幸運な災難 7
『六条夕紀がピアノコンクールの1次予選で演奏を予定している曲は、他の出場者のそれらと比べると全体的に難易度が低い。簡単な曲ばかり弾こうとしている彼女は、このコンクールに出る資格が本当にあるのだろうか』
『女性モダン』という週刊誌に掲載された記事を簡単にまとめると、そのようになる。
山河国際ピアノコンクールの1次予選で、演奏者は、限られた時間内で数曲を演奏することになっている。この記事の筆者は、根も葉もない噂を求めて紅子の周りをフラフラしていただけの記者たちと比べれば、ずっとマメだったようだ。彼または彼女は、出場を決めた人々が通っている音大などを訪ねて、それぞれが演奏を予定している曲を学友たちから聞き出し、その難易度を調べたという。掲載誌の発売日のほうが1次予選のプログラムの配布よりも早かったこともあって、この記事は、かなり注目を集めることになった。
選曲についての調査結果は正しいようだ。少なくとも、自分や知り合いの演奏予定曲に間違いはないと、夕紀が言っている。曲の難易度についても、筆者の偏見などではなく、一般的に言われていることにすぎないそうだ。意外なことに、夕紀の選曲がコンクールの要項に記載された条件を満たしていることも、記事の中に書かれていた。
だが、要件を満たしているとはいえ、六条夕紀が他の演奏者よりも難しくない曲ばかり演奏しようとしていることは事実だ。このコンクールの一次予選の選曲の要件が他のコンクールと比べるとかなり緩いと音楽関係者たちが考えていることも、また事実であるという。ゆえに、六条夕紀が他の出場者と互角に戦えるだけの実力の持ち主であるとは、どうしても考えづらい。しかも、彼女は、これまで一度もコンクールに出たことがない。だからこそ、自分たちは、彼女が『父親の財力でもってピアノコンクールに出場しようとしている』のではないかと疑わざるをえないのだ。いや、疑わない方が、おかしい。記事は、そう主張する。
審査は厳正であるべきだ。金持ちのエゴによって歪められるようなことがあってはならない。六条夕紀への疑惑が晴れない限り、伝統あるこのコンクールへの信頼は失われ、国際コンクールとしての権威も損なわれるだろう。これでは、このコンクールに出場するために血の滲むような努力を重ねてきた他の出場者が気の毒である。こんなことだから、この国は、いつまでたっても文化大国になれない。こんなことばかりしているから西洋諸国に見下されるのだ。云々……
合計4ページからなる記事の最後のページは、六条家への疑惑や筆者の憤りが執拗に綴られていた。
いやらしい記事だ。葛笠は思った。
間違っていることは書かれていないのかもしれない。だが、夕紀が練習しているどの曲せよ、葛笠には、とても複雑で難しい曲に思える。「弾け」と言われたところで弾けない。自分に手が5本あったとしても、絶対に無理だ。
他の演奏者と比べれば、夕紀は簡単な曲ばかりを選んだのかもしれない。しかし、だからといって、この事実をもって彼女の実力が劣る証拠になるかといえば、ならないはずだ。それに、記事が紅子との比較対象にしている演奏者は、入賞を期待されている者ばかりだ。できるだけ早めに予選落ちしたい夕紀と彼らを比べることからして、無理がある。
この記事は、理屈が通っているようで、通っていない。論理に飛躍がある。自分が言いたいことを読者に納得させるために必要な条件が欠けているのだ。たぶん、筆者が意図的に無視したのだろう。六条に関する記述にいたっては、理屈すらない。いかにも悪そうな金持ちだから悪いことをしているはずだと、決めてかかっている。
こんな記事、クソだ。読むに値しない。
誰かに深く同情しながら、誰かを手ひどく貶める。貶めるべき相手が悪者であるならば……自分たちが『罰せられるべき悪者』だと決めた相手であるならば、その記事によってその人がどんなに惨い立場に追いやられようと気にしない。
葛笠が右目の視力を失った十数年前と、なんにも変っていやしない。
「だから、この手の正義の味方は嫌いなんだ」
今となっては滅多に思い出さなくなっていた苦い記憶を振り払うように、葛笠は乱暴に頭を振った。
しかしながら、苦い思いは振りきれない。こんな記事でも、信じてしまう人々が予想以上に多いことを葛笠は経験的に知っている。記事の胡散臭さを承知しながら、あえて利用する人々がいることも。
心配していたとおり、この記事が発表されるやいなや、紅子がアルバイトを辞めてから心なしか落ち着いたように思われたマスコミが、以前にも増して活動的になった。今度は、カメラマンを連れたテレビのレポーターやスポーツ系の新聞の記者たちまでもが、目の色を変えて六条や笹倉の関係者を追いかけ回すようになった。葛笠も、たびたび声をかけられた。テレビのワイドショーでは、連日のように、コンクールの仕組みや入賞候補者たちと夕紀との比較などを、写真や図でもって懇切丁寧に説明している。
自ら取材陣の前に進み出ていった六条源一郎が、いつぞや笹倉社長にしたように『愛娘であるからこそ、自分が不正をしていると思われるのは、心外だ』と親バカ全開で訴えたが、役者顔負けの派手めの容姿と芝居がかった言い回しや動作がかえって怪しまれ、真実とやらを暴こうをする人々の熱意に油を注ぐ結果にしかならなかった。
不正の共犯者扱いされている笹倉社長のほうは、会社を出たところで複数のテレビ局からカメラを向けられた。一緒にいた徹によると、巌は、短気な彼にしては非常に忍耐強く六条夕紀のピアノの実力が本物であることを音楽初心者にもわかるように丁寧に説明したという。だが、実際に放映されたのは、ほんの数秒間だけ。それも、夕紀に聴かせてもらったピアノの曲というのが、モーツアルトの『フランス歌曲「ああ、おかあさん。あなたに申しましょう」による12の変奏曲』、すなわち『きらきら星変奏曲』として親しまれている曲であったことを知った記者たちのがっかりした顔を見て、「『きらきら星』のなにが悪い」と激昂している一瞬ばかりだった。
記者会見まで開かされたコンクール事務局の面々は、笹倉社長以上にマスコミに慣れていなかった。会見の場でどこぞの記者の誘導質問に乗っかってしまった事務局長は、『浪浜駅周辺の大規模再開発―――特に音楽ホールについては、六条建設にお願いできたらと思っている』と言ってしまった。それどころか、挑発にのせられて、「六条夕紀のコンクール出場は、絶対に取り消さない。文句があるなら、彼女の演奏を聴いてから言え」と、啖呵を切ってしまった。その結果、六条源一郎および六条建設は、浪浜市の再開発事業においても裏で良からぬことをしているのではないかという疑惑を持たれるようになってしまった。
世間の関心がますますコンクールと六条に集まるにつれ、笹倉がコンクールの審査に介入する見返りとして、六条源一郎が愛娘である紅子と笹倉徹との縁組み提案しているというふざけた噂も息を吹き返した。テレビも雑誌も、もはや公然の事実であるかのように、この噂を扱っている。縁組つながりなのか、次にマスコミが関心を向けたのは、すでに嫁いでいる3人の娘たちや、その婚家だった。それなのに、事務局の会見時に合わせて予定よりも早くに公開された1次予選のプログラムを確認したところ、夕紀と同レベルの選曲をしているコンテスタントが何人もいたことがわかったということは、まったく報道されなかった。
***
『女性モダン』の発売から、およそ2週間。笹倉徹が「あんたが表に出ると事態が悪化するばかりだから、引っ込んでいろ」と父親に忠告したせいであやうく勘当されかけていた頃、紫乃の母親であり六条家の家政を預かる綾女は、娘たちに外出禁止令を出した。特に紅子は、おとなしくしているようにと念を押された。
「それでも、あまり信用されていないようで、今は綾女さまの手伝いをさせるという名目で、彼女の監視下に置かれていますよ」
コンクールの1次予選を来月の半頃に控えた9月の末。
葛笠は、源一郎の使いで中村家を訪れていた。
紫乃の夫の弘晃は体が弱いので、体調の良し悪しを最優先としながら自宅で仕事をするという日常を余儀なくされている。新人の頃、紫乃と弘晃との縁談時のゴタゴタの後始末のために六条と中村の間を何往復もさせられた葛笠を、中村家の人々はいまだに気兼ねのいらない人間だと認識してくれているようだ。応対に出てきた老執事は、取り次ぎのためにいったん奥に引っ込むこともなく、彼を弘晃がいるところまで案内してくれた。
弘晃は、普段からよく使われている小さい方の食堂近くのリビングの、柔らかな陽光が差し込む窓際で大量の書類に目を通している最中だった。子守も引き受けているらしく、彼の足下では、息子の智弘がタオルでできたボールを振り回して楽しそうにしている。最近言葉が出てくるようになったという智弘は、葛笠を見上げたかと思ったら、「んちあっ!」と言いながら大きく頭を振った。彼なりに挨拶しているつもりのようだ。とても愛らしい仕草だが、勢いあまって床に頭を打ちつけそうでもあり、見ているこちらがハラハラした。
「中村家の皆さまにも大変なご迷惑をおかけしているようで本当に申し訳ないと、社長が申しておりました」
「まあ、おかしな記事が出たせいで、いささか面倒くさいことになってますけど」
硬い表情で頭を下げた葛笠に目線で向かいの椅子に座るように勧めながら、弘晃が書類を脇に置いた。
現在の中村本家は、跡取り問題で揉めている。それも、奪い合うのではなく譲り合う方向でだ。
発端は、『世相詳報』という週刊誌の記事だった。中村本家は、前当主であった弘晃の祖父の遺志により、弘晃の父親から弟の正弘に受け継がれることが決まっている。だが。これを不満に思う紫乃が、実父六条源一郎の力を借りて、息子智弘を跡取りにしようと躍起になっているというのである。
しかしながら、事実は、この記事と真逆である。
弘晃の弟の正弘は、六条源一郎の親ばかをしのぐほどのブラコンである。記事を読んだ正弘は、病弱ゆえに妻を持つことさえ諦めていた弘晃に息子が生まれた以上、その子が中村のすべてを相続するのが当然だと主張し始めた。祖父のせいで傾きかけた中村本家を立て直したのが弘晃の功績であることを知っている多くの中村一族も、正弘の言葉に賛同の意を示した。
だが、紫乃は、正弘の主張に真っ向から反対した。紫乃は、『長く連れ添えないかもしれないし子供も期待できない』ことを理由に弘晃から別れを告げられても諦めきれず、『それでも好きだから、傍にいさせてほしい』と頼み込んで弘晃の妻になった。正式な婚約に至るまでの過程で、中村を手に入れようとしている(……と、当時の紫乃は思っていた)父親と敵対したこともあった。
その紫乃が、息子が生まれたからといって、中村の身代を欲しがる? しかも、父親の手を借りて? 冗談もほどほどにしてほしい。……と、この記事にすっかり憤慨した紫乃は、こうなったら意地でも智弘に跡は継がせないと宣言した。
「ちなみに、弘晃さんは……?」
「僕? 僕は、そもそも僕自身がこの家を継ぐ人間だとは思っていませんでした。ですから、智弘が中村本家を継ぐとも考えていません。僕としては、この子が丈夫に育ってくれれば、それで充分なんです」
弘晃は、首を横に振ると、傍らで遊ぶ息子に目を向けた。
「ともあれ、この件については、どうあっても泥沼化しようがないので、気にしないでください。それに、ハチャメチャな噂ならば、うちは昔から立てられ慣れていますから」
『中村本家の嫡男は、頭がおかしいので座敷牢に閉じ込められている』というのは、まだマシなほう。深刻な健康問題を隠すために、紫乃と結婚する前までは家に引きこもり、おかしな噂にまみれるに任せて生きてきたきた中村本家長男は、おおらかに笑った。
「僕がこんなでしたから、マスコミを煙に巻くことぐらい、うちの者も社員も慣れてます。だから、うちは大丈夫。明子ちゃんのところも、心配することないでしょう。森沢さんをはじめ、喜多嶋一族の男性陣も全力で彼女を守るでしょうから」
「たしかに」
レディーファーストの権化の集団のような喜多島一族を思い出しながら、葛笠が、弘晃の苦笑いに苦笑いで返す。橘乃の婚家である茅蜩館にいたっては、この騒ぎをリニューアルしたホテルの宣伝に利用する余裕まであるようなので、これも心配する必要はないだろう。
「まあ、どのような媒体のなんという記者がどのようなことを書いたか、どのような発言をしたかついては、今後も報告してもらおうと思っています。紫乃さんを貶めるような悪質なものについては、特に念入りに調べてくれるようにともお願いしています。そして、僕は、絶対に忘れない」
弘晃の顔から、常に浮かべている笑みがふいに消えた。父親の表情の冷たさに気がついたのだろう。ひとり遊びをやめた智弘が、不思議そうに弘晃を見上げた。
「弘晃さん?」
「紫乃さんが言ったのですよ」
今回、六条家がおかしな疑惑をもたれたせいで、友達や先輩後輩のところにまでに記者たちが出没し迷惑をかけてしまった。通っていた中学や高校のことまで悪く言われてしまったから、紫乃が知らない多くの在校生や卒業生が、これらの記事を読んで不快な思いをしたことだろう。今から思えば、中学に入ったばかりの紫乃が仲間はずれにされたのは、六条家がいつか自分たちの交友関係や出身校の評判に傷をつけるだろうことを、皆が無意識のうちに感じていたなのかもしれない。
「柴乃さまの同級生たちが、将来のトラブルの元となるかもしれない六条家に対して、無意識に恐れを抱いた。それが、イジメという形になって現れた。そういうことですか?」
「ええ。だから、自分がいじめられたのは、しかたのないことだったのかもしれないと……。中学生の頃、あれだけいじめられても毅然としていた紫乃さんが、今頃になって、そういう弱音を吐いたのです」
しかしながら、記事の中で強欲な悪女のように描かれている紫乃と現実の紫乃とは、かけ離れている。彼女は、弘晃や中村家のために本当によくやってくれている。それなのに、なぜ、憶測と思い込みにまみれた記事や一面識もないコメンテーターによって、彼女が侮辱されねばならないのか。彼女が自分自身を責めることになるのか。
「僕が外に出られないせいで、彼女が悪く言われる。旧中村財閥本家の乗っ取りを企む六条家の野心ゆえに父親によって送り込まれ、ろくでもない男との結婚生活を嫌々続けている心のない女性であるかように書かれてしまう。すべて僕のせいなのに、彼女は僕をなじることさえ思いつかないんです。しかも、紫乃さんは、この手のことになると、馬鹿みたいに正しくて、お人好しなんですよ」
中学生の時も、彼女は、自分のいじめ問題が解決するなり、いじめの首謀者を許してしまっている。その子が充分な報いを受け、反省していたからだそうだ。ちなみに、その子は、今は紫乃と一番仲の良い友達である。
「そりゃあ、繭美ちゃんはいい子ですよ。それに、自分がしたことの報いをきっちり受けている。だから、紫乃さんが彼女をさっさと許してしまったことに呆れながらも、僕は理解することができました。でも、今回は、誰もが、紫乃さんを傷つけるばかり、大衆の興味をかきたてることばかりに夢中になっているようにしか見えません。多くの人にとって、暇つぶし程度の、たわいのない記事にすぎないのかもしれません。一過性の好奇心を満たすために大なり小なりの脚色が加えられることや扇情的な表現が用いられることも、この手のメディアでは当たり前のことなのかもしれない。紫乃さんも、僕が怒ることはないと言います。自分を知る人たちさえわかってくれているなら、知らない人にどう思われようとかまわないのだと笑ってやり過ごそうとします」
彼女のそんな態度は、立派だと賞賛されるべきだのだろう。だけど、この件で紫乃が傷ついていないはずがないのだ。自分を侮辱した者たちを赦すことも、けっして簡単なことではないはずだ。
「でも、僕は嫌なんですよ。だから、僕が、紫乃さんの代わりに赦さないと決めたんです。彼女を傷つけた人たちを、僕は絶対に忘れてなどやらない。一生軽蔑する」
「もっとも、僕から軽蔑されたところで、あちらは痛くもかゆくもないでしょうし、紫乃さんが止めるから積極的に報復はしません。でも、この先、彼らが、なんらかの形で僕たちに関わってくるようなことがあったとしたら、その時は、ただでは済ましません」と、普段の穏やかな表情に戻った弘晃がニコニコ笑いながら宣言する。だが、目だけは全然笑っていない。声の調子も、とてつもなく暗く冷ややかだ。
「……。弘晃さん。それでは、いつか必ず彼らに復讐すると言っているのと同じです」
「おや? そう聞こえてしまいましたか?」
「そうとしか聞こえませんでしたが」
隠居爺を装ったような生活をしているとはいえ、当主で社長の父親に頼り切られている弘晃は、実質的には複数の分家を束ねる旧中村財閥本家の当主であり、巨大企業中村物産の最高責任者でもある。しかも、彼にはとても人望があり、一族の人間からも社員からも、たいそう慕われている。それらの人々がそれぞれに広げている人脈をも考慮すれば、今回紫乃を侮辱した人々は、いつかどこかで……というよりも、この先いつでもどこでも何度でも、なんらかの形で弘晃と関わりになる可能性があり、いつどこで手ひどいしっぺ返しをくらうかわからない。
「もっとも、彼らが痛い目にあったところで、ざまあみろとしか思えませんけどね」
「だから、積極的に報復するつもりはありませんってば。あ、そうそう。今回のことでひとつだけ懸念すべきことがあるとすれば、わずかとはいえ同じ記事の中で触れられていた……」
「オババさまのことなのですが」と、弘晃が、周囲の耳を気にするかのように声を潜めた。
彼が言うところの『オババさま』とは、予言者めいた言動で弘晃の祖父を迷わせ、旧中村財閥本家および中村物産を破滅に導こうとした老祈祷師のことだ。幼い弘晃を家族から引き離し、病室という座敷牢に完全隔離させた張本人でもある。祖父の隠居と同時に中村家を放逐されてからも、彼女は度々中村家の人々の前に現れたが、紫乃との結婚をさかいに姿を消した。
「オババさまは、悪い意味で話題性たっぷりです。マスコミにしてみれば、格好の取材対象でしょう。カメラの前で、あの人に好き勝手なことを話された日には、それこそ収拾が付かなくなる。だけど、あの人は、もう現れることはないのですよね?」
弘晃が探るような面白がるような視線を葛笠に向けた。葛笠も、探る様な視線を彼に返した。
「もしかして。ご存じでしたか」
「紫乃さんには、内緒にしておいてくださいね」
「当然です。お嬢さま方は何も知りません」
「それで?」
「オババさまは、もういません。二度と中村の皆さまの前に現れることはないでしょう。皆さまにご迷惑をかけるようなこともありません」
「朱音さまがしっかり見張っていますから」
葛笠は紅子の母親の名前を挙げた。「ならば、安心ですね。マスコミ対策も必要ないでしょう」と、弘晃もホッとしたように頬を緩ませた。
「そうですね。オババさまのことは問題ないと思っていてくださって、結構です。ただなあ。最近、これまでのゴシップ目当てとはちょっと違っているけど、滅茶苦茶面倒くさい記者が現れまして…… その人が妙な動きをすると、いささか面倒なことになりそうだと……」
「ああ。朱音おかあさんに対して、おおいなる妄想を膨らませているという?」
家にいながらにして何でも知ってしまう弘晃は、この件についても報告を受けていたようだ。
同じ頃。
その面倒くさい記者は、六条家への強行取材を試みようとしていた。
強行であるからして、当然、訪問の約束などは取り付けていない。しかしながら、六条家の屋敷というのは今どきの個人が東京に所有するにしては広すぎる敷地の真ん中に建てられている。これほど広いなら、どこかに入り込める場所が必ずやあるはずだと、彼は、流行りに乗じて六条家の門前に集まる他の記者たちを出し抜き、屋敷を囲む野性味にあふれた雑木林に入り込んだ。そして、仕掛けられたトラップの数々に心臓が止まりそうになりながら、どうにかこうにか屋敷の裏側にあたる場所にたどり着いた。
ここからなら、誰にも気づかれずに屋敷内にいる人物に近づくことは可能だろう。なに、泥棒に入ろうというのではないのだ、屋敷の外側をぐるりと囲む柵の外側から声をかけて住人に話を聞くだけだ。
そう思いながら一歩足を踏み出した途端、地面は彼を支えることを唐突に放棄した。湿った落ち葉や雑草と一緒に、彼は暗い穴の中に落っこちた。
自力で這い出るには深すぎる落とし穴の中で途方に暮れる彼を見つけたのは、紅子、そして、これより少し前に葛笠と弘晃が話題にしていたかつての『オババさま』――― 今はスエと呼ばれている老婆だった。