表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
他には何も望まない  作者: 風花てい(koharu)
20/28

幸運な災難 8


 落とし穴に落ちている記者を発見した日よりも少し前から、紅子は、大変忙しくしていた。


 きっかけは、アルバイトを辞めた翌々週後あたりに発売された女性向け週刊誌に掲載された『六条夕紀にはコンクールに出る資格も実力もない』という内容の記事だった。


 あの記事が出てからというもの、六条家に向けられる世間からの眼差しは以前にも増して冷たく厳しくなった。コンクールの不正が真実であることが決定的になれば、それ以外の六条源一郎の悪行はもちろん彼に繋がる大物政治家や大企業の不正も芋づる式に暴けるに違いないと、マスコミの方々は浮き足立っているらしく、彼らの取材攻勢は日ごとに過熱するばかり。コンクールの不正疑惑のみならず、開催都市で予定されている再開発事業でも六条が違法な裏取引をしているとか、ある有力な政治家と蜜月めいた関係にあるのではないかと匂わせるような報道も日常化しつつあった。

 他にも、姉たちが嫁ぎ先でのお家騒動の元凶になっているとか、源一郎と6人の愛人たちとのただれた愛憎生活とか、噂話をお昼のメロドラマ風に味付けした記事も出ているという。中でも紅子が一番馬鹿馬鹿しいと思ったのは、母親の朱音が稀代の予言者で、彼女のご託宣によって六条コーポレーションの行く末が決められているとかいう珍妙な記事だった。言うまでもなく、この記事はデタラメである。朱音は『なにもしないこと』こそが自分の仕事だと豪語するような女だ。快晴の朝にシーツを抱えて歩いているメイドを呼び止めて『午後から土砂降りだから、外干しはやめたほうがいい』と忠告することがあっても、予言めいた言動で他人の人生の選択に介入することはない。ひとり娘に対してでさえ、『自分のしたいようにしなさい』と放任しまくっている。


 それはさておき、夕紀のピアノの腕前を疑う記事のおかげで、現在の六条屋敷は、まるで落城寸前の城のようになっている。屋敷へ出入りするための道は、敵ならぬ報道関係者に徹底的に固められ、クリーニング屋であろうと郵便配達員であろうと追いかけ回され質問責めにされる。六条家で暮らす人間にかかるストレスは相当なもので、特に人見知りの激しい夕紀には耐えがたいものであるようだ。ここのところ、数年前から姉妹が『夕紀のストレス発散用の曲』と呼んでいる曲が、コンクールの練習の合間合間に聴こてくることが増えた。 

 

 

 これは、とんでもないことになってしまった。


 そう思い詰めた源一郎の愛妾その1(……と、雑誌で紹介されていた)の綾女は、滅多なことでは行使しない六条家の女主人としての権力を振りかざし、紅子たちに必要のない外出を禁じた。学校に行かない日は、家から一歩も出てはならないという。


 紅子や月子が不平を言っても、綾女は困ったような微笑みを浮かるばかりだし、他の母親たちも綾女の方針に反対する気はなさそうだ。日頃から綾女に従順な朱音などは、綾女の決定を積極的に支持する立場をとった。


「綾女ちゃんの言うことをきかなきゃダメ。でないと、もっと怖いものが出てきちゃうんだからね!」

「怖いもの?」

「そうよ。とっても怖くて手に負えないもの。このままだと、みんなの目にも見えるほど大きく醜くなっちゃう」

「なあに、それ? 化け物でも出るの? それとも幽霊?」 

「化け物や幽霊のほうがずっとまし」

 両手の拳を握りしめ、朱音がせっぱつまった顔で主張する。


「だって、化け物だったら退治できるでしょ。幽霊だったら、話し合いですむかもしれないし、面倒だったら払っちゃえばいいんだから」

「………………え?」

 小馬鹿にしたような笑みを浮かべていた月子の表情が引きつった。紅子ですら、いつにも増しておかしな母親の言動を諫めるタイミングを失った。退治できないほど恐ろしいものってなに? それより、朱音の中では、化け物退治が簡単な作業に分類されているの? もしかして、化け物を退治をしたことがあるとか? 待って待って! それでは、そもそも化け物がいることが前提になってしまうわ。化け物って……まさか、ソンナノ イナイワヨネ?

 

 どこから突っ込んで良いかわからないほど困惑している娘たちのことなどおかまいなしに、朱音は「とはいえ、私は今でも充分怖い……というかキツイ。もう、具合が悪くなりそう」と泣き言めいたことを言いながら首や肩を回している。そういえば、ここのところの朱音は元気がない。いつにも増してタキたちに世話を焼かれているような気もする。



 その晩。


 葛笠が帰ってくるのを聞き耳たてて待ち伏せし、たまたま出くわしたふりをして彼に話しかけることに成功した紅子は、「ねえ、化け物っていると思う? 幽霊は?」と、彼に訊ねてみた。

 鼻で笑われるとばかり思っていたのに、葛笠は、なんだか気まずそうな顔をしながら、「化け物はともかく、幽霊は最近少し信じてるかもしれない」と話してくれた。


「そうなの? もしかして、見たことがあるの?」

「幽霊か? いや。実際に見たわけじゃない。ただ、橘乃さまの縁談の時に、なんとも説明しがたいことがあってだな……。でも、どうしてそんなことを?」

「お母さまがね。このままだと化け物より怖いものが出るって言うの」

「朱音さまが?」

 興味が引かれたのか、葛笠の古傷が残るほうの眉がわずかに上がった。


「あ、でも、お母さまが言っているだけのことだから。気にしなくてもいいと思うのよ」

「いや。朱音さまがわざわざ言っているからこそ気になるんだよ」

「え? まさか、葛笠さんも、お母さまが予言者だとかいう話を信じてるの?」

「うん? 誰がそんなことを?」

「そういう記事があるんですって。おかしなことを考える人がいるものよね」

 紅子が笑う。だが、一緒に面白がってくれるとばかり思っていた葛笠は、難し顔をしたままだ。


「葛笠さん?」

「ああ。すまない。確かに馬鹿げた記事だな」

 怪訝そうな紅子の眼差しに気がついた葛笠が笑みを浮かべた。


「馬鹿げてはいるが…… 社長には報告しておくよ。それはそうと、君は大丈夫か?」

 葛笠の口調が少しだけ砕けたものになった。

「私?」

「マスコミに追い回されたり、家から出られなかったり、バイト辞めたり、いろいろあるだろうが」

 首を傾げた紅子のに呆れているかように葛笠が眉間に大きくシワを寄せた。どうやら、紅子が精神的に参っているのではないかと心配しているらしい。そして、そのことに気がついた紅子は、相当場違いな表情を浮かべていたようだ。


「なんだよ。俺が心配したらおかしいのか?」

「だって、葛笠さんが私のことを心配してくれてんだなあと思ったら」

 不機嫌そうな顔をしている葛笠を紅子は間近から見上げた。なんとなく恥ずかしくて真っ直ぐに顔を上げられない。つい、上目使いになってしまう。

「なんだか嬉しいなあって……」

「……は?」

 紅子と目を合わせた途端に絶句した葛笠の顔が見る間に赤く染まった。かと思ったら、いきなり怒られた。


「なに言ってるんだ。馬鹿!」

「馬鹿って……」

「とにかく、外出禁止! しばらく家でおとなしくしてろ!」

 葛笠が逃げるように自室に引っ込む。閉められたドアの向こうから「頼むから、これ以上厄介ごとに巻き込まれないでくれ。こっちの神経がもたん!」という声が聞こえた。だが、葛笠の心配は杞憂だ。

「大丈夫よ。明日から綾女お母さんの監視下に置かれることになっているから」

 紅子は、上機嫌で閉じたドアに向かって声を張り上げた。


 紅子の声を聞きつけた葛笠が、わざわざ部屋から出てきて「綾女さまが見張っているのならば、安心だな」と心から安堵したような顔でコメントしたことは癪にさわるものの、自分が失言しがちなトラブルメーカー気質だという自覚ならば、紅子にもある。ゆえに、綾女が紅子に特におとなしくしていてほしいと願う気持ちも、とても、よくわかる。ありがたいことに、賢明な綾女は、紅子をおとなしくさせておくために口やかましくしたり軟禁したりしなかった。その代わりに、綾女は紅子に辞めてしまったアルバイトの代わりを用意してくれた。雇い主は綾女で、主な職場は綾女の居室である。必然的に、紅子は、日中のほとんどの時間を綾女の目の届く場所で過ごすことになった。



**



 翌朝、紅子が綾女の居間にいくと、まずは簡単な契約書を読まされ、サインを求められた。


「お給金と働く曜日や時間は、笹倉さんと同じにしましょう。大学の授業に差し障りがないような取り決めになっているのですよね」

「ええ。でも、あの、私に契約書なんて、随分本格的なんですね」

「そう? あ、もしかして、私が紅子ちゃんをアルバイトをお願いするのは、紅子ちゃんを足止めするための方便だと疑っているのかしら」

 そんなことはない。しっかり働かせるつもりだから安心してほしいと、綾女が微笑んだ。

「ちょうど手伝ってくれる人がほしいと思っていたところだったのですよ。最近は小さな字が見えづらくて……」

 悲しげに首を振りながら綾女が紅子の目の前に最初の仕事を積み上げた。それは、分厚いノートと領収書や請求書などの束だった。

「これは、家計簿?」

「そのようなものね。ええとね。それぞれの金額に矛盾や不自然なところがないか確認しながら、そのノートに書き入れていってほしいの。それほど難しくはないと思うのだけど、紅子ちゃんにできるかしら?」

 やんわりと綾女が挑発する。いやいや、侮ってもらっては困る。こんなの楽勝…… と舐めた気持ちで引き受けた紅子がその『家計簿』に取りかかってみれば、これがなかなか厄介だった。


 六条家の妻たちは、自分たちが自由に使えるお手当のようなものを自分たちに渡されている自社株の配当という形で受け取っている。しかしながら、食費や光熱費など、この屋敷で暮らしていくために必要な出費や娘たちの教育にかかる費用などは、この手当の中に含まれない。源一郎が負担すべき出費として、まとめて管理されている。

 二人の秘書と住み込みと通いの使用人も含めて20人以上が生活している六条屋敷は、手入れすべき建物も大きければ敷地も広大だ。食材費や日用雑貨費、人件費や施設管理維持費など、それぞれ出費は、少額のものから高額なものまで様々だ。支払い方法にしても、あらかじめ渡されている現金で使用人が支払うこともあれば立て替えもあり、他にも、月ぎめの付け払いであったり、小切手であったり銀行振り込みであったりと、これまたややこしい。

 それら雑多な入出金が矛盾なく正しく行われていることがひと目でわかるように、渡された雑多なレシートや領収書を確認しながら整理し記入するのことは、それほど難しくはない。だが、手間はかかる。

「うぅ……面倒臭い……」

 電卓を叩きながら紅子はうめいた。

 

 紅子が苦戦している一方、綾女も、その他の用事で忙しくしていた。なにしろ、使用人たちが引っ切りなしに綾女を訪ねてくるのだ。

 女中頭は、このところの騒ぎのせいで辞職したがっているメイドのことや補充の人員の相談をするついでに、彼女の管理下にある『最近の若い子たち』のこらえ性のなさを長々と嘆いていった。次にやってきた執事は、警備員増員の提案と、迷惑しているだろう近隣住民への対応について相談と報告をしにきた。

 執事との面会が終わったと思ったら、次は庭師の老人だった。彼は、庭木の剪定用の大きなハサミを手にしたまま、乗り込んできた。取材と称して門前の桜の木に上ろうとするたわけ者どもの頭をひと通り刈り込んでやりたいのだがかまわないかと言う。


「綾女お母さんの日常って、こんなに大変だったのね」

 綾女が庭師をなだめすかして帰すのを見届けると、紅子は感服したように息を吐いた。

「いつもは、これほどではありませんよ」

「いつもも、これほどよ。なにしろ、この家は、源一郎のせいで、いつでもなにかしら大変なことが起こっているものだから」

 謙遜する綾女の言葉を混ぜ返すようなことを言いながら現れたのは、三女橘乃の母親の美和子だった。今日の美和子も、お人形さんのように可愛らしく着飾っていた。スカートを覆うチュールが彼女の歩くリズムに合わせてフワフワと揺れている。

 

「ふふ、紅子ちゃん、手こずってるようね?」

 家計簿をのぞき込みながら、美和子が、しなだれかかるように紅子の背中に抱きついてきた。

「でも、この時期なら、まだそれほど大変じゃないはずよ。年末調整とか確定申告のシーズンは、もっと面倒臭いことになるから覚悟なさいね」

「えー」

「ほらほら、そんな情けない顔しないの。せっかくの美人が台無しよ」 

 見えていないだろうに、美和子が後から紅子の両頬を指でつまみ上げた。 


「それに、そのノートも税金か何かの関係で必要になるのですって。後で税理士さんか誰かに見せなくちゃならないそうだから、字は丁寧に書くこと。ああ、そうだ、その前に百合香さんにも見せないとね」

「え? 夕紀ちゃんのお母さまも、これを見るの?」

「そう。監査みたいなものね。それが、この屋敷における彼女のお役目だから」

 『あの人のチェックは、細かくてネチっこいわよお』と、美和子が脅かし、『ほらほら、だから、そんな顔しないの』と、への字に曲がりかけた紅子の口の端を背後から指で引っ張り上げた。


「私たちは役割を分担しているの。仕事で日中家にいない月子ちゃんのママは別として、綾女さんが、この家の家政の司令塔なら、愛海さんは私人としての源一郎さんの秘書であり外交担当。ちなみに、私は、屋敷内の人間関係の調整役といったところかしら。それと、和臣さんのお母さん代理だったり。あなたたちの2番目のお母さんだったり?」

「たしかに」

 早世した和臣の母親の代わりに彼の就学の準備をしたのが美和子なら、彼が学校からもらってきたプリントを渡す相手も美和子だった。年少組の3人娘が喧嘩をした時に間に入ってくれるのは上の3人の姉たちであることが多かったが、美和子は、その姉たちが揉めた時に調停役になってくれた。誰の子供に対しても遠慮なく体をくっつけてきたり着こなしに口出ししたり髪の毛をいじりたがったりするのも、美和子だけだ。自称人みしりのくせに、屋敷の中の者に対してはとても人懐こい女性である。


 この屋敷を円滑に回していくために姉の母親たちが何らかの役割を担っていることは、紅子もなんとなくではあるが知っていた。しかしながら、夕紀の母親にも役目があったことは正直意外であった。彼女は、源一郎の愛人であることも、ここで暮らすことも、娘を愛することすらも厭うているようであったから。

「百合香お母さまにまで役割があるってことは、もしかして、うちのお母さまにも何か役割があるの?」

 紅子が期待をこめて訊ねると、美和子は明らかに戸惑った顔をした。


「朱音さんの役目は……、そうねえ、見守ることって言ったらいいかしらね」

「お母さまも同じことを言っていたわ」

 紅子は苦笑した。朱音の見守るは、イコール、何もしないだ。どうやら自分は、怠け者な母親の分まで、この家のために働く必要があるようだ。

「ああ。そういえば、スエさんのお世話があったわね」

「逆でしょ?」

 スエに世話をされてるのは、朱音のほうだ。分が悪くなってきたのか、美和子が話題を変えた。

 

「ところで、紅子ちゃん。そろそろ飽きたんじゃない? だから、気分転換も兼ねて、私と次のお仕事に行きましょう。綾女さん。この子も連れて行ってもいいわよね?」

「ええ」

「え? どこへ行くの?」

「ここで働いている皆さんから、お話を聞いてきてもらおうと思っているのですよ」

 美和子に訊ねた紅子に、綾女が答えた。

 

 先刻やってきた女中頭も言っていたが、通いのメイドが辞めたいと言いだしたそうだ。今のところはひとりだけだが、今の六条家の状況を鑑みるに、他の使用人も彼女と同じように辞めたいと思っているのではないだろうか。不満や不満を抱えているのではないだろうかと、綾女は心配しているらしい。

「だから、雑談にかこつけた聞き取り調査をしてくるつもりなの」

 まずは、休憩中のメイドたちの茶飲み話に混ざりにいこうではないかと美和子が甘やかな笑みを浮かべて紅子を誘う。


「それでね、綾女さん。場合によっては、お手当の値上げについてとか臨時ボーナスについてとか、下世話な話もすることになると思うのだけど……」

「美和子さんのよろしいように」

 美和子の提案を承認するように、綾女が微笑んだ。

「ということで、紅子ちゃん」

「……うん。あの、だけど、ところで……」

「どうしたの?」

 素直に立ち上らず、逡巡した様子を見せる紅子の顔をのぞき込むように、美和子が身を屈めた。


「……その…… お父さまって、本当に悪いことしている……の?」

「ああ。そのことねえ」

 振り返った美和子が綾女と目を合わせて笑い合う。


「さあ、どうなのかしらねえ」

「法律に触れる悪事をしていないとは言い切れないかもしれませんね」

 ふたりの返事は紅子が望んでいるものとは違った。不安そうな顔をしている紅子の頭に手を置きながら、「『そんなことない』って言ってほしかった?」と美和子が微笑む。


「でもね。心配することはないわよ。所詮、源一郎は、源一郎だから」

「お父さまは、お父さま?」

「そう。あなたが見ているまんま、知っているままの源一郎」

「ええ。紅子ちゃんも知っているとおりの」

 ゆっくりと近づいてきた綾女も、静かに微笑んでいた。

 

「あの人はね。どうしようもない。ただのお馬鹿さんですよ」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ