弱かったら、やられちゃいますからね。その点、我が社は安心です。社員たちは、日々私に鍛えられていますから」
冬樹ごときに負けるようなヤワな奴はいないと、源一郎が変なところで胸を張る。「ついでに、主に私のせいで、社長室の周囲は女子社員から隔離されていますしね。冬樹くんの毒牙にかかりようがない」とおどけて、取り囲んでいる人々も笑わせた。
「あなたたちの怒りもわからないでもない。ですが、この男にも、赦されるための努力ぐらいさせてやったらどうでしょうか。それぐらいのチャンスを与えてやってもいいのではないですか」
皆の気が少しだけ緩んだところで、源一郎が提案する。
「彼が幼児以下の思考回路と行動パターンを改め、過去の自分を穴掘って埋めたいと思い詰めるほどになるまで、私が彼の面倒を見ますよ。ですから、彼がうちで働くことを許していただきたい」
「……そういうことなので、よろしく、です」
源一郎の横で、冬樹がむっつり顔ではあったが頭を下げた。
ここまで言われたら、彼らも、冬樹に対する矛を収めるしかない。しかし、だからといって、あっさりふたりを解放するほどマスコミは優しくなかった。「では、次は娘さんのコンクール出場について……」とか、「波浜市の市中心部の再開発工事の請負の決定プロセスが……」とか、「紅子さんと笹倉徹さんのことですが……」と、一斉に別々の質問を繰り出した人々に、今度こそ冬樹がキレた。
「あんたたち……じゃない、あなたがたは、もしかしなくても、俺……いや、私以上に頭が悪いんじゃないか……悪いのではないですか。君たちは、コンクールで不正をしてもらう見返りだとか言って、徹と紅子……いや、紅子さんと笹倉の息子さんをくっつけようと盛り上がっているみたいだけどさあ。そもそも、紅子が徹の嫁になるわけないじゃないか。あの子は葛笠さんとの結婚が決まっているはずだよ。そうだよな」
最後の「そうだよな?」は、源一郎に向けられたものだった。
「え「……は? 俺?」ええっ?!」
葛笠の声は、マスコミのどよめきにかき消された。
「嫁にはやらん」
源一郎が、実に不機嫌そうに冬樹から目をそらした。
「あの子も嫁になど行かないと言っている。ずっと、私の傍にいると……」
「だから、婿なんだろ?」
源一郎の心の機微なんぞ無視して、冬樹は、「ずいぶん前から決まってるらしいよ……らしいですよ」と、記者たちに説明した。とはいえ、彼らにしてみれば、そもそも葛笠が何者なのかがわからないはず……だとばかり葛笠は思っていたが、違った。
彼らの取材能力は、それなりに高かった。冬樹から「葛笠」の名が出たとたん、ただの通行人のふりをして通りすぎようとしていた葛笠は、あっという間に、源一郎と冬樹の間に連れ込まれてしまった。
「お、おいっ、なにを言ってるんだよ!」
人混みの中心にひきずりこまれた葛笠は、自分でも呆れるほど狼狽えていた。冬樹はニヤニヤしている。どうやら葛笠が照れているだけだと思っているようだ。娘が結婚する話題がとことん苦手な源一郎は、ふてくされているのか黙りこんでいる。
「だって本当のことだろ」
「本当って……」
「紅子のバイトの送り迎えもしてたよな?」
「そ、それは……」
「そういえばそうだったな」
六条のスキャンダル目当てに群がっていた記者たちが、お互いに確認するようにうなずき合う。彼らも、紅子を送迎する葛笠を何度も見かけていたのだろう。「オッさ……んじゃなくて、社長は、いつも葛笠さんにしか紅子は任せられないって言ってるぞ」という冬樹の言葉を律儀にメモしている者もいた。
「今だって、一緒に暮らしているようなものだしな」
「人聞きの悪いことを言うな。住まわせてもらっている部屋が近いだけだ」
「そんなに近いんですか?」
「うん。ほぼ隣」
葛笠に向けられた質問に、冬樹が答えた。「っていうか、この屋敷で暮らしているってだけで、充分特別じゃね?」と言われれば、そのとおりである。
「デートだってしてるよな。紅子にケーキ食べさせたり、買い物に付き合ってもらったりさ」
報道陣からの「え? 付き合わされているんじゃなくて、付き合ってもらっているんですか?」という確認の問いにも、「そうだよ。紅子が買い物に付き合ってる方」だと冬樹が律儀に答えてる。
「この人、いつも紅子にネクタイ選んでもらってんだよ。今日のだって、あの子のセレクトだよな?」
「そ、それには訳があって……」
紅子が葛笠のネクタイを見立ててくれるようになったのは、明子の夫の森沢のせいだった。
森沢が明子と結婚する数年前。紫乃の見合い相手として名が上がった森沢の身辺調査を命じられた葛笠は、即座に森沢に見破られたばかりか、「センスが最悪」だという理由から、その場でネクタイをむしり取られ、彼が見立てたネクタイを3本購入させられたということがあった。そんなことがあった翌朝、小洒落たネクタイをぶら下げた葛笠と出くわした紅子に、なぜか森沢への対抗心が芽生えたらしい。「この先は、誰にも葛笠さんのセンスが悪いなんて言わせない」と彼女は宣言し、以来、時々葛笠を買い物に連れ出しては、ネクタイや小物、時にはスーツや私服なども選んでくれるようになったのである。
「訳もなにも、そういうのは、奥さんや恋人がしてくれることなんじゃないの。ってか、紅子の初アルバイト代でもネクタイ買ってもらったくせに」
「それは……」
紅子は、『アルバイトの送り迎えをしてくれたお礼』だとか『お父さまと話し合えって言ってくれたから、そのお礼』だとか言っていたのだが……
「……。もらってない」
源一郎の小さな小さな低音の呟きが、葛笠の思考を一瞬で凍らせる。声がした方にカクカクとした動きで顔を向ければ、源一郎の顔からはいっさいの表情が消えていた。怖い。ものすごく怖い。
どこからか「交際はいつから?」という質問がなされたようだが、怯える葛笠の耳には届かなかった。代わりに冬樹が「少なくとも、2年ぐらい前からかな」と答えた。
「それぐらいの時期に、茅蜩館のフレンチレストランで、ふたりが仲よさそうに食事をしているのを見たことがあったから」
「な……っ!」
『なんで、そんなことを覚えてるんだ』と、自分からうっかり認める発言をしそうになったのを、葛笠は寸前で回避した。そう。これも事実である。しかし、あの時は、デートに見せかけていただけでデートではなかった。隣のテーブルで食事をする冬樹と橘乃を見張りたがった人々が仕掛けた監視カメラや盗聴器に無関係な一般客が映り込んだりしないようにとの配慮から、エキストラとして葛笠と紅子が送り込まれただけだった。
ところで、茅蜩館ホテルといえば、多くの人にとって、六条家の3女の嫁ぎ先である以上に、都心の一等地に建つクラシカルな雰囲気を持つ老舗一流ホテルであり、少しばかり贅沢な気分を味わいたい恋人たちの憧れの場所だと認識されている。件のレストランでのプロポーズの成功率は100パーセントに近いとかという噂もある。
冬樹の「あの頃の俺は葛笠さんを知らなかったけど、すげえ幸せそうなカップルだと思って、正直ムカついた……いや、本音を言えば、羨ましかった」というコメントもあって、不正を暴き立てるためにやってきた正義の報道関係者の厳しい顔つきが、ほのぼのとしたものに変わっていく。それでも、源一郎だけが、無言無表情のままだ。どうしよう。あとで殺されるかもしれない。
だが、記者たちは怖い者知らずだった。地雷だとわかっているだろうに、果敢にも源一郎への質問を試みた。
「……と、竹里さんがおっしゃってますが、4番目のお嬢さんとこちらの秘書さんとの交際について、お父さまである六条さんは、どのように受け止めていらっしゃるのでしょうか?」
「……。まあ、葛笠なら……ぃぃ」
独り言のように言いながら源一郎ががっくりと肩を落とす。葛笠には、葛笠だけがネクタイをもらったことのショックから立ち直れていない源一郎による独り言だとしか思えなかったが、外野は、紅子と葛笠の婚約についてのコメントだと受け止めたようで、インタビューはますます婚約記者会見のような様相を帯びてきた。
慌てたのは葛笠だ。「社長!」と、ショックのどん底にいる源一郎を現実に引き戻そうと小声であるが必死で呼びかけた。
「あ、うん?」
我に返った源一郎が、夢から覚めたような顔でまばたきを繰り返しながら、現状を確認しようとするかのように居並ぶ記者たちを見回した。
「しっかりしてください。ネクタイのことなら、後で幾らでもお詫びさせてもらいますから……」
「……。いや。いい」
耳元で謝罪する葛笠の声を、源一郎が遮った。その声は、意外にも落ち着いていた。
「……結局こうなるのかよ」
舌打ち交じりに源一郎が悪態のようなものをつく。
「……え?」
「だが、すんなりやるのは惜しいな」
「はい?」
「ふん。この際だから、巻き込んでやる」
葛笠にしか聞こえない程度の音量で源一郎がつぶやいた。『合わせろ』とも。
「ええと、娘とこの男の結婚のことでしたな」
己を取り戻した源一郎が、取材陣に対して、非常に胡散臭い社交的な微笑みを向けながら、確認を取った。
『交際』について訊ねたはすが『結婚』という言葉が返ってきたことで、顔をほころばせた者は、全体の半数といったところだろう。あとの半分は、ほのぼの笑顔から一転、警戒するようにこちらを見ている。
(そうだろうな)
先ほど冬樹も言っていたが、紅子と葛笠が結婚を前提とした付き合いをしているのなら、六条源一郎が娘を嫁がせることを条件に笹倉に不正を働かせたという彼らの説が成り立たなくなる。
(なるほど、そういうことか)
葛笠は、源一郎に合わせることにした。
☆☆☆
同時刻。紅子は落とし穴に落ちたままの女性記者から、質問を受けていた。
「わ、私が葛笠さんのことをあ……愛してるかっ……なんて、ど、どうして、あなたにお話しくちゃならないんですかっ! だ、第一、葛笠さんは、私がどれだけ頑張っても、私のこと、子供だとしか思ってくれないし」
返答内容は笹倉徹との仲を疑われていた時に言っていたことと、さほど変わらないかもしれない。だが、紅子の顔は耳まで赤く、声も、どもるは上擦るわで、かなり動揺していることは、誰の目にも明らかである。
しかも、隣の落とし穴では、月刊レムリアの記者が「巫女姫さまの予言ですね!」とスエを相手に大はしゃぎしている。
こちらの記者たちは、葛笠たちを囲んでいる記者たち以上に、紅子の気持ちが誰に向いているかを確信することになった。