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他には何も望まない  作者: 風花てい(koharu)
21/28

幸運な災難 9


 その日の紅子は、残りの就業時間を使用人との茶飲み話や立ち話に費やした。


 次の日からは、聞き取り調査と『家計簿』の作業に加えて、進物品の礼状や招待状の返事や、祝い事やらお見舞いやらお悔やみやらといった手紙の類を綾女に言われるがまま、彼女の厳しいチェックに怯えつつ作成する仕事が加わった。1枚書くだけでも、かなり神経を使うし時間もかかる。それにもかかわらず、数日後には、「飲み込みが早いわね」とか「笹倉さんが重宝するだけのことはあるわね」とおだてられるまま、明子の母親の愛海の手伝いまですることになった。六条家が支援している福祉団体や公益財団など、愛海の仕事には、外向きには源一郎が理事として名を連ねている団体に関わることが多く含まれている。多額の寄付などもしているので、会計処理的なものの確認が必要なものもなにかとある。1冊でも面倒臭い『家計簿』が2冊に増えてしまった。


 少しだけ仕事に慣れてきた頃、夕紀の母親の百合香が、紅子が提出した『家計簿』にたくさんのメモを貼り付けて突き返してきた。メモには、計算は間違ってないようだが、添付すべき書類が足りないとか、購買理由が理由になっていないとか書かれていた。ほとんどイチャモンではないかと紅子は内心で反発したが、綾女も愛海も百合香の意見を無視するつもりはないようだ。おかげで、紅子は次の日の午前中をレシート探しに費やすことになった。


 毎日忙しい紅子だったが、せめてもの救いは、母親たちが就業時間をきっちりと守ってくれることだ。見守り役を自認する朱音は、本当に見守るばかりで、ヘロヘロになって戻ってくる娘を笑顔で応援することしかしてくれない。見ているだけで何もしてくれない母親に対して殺意めいた感情がわいてくる今日この頃の紅子である。



 腹が立つと言えば、夕紀もだ。


 もっとも、紅子は夕紀に対して怒っているわけではない。怒りなど沸いてきようもないほど、夕紀は一日中ピアノの練習をしている。紅子がアルバイトをしている間も、その前後も、夜になっても、なかなかやめようとしない。


 あれだけネガティブな報道をされているのだから、コンクールの1次予選後での夕紀の演奏が良かろうと悪かろうと、批判的に報じられることだろう。けれども、本当に下手な演奏だった時には、『そらみたことか!』といわんばかりに、いっそう悪く言われるに違いない。だからこそ、夕紀は、下手な演奏を披露するわけにはいけないと思いつめている。下手であればあるほど、テレビは大喜びで無様な演奏を何度も全国放送するだろうと月子にからかわれたこともプレッシャーになっているようだ。


 当初はまったくやる気がなかった夕紀だが、いまや、自分の実技が全国レベルでさらしものになる危険を回避するために必死である。練習のしすぎで指を傷めやしないかと、紅子は気が気でない。何もしてやれない自分がもどかしい。紅子ができるわずかなことといったら、おやつを取ることを口実にして、わずかな時間ではあるが夕紀に気分転換をさせてやることぐらいだ。


 だが、この日。

 

 アルバイト終えて3階の部屋に上がった紅子は、ここのところいつもそうしているようにドアを開けるなり夕紀の練習を邪魔することをしなかった。


 夕紀が、コンクール用の曲でもストレス発散用の曲でもない曲を弾いていたからだった。




 ショパンの『革命』。


 この曲を聞く度に、紅子は、なぜか嵐の中で翻弄される1枚の葉っぱを思い浮かべてしまう。


(ちゃんと、弾けるのに)

 怒りのようなものが、紅子の内側からふつふつと湧いてくる。彼女は、ここにくる時間に合わせて使用人が用意をしてくれているお茶やお菓子には目もくれずに窓辺に向かうと、通気のために少しだけすかしてあった窓を大きく開け放した。他のふたつの窓も、全開にした。


「紅ちゃん?」

「続けて」

 ピアノを弾くのをやめかけた夕紀に、紅子が催促する。だけども、一番の仲良しの妹は、紅子が考えていることなどお見通しだった。彼女は鍵盤から手を離すと、たしなめるように紅子の名を呼び、ティーポットに湯を注ぐために席を立った。


「紅ちゃん。この部屋からじゃ、門の前に集まっている人のところまで音は届かないわ」

「でも、悔しいんだもん」

 紅子が頬を膨らませる。窓を開けたのは、風を入れたかったからではない。むしろ、その逆。夕紀のピアノを、外に向かって思い切り解放してやりたかった。六条家の門前に張り付いている人々に、さっきの演奏を聴かせたかった。


 『革命』は、夕紀を貶めるために引き合いに出されている優勝候補のひとりが1次予選のために選んだ曲だ。優勝候補者と夕紀との差を視聴者にわかりやすく伝えるためだろう。毎日のようにコンクール不正疑惑の話題で盛り上がっているワイドショーなどは、『革命』のような曲こそがコンクール出場者が予選で弾くに相応しい曲であるといわんばかりに、なにかにつけて、この曲をBGMとして流している。もともと有名な曲ではある。だけど、六条家とワイドショーのせいで、この国における『革命』の知名度は、この一ヶ月ほどで飛躍的に上がったに違いない。


 不当な手段で出場権を勝ち取ったのではないかと疑われている夕紀は、1次予選で『革命』のような難曲を弾けるほどの実力もないと思われている。しかしながら、夕紀は選ばなかっただけだ。『革命』だって他の難しい曲だって弾くことができる。夕紀のピアノをBGM代わりに働いてきた使用人たちも、そのことを知っている。門前に待機する取材者たちにもそう言ったのだと美和子と紅子に話してくれた使用人は、ひとりやふたりではなかった。


 たくさんの記者が話を聞きたがって群がってきたというのに、自分たちが一番言いたかったことは取り上げてくれないのだと、使用人たちは怒っていた。それに、彼らは恐れてもいた。何を言っても悪者にされるばかりの理不尽が、六条家で働いている自分たちにまで及ぶのではないか。子供たちが学校でいじめられるのではないか。近所の人々から白い目で見られるのではないか。田舎の両親が肩身の狭い思いをするのではないか。そんな心配をしだすとキリがないのだと言っていた。


 彼らの多くにとって、六条家は、お世辞抜きで働きやすい職場なのだそうだ。それでも、怖い。不安でしかたがない。辞めたくないのに辞めたほうがいいのではないかと悩まずにいられない。どうしたらいいのかわからないのだと、途中で泣き出してしまった人もいた。


「だいたい。この要項がいけないと思うの。1次予選の選曲基準が自由すぎるのよ」

 お茶の用意があるテーブルに戻った紅子は、窓際の丸椅子の座面に無造作に置かれていた白い表紙の小冊子を手に取った。


 この要項によると、1次予選の出場者は、ピアノという楽器を用いて、別表のリストに記された50曲余曲、もしくは、ベートーベン、モーツアルト、ショパンが作曲したピアノソナタの中から1曲以上を選んで、与えられた25分の時間内に独奏することを求められている。難易度を指定するような文言は特になく、1曲だけでも条件を満たしていれば、あとは何を弾くのも自由であるとも書かれている。事前に楽譜の提出は求められるそうだが、ピアノ用に編曲された歌謡曲でも自分が作曲した曲でも、弾きたければ、なんでも弾いていいらしい。


 国際的なピアノのコンクールだというのに、こんなに自由で大丈夫なのだろうか。それ以前に、ピアノに詳しくない紅子ですら気がつくほど、別表の選曲リストに掲載されている曲の難易度がバラバラでもいいものなのだろうか。このリストに選ばれた曲たちになにかしらの共通点があるとすれば、『広く知られている曲』であることぐらいだろう。有名な曲ゆえに記号的な名称以外の標題を持つ曲も多い。今、夕紀が弾いていた『革命』もそうだ。 


「この中で夕紀ちゃんが弾ける曲は、『革命』だけじゃないわよね」

 リストを上から下へ指でなぞりながら、紅子は、夕紀が弾いたことがある曲で、かつ難易度が高そうなものを探した。

「『ラ・カンパネラ』、『英雄ポロネーズ』、『鬼火』……」

 これらの曲と『革命』のどちらが難しいのか、紅子にはわからない。それでも、少し前に姉妹が夢中で見ていたテレビドラマの主人公が、ピアノコンクールでの優勝を目指して一生懸命練習していた曲だったことならば覚えている。ならば、これらもかなり難しい曲であるに違いない。


「この『リゴレット・パラフレーズ』とかいう曲も、最近練習してなかった?」

 とっさにメロディーを口ずさむことはできないものの、演奏技術力の高さを意識的に見せつけるような、華やかで力強くて複雑な曲だった。その曲のことを『超難曲』とか『超絶技巧』と夕紀が評していたことも紅子は覚えている。


「その曲は、コンクールへの出場者を絞り込むための事前審査のために使ってしまったから……」

 夕紀が申し訳なさそうに打ち明けた。一度演奏してしまった曲は、それ以後の審査のために弾くことができないのだそうだ。


「ああ、そうか。教授がコンクールに応募するために演奏を録音したというのが、この曲なのね」

 夕紀の大学の担当教授は、彼女に人前で演奏することを経験させるために、彼女に無断でコンクールにエントリーした。自ら進んでエントリーした夕紀の同級生たちは、教授が夕紀にその曲を弾かせたのは巷で信じられているこのコンクールの攻略法ゆえだろうと言っていたそうだ。


「事前の審査は、録音された演奏だけで合否が決まるでしょう? だから、演奏技術の到達レベルを主な判定基準にしているはずだって」

 つまり、演奏技術の達成度を判定しやすい難しい曲を弾いたほうが、高い評価をされやすいだろうということらしい。


「ということは……よ。夕紀ちゃんにコンクールに出るだけの実力があることは、事前審査に通ったことで既に証明されているのではないの?」

「紅ちゃんも、そう思う……よね」

 ため息をつきながら、夕紀がティーカップをソーサーに戻した。


「だけど、私が事前審査のために提出した曲なら、ちょっと調べればわかると思うの。審査は終わっているし、これだけの騒ぎにもなっているから、問い合わせれば実行委員会でも教えてくれるかもしれない」

「じゃあ、表で待機している記者さんたちは、そもそもそういうことを調べる気がないか、調べたのに無視することに決めたということなのね」

 紅子は、また腹が立ってきた。

「でなければ、別の人の演奏を私のものだと偽って応募したと思っているとか……」

「まさか」

「でも、やろうと思えば簡単にできるから……」

「そうかもしれないけど、偽の演奏で審査を通過したところで、本番でメッキがはがれて恥をかくだけだじゃない」

 源一郎も、そう言っていた。だいだい、別人による素晴らしい演奏で審査が通るなら、そもそも源一郎が裏から手を回す必要が生じないではないか。

 娘のことになると目が曇りがちな源一郎や紅子でさえわかることがわからないほど、門前に集まっている人々は馬鹿ではないだろう。ならば、わかっているのに、あえて無視して、夕紀を貶めようとしているのだろうか。


「そんなの、ただのいじめっ子じゃないの!」

 憤然とする紅子に対して、夕紀は、すでに怒る気力をなくしているようだ。「とにかく、自分ができる精一杯のことをするつもり」だと、諦めたように微笑むばかりである。


「お父さまも、『夕紀がみんなに聴いてもらいたいと思う曲を、心を込めて弾けばいいよ』って言ってくださったから」

「そうね。お父さまのおっしゃるとおりね」

 紅子は夕紀を励ました。だが、本音を言えば、じれったくて仕方がない。少しでもいいから、夕紀の汚名をそそぐ手段はないものか。


「せっかくマスコミに一矢報いるチャンスかもしれないと思ったのに」

紅子は、全開にしたままの窓を恨めしげに見やった。平日のこの時間であれば、いくつかのチャンネルでワイドショーが放映されているはずだ。それら番組の関係者も中継のために六条家前で待機していることだろう。


「六条家を見張っているどこかのテレビ局が、夕紀ちゃんの『革命』の音を中継で拾ってくれたとするでしょ。そうしたら、お茶の間でテレビを見ている人たちに、夕紀ちゃんのピアノを聴いてもらえたかもしれないのに…… 夕紀ちゃんの実力を知ってもらえたかもしれないのに……」

 視聴者の中には、ピアノを弾く者もいればクラシック音楽に詳しい者もいるだろう。その人たちの中に夕紀のピアノの実力に気がついてくれる人や、テレビを通して伝えられることに違和感や疑問を持ってくれる人がいたかもしれない。


 だが、夕紀が「そんなことをしても無駄」だと言ったとおり。六条家というのは、都内にあるにしては、屋敷も庭も規格外に広かった。空気を振るわせるように響きわたる金管楽器ならばいざ知らず、ピアノでは、どれだけ力一杯に鍵盤を叩いたところで正門の前に群がっている人々の耳にまで届くまい。せめて、この部屋の窓が正門の方を向いていればどうにかなったかもしれないが、あいにく裏庭に面している。


「もういいよ、紅ちゃん。それにね。テレビや雑誌がいろいろ言っているけれども、私、1次予選で安易に超絶技巧曲を選ぶのはやめたほうがいいような気がしてて……」

「どうして?」

「なんとなく、罠っぽいかなあ……って」

「は? 罠?」

 紅子は口にしていたクッキーを急いで飲み込むと、夕紀に向かって身を乗り出した。


「罠って…… うっかり難曲を弾いちゃったら、罠に掛かって即予選敗退、みたいなことになるの? じゃあ、優勝候補って言われている人も……」

「ううん。その人たちなら大丈夫」

「え? 大丈夫な人と大丈夫ではない人がいるの?」

「それは、もちろん」

 なんでそんな当たり前のことを訊くのかと言わんばかりに、夕紀がうなずく。

「それに、これ、もともと、山河楽器が始めたコンクールだから……」

 困惑する紅子を更に困惑させるようなことを、夕紀が言う。


「ごめん。ぜんぜん意味がわからない」

「あ、ごめんなさい。そうよね。わからないわよね」

 「笹倉のおじさまならともかく」とつぶやきながら、夕紀が言葉足らずなところを説明するために紅子の隣に移動してきた。


「あのね。去年までのコンクールの1次の合格者を見てるとね、そういう傾向があるようなの」

「難曲を弾いたら、落ちる?」

「というより、難曲を弾いたからって、予選を突破できるとは限らない。かな」

 小首を傾げながら、夕紀が言いかえる。


「それに、笹倉のおじさまや徹さんにもお話したけれども、要項にもね。ところどころに、思わせぶりな表現があるの。例えば、こことかここね。日本語の文章より英語で書かれているこっちが、わかりやすいかもしれないけど」

 紅子が手にしている要項内の英語の文章の一部を円で囲むように、ページの上で夕紀が指を滑らせた。


「どれどれ。ええと、『コンクールに出場される皆さん』」

 紅子は夕紀が示した英文を直訳してみた。

「『まずは、想像してみてください。あなたは、プロの音楽家としてこの舞台に招かれています。あなたの演奏を聴くために大勢の人がこのホールに集まっています。さあ。まずは、計画してください。彼らに何を聴かせますか? どのような』……ん? 何の音?」

「今の……笑い声?」

 肩を寄せ合うようにしてひとつの要項を読んでいた紅子と夕紀が、顔を見合わせた。

 

 奇声のような甲高い笑い声のような音は、屋敷のすぐ下から聞こえているようだった。窓に駆け寄ると、貧相な体つきの老婆が、屋敷をぐるりと囲む柵に向かって突進していくのが見えた。あれは、朱音の侍女のひとり、スエだ。なにを騒いでいるのだろうと紅子が思う間もなく、スエは柵に向かってバッタみたいに飛びついた。どうやら乗り越えるつもりでいるらしい。

 

 あの柵は、橘乃に求婚者が殺到したり、彼女と叶わぬ恋をしていると勘違いした竹里冬樹が屋敷に侵入しようと躍起になっていたりした時期に新しくしていた。高さは、それまでのものよりもずっと高く、小さなスエの背丈の3倍近くはあるだろう。しかも、安易に乗り越えられないようにと、高いところには、鋲の役割をする装飾がなされている。


「スエさん! 危ないわよ!」

「降りて!」

 紅子と夕紀は、大声でスエに呼びかけた。

 

 歳のせいで聴力が衰えているからなのか、それとも柵を上ることに夢中になっているせいなのか、スエは、こちらの声にまったく反応しなかった。紅子は、部屋から飛び出すと、スエの元に向かった。


「スエさん、降りて! 落ちちゃうわ!」

「さよう! 落ちましたのじゃ!」

 まだ落ちてもいないスエが喜々として叫んだ。


「落ちたって……?」

 紅子は困惑しながら、柵の外をしきりに気にするスエの視線の先をたどった。柵の外は、雑木林だ。ここより少し低いところを走っている公道に至るまでの土地は、すべて六条家の所有である。

「そういえば……」

 雑木林には、落とし穴がある。柵を取り替えた時、紅子たちが『防犯のため』を理由にして面白半分に掘ってもらったものだ。あの落とし穴に落ちたおかげで、竹里冬樹は放火犯になりそこねた。


「どのような愚かな輩が落ちたのか、この婆めが、しかと見てやろうと思いましてな! 泣き面を拝んでやるのですじゃ!」

「本当に落ちたの?」

 たとえ、本当に誰かが落ちていたとしても、屋敷の中にいたスエが気がつくものだろうか。とはいえ、スエを黙らせて耳を澄ましてみれば、なるほど、雑木林の奥から誰かが助けを求める声が微かに聞こえてくる……ような気がする。

 

 落ちたのは、記者だろうか? あの落とし穴は、大人ほどの体重がなければ機能しないように作られていたはずだが、雑木林に住み着いているというタヌキが落ちた可能性もある。いずれにせよ、落ちているのなら、落としたままにしておくわけにもいくまい。


「いいわ。確認してみるから、とにかく降りてきてちょうだい。そこの鍵を開けてあげるから」

 紅子は、スエが掴まっている場所から、十数メートルほど離れた場所にある小さな扉を示した。今は記者が屋敷までの道を上がってこられないように、表門以外は閉鎖しているが、広すぎる六条家には、複数の出入り口があった。紅子が示したのは、柵や雑木林のメンテナンスのために設けられた扉。雑木林はずっと姉妹の遊び場でもあったから、紅子も夕紀も鍵のありかを知っている。

 だが、「夕紀ちゃんが鍵を持ってくるまで、ちょっと待っていて」という紅子の制止を「いやいや、それには及びませぬ」と笑顔で断って、スエは反動をつけるように体を大きく揺らして、楽々と柵を越えることに成功してしまった。


「あ! 待って!」

 紅子が柵の隙間から必死で手を伸ばすが、スエはどんどん遠ざかっていく。紅子は、一足遅れてやってきた夕紀から引ったくるようにして鍵を受け取ると、扉を開けた。「すぐに執事さんと警備会社の人がくるから」と夕紀が引き留めようとするが、紅子は、危なそうだったらすぐに戻ってくるからと約束して、スエを追いかけた。


 災難続きで忘れかけていたが、林の様相は、ずいぶん秋めいてきていた。色づいた葉が見頃になるのはもう少し先だろうが、地面に目をやればドングリやなどが落ちている。初夏にふわふわした花を咲かせていたカラスウリも赤くなりかけている。良い具合に実がついている山帰来もある。クリスマスが近くなったら、毎年そうしているように、あの山帰来や松ぼっくりを使ってリースを作ろうと思いつつ、紅子は先を急いだ。

 助けを呼ぶ声は、いよいよハッキリと聞こえるようになっていた。しかも、その声がひとつではない。

 

「まさか……」

 嫌な予感に紅子が青ざめる。先を進んでいたスエは、地面に膝をつき、かつて冬樹も落ちたことがある落とし穴の中をのぞき込んでいた。そこから数歩しか離れていないところにあるもう一つの落とし穴も確認すると、紅子を振り返り、Vサインをしながら「大漁ですじゃ!」と嬉しそうに叫んだ。


 スエの甲高い声を聞きつけたのだろう。

 姿は見えないが、「よ、よかった。助けがきた」という少し高めの男性の声と「もう、なんでこんなところに落とし穴なんか掘ったのよ。非常識でしょ!」という女性の声が、地面の下から同時に聞こえた。



 


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