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他には何も望まない  作者: 風花てい(koharu)
18/28

幸運な災難 6

「葛笠、そろそろ……」

「え、まだ早くないですか?」


 夕方、源一郎から声をかけられた葛笠が腕時計を確認すれば、まだ午後3時半だった。


 週刊誌で報道されて以来、六条家の娘たちの周りが不穏だ。なかでも、六条と共犯関係にあるのではないかと疑われている笹倉商会でアルバイトをしている紅子は、格好の取材対象だと思われている。わずらわしくも無礼な記者どもが紅子を不用意に傷つけたりしやしないかと源一郎は気が気でなく、アルバイトの終了時間の数時間も前から彼女を迎えに行かせようと葛笠を何度もせっつくのが、ここのところの恒例となっている。


「まあ、確かに早いとは思うんだがな」

 だけど、車が大渋滞にはまることだってあるかもしれない。もしかしたら、今日に限って紅子の仕事が就業時間よりも早くに終わるかもしれないと、源一郎が、とにかくうるさい。

「葛笠。行ってやってくれるかな? それは僕がやっておくから」

 しつこい父親にうんざりした和臣が、仕掛かりの仕事を苦笑しながら引き受けてくれた。秘書室長とその他大勢の秘書たちも、「社長が仕事にならないから、とっとと行ってこい」と、彼をフロアから追い出そうとする。そのくせ、「忙しいんだから、紅子さまを家にお届けしたら、すぐに戻ってこいよ」と、釘を刺すことだけは忘れない。

「鬼だ……」

 恨めし気につぶやく葛笠に、事務仕事に飽きてきたらしい冬樹だけが、「なんなら俺が行ってこようか?」と、優しげな言葉をかけてくれた。だが、たとえわずかな時間とはいえ、女性に対して狼になりかねない冬樹と紅子とを車の中で二人きりにさせるなど、言語道断だ。葛笠は、まだ源一郎に殺されたくはない。「却下だ!」と、フロアにいる全員が声を上げた。


「俺がせっかく親切で言っているのに、なんでだよ?!」

 冬樹が皆に突っかかっている隙に、葛笠は会社を出た。



**

 


 それから、1時間と少し後。

 葛笠は、時代がかった笹倉商会のビルの目の前で車を止めた。


(建物の角にひとり。ショーウインドウの前に2人。街路樹の陰にもひとり……いや、あちらの木の陰にいる人も、そうだろうな)


 片側しかない視野を補うように葛笠が大きく首を巡らせば、今日もまた、用事もなさそうなのに建物の周辺をウロウロしている複数の大人が確認できた。

 紅子を送り迎えするようになってから度々見かけるようになった彼らは、おそらく報道関係者だ。彼らのほうでも葛笠の顔も覚えているようで、わざとらしく顔を背けているくせに、こちらの様子を探っている気配がひしひしと伝わってくる。


 彼らは、すでに紅子と徹の仲をふたりから直接聞き出すことを諦めているようだ。これだけ探りまくって何も出なかったのだから、ふたりの縁談が噂にすぎないことを彼らも認めるほかないのだろう。それでも、いまだにここに居残っているのは、笹倉と六条の親密ぶりを想像させるようなシャッターチャンスや疑惑を深めるような噂のようなものを手に入れるためなのか。


(結局、ただの印象操作でしかないんだろうな)

 そんな無駄なことに時間と労力を費やすのなら、その時間を葛笠に分けてほしいものである。とはいえ、彼とて、記者たちが紅子やこの場に執着する理由がわからないわけでもない。


 巨万の富を築き上げた過程が不透明な六条。そして、高所得者相手に高級品ばかりを扱ってきた笹倉。

 叩けばモクモクとホコリが立ちそうな胡散臭さを醸し出しているこの両者が、なんとセットで、珍しくマスコミにつけ入られる隙を見せたのだ。この機会を最大限に利用してみせるのが、正しいゴシップ記者というものなのであろう。それに、六条姉妹は美人ぞろいだから、被写体としても大変魅力的だ。ハイエナ記者たちにしてみれば、時給千円足らずのアルバイトに行くために毎日車で送迎してもらっている紅子など、自分たちの餌食になるために目の前でネギを背負って歌っているカモにしか思えないに違いない。しかも、このカモときたら、しっかりしているようでいて、実はけっこう抜けている。だから、葛笠も彼女の父や兄も心配でしかたがない。


(だいたい、記者がいなければ、そもそも送迎の必要がないんだよ)

 大金持ちとはいえ、六条家は子沢山だから、紅子も他の娘たちも割合に気軽に公共の交通機関を利用してきた。運転手つきの車がなければどこにもいけないほど過保護には育てられていない。現在の紅子の行動をいかにも金持ち仕様に制限しているのは、そんな彼女に非難がましい視線を向けているあの記者たちだ。彼らが紅子を付け回すのからいけないのだ。


(できることなら紅子をマスコミの目の届かないところに隠してしまいたいというのが、社長の本音だろうな)

 そして、それは葛笠の本音でもある。しかしながら、どうして紅子にアルバイトを辞めろなどと言えるだろうか。六条源一郎の娘であるという理由だけで、まともな就職活動すらできなかった紅子は、自分自身の価値に不安を持っていた。あの子にしてみれば、笹倉でのアルバイトは、ようやく手に入れた『自分でも役に立つ場所』なのだ。それを根も葉もない噂のせいで失うようなことになったら、それこそ彼女が可哀想だ。


 かくなるうえは絶対に奴らを喜ばせてやるものかと、葛笠は決意した。

 そういう意味では、葛笠は紅子の送迎役に打ってつけだろう。黒のお仕着せを着た六条家の運転手によってリムジンで送り迎えされるお嬢様の写真を望んでいるゴシップ記者にしてみれば、チンケな青い自家用車で迎えにきた下っ端秘書は目障りな存在でしかあるまい。つまり、葛笠の送迎は、源一郎にできるせめてもの嫌がらせであったわけだ。ざまあみろ。


(しかも、この男というのが、顔に傷を持つ、片目と片足が不自由な強面の男だというのだから、まるで美女と野獣…… いや、まてよ? そんな怪しげな風体の男を雇っていること自体、六条にとって良くないんじゃないか? 俺が迎えに行ったことで、紅子の評判を落としたりしないか?)


 時間に余裕がありすぎて葛笠が余計な心配をし始めた頃、仕事を終えた紅子が笹倉商会のビルの中から現れた。


 葛笠は、即座に気を引き締めると車を降り、六条家三女の夫である梅宮要の茅蜩館ホテル仕込みのスマートな所作を思い出しながら、紅子のためにドアを開けた。

 紅子は紅子で、彼女を遠巻きに見守る記者たちの前でわずかな隙すら見せまいと決めているようだ。柔らかく涼やかな表情を顔に貼り付け、滑るような足取りで車内に滑り込んできた。そして、あっけらかんとした口調で、葛笠にこう報告した。


「アルバイト、やめてきちゃった」



***



「は? 辞めた?!」

「うん」

「馬鹿! なんでそんなことをしたんだ!」


 雇い主の令嬢だろうがなんだろうが知ったことではない。ついでに自分たちを遠くから見張っているであろう記者たちのことも忘れて、葛笠は振り向きざまに紅子を怒鳴りつけた。


「だってぇ……」

「だって、じゃない」


 葛笠は、彼が座る運転席の背後に隠れようとする紅子の首根っこを捕まえると、こちらに顔を向けさせた。


「どうして辞めた? 辞めたかったわけじゃないだろう?」

「だって、そのほうがいいと思ったんだもん」

「質問の答えになってない」


 むしろ、辞めたくなかったと言っているようなものだ。葛笠は車のエンジンを切るとドアを開けた。今のうちに辞意を取り消せば、紅子は辞めなくてすむかもしれない。


「ほら、戻るぞ」

「やだ!」


 外に出ようとする葛笠の袖を紅子が捕まえる。


「私、行かない」

「でもな。紅子」

「行かないったら、行かないの!」


 笹倉社長は辞めたいという紅子を引き留めてくれたし、彼女が辞める理由にも納得しなかったそうだ。それどころか、徹と紅子が止めなければ、外で見張っている記者たちに怒鳴り込みに行きかねなかったという。


「嬉しかったの。だから、それで充分だと思ったの。これ以上迷惑かけたくないの」


 だから、行かない。このまま帰る。うつむいたまま首を振る紅子の声はわずかに震えていて、葛笠まで胸が苦しくなってきた。慰めてやりたかったが、上手い言葉が見つからない。言葉が出ないまま、葛笠は彼の袖を握っている紅子の小さな手にそっと触れた。


「わかった。帰ろう。な?」

「……うん」

 できるだけ優しく葛笠が語りかけると、紅子が、顔を上げぬままうなずいた。


「だが、その前に。一言でいい。あいつらに文句を言うのもだめか?」

「だめ。喜ばせるだけだから」

「……。確かに、そうだな」


 抗議したところで余計に面倒なことになるのは、すでに学習済みだ。それに、ここで葛笠が記者たちに食ってかかることで、紅子がアルバイトを辞めたことを知られたとする。すると、彼らは、「ほ~ら、やはり後ろ暗いことがあるのだ」と自分たちの都合の良いように解釈するのだろう。なにをやっても裏目に出るような気しかしない、


 葛笠は座り直すと、車を発進させた。

 家に戻るまでのあいだ、紅子はずっと下を向いていた。

 

 いつものように、「ケーキでも買ってやろうか?」という軽口さえ、彼は言えなかった。


 



****



 紅子を連れて六条家に戻ると、朱音が玄関から飛び出してきた。

 年甲斐なとどいうものを考えたことのない朱音の今日の服装は、袖なしの赤いワンピース。自分よりも小柄で幼げな格好をした母親の姿を遠目に認めるなり、紅子は駆け出していった。


「紅ちゃん。おかえりなさい!」

 全速力で突進してきた娘を、両手を大きく広げた朱音が受け止めた。紅子は「ただいま」と応じたようだが、葛笠の耳には「ふええええん!」としか聞こえなかった。


「うんうん。大変だったのね。紅ちゃんは、すごおおく頑張ったのね。偉かったね。葛笠さん。迎えに行ってくれて、どうもありがとう」

 泣きじゃくっている紅子の背中をよしよしと撫でながら、朱音が葛笠をねぎらってくれた。「源一郎さんには言っておいたから、今日は会社に戻らなくてもいいわよ」と促されて、勝手知ったる母娘の居間にお邪魔すれば、世話係の老女のタキとスエが、葛笠が買ってやりそびれたケーキや紅子の好物をテーブルの上に隙間なく並べて待ちかまえていた。


 鼻をぐずぐず言わせながらも、紅子は、よく食べ、よく話し、そして、よく怒った。おかげで、葛笠は、黙って茶を飲んでいるだけなのに今日の紅子の行動の一部始終どころか、彼女の最近の心情までかなり詳しく知ることができた。朱音は紅子の言うことに口を挟むことなく、いちいち全力で相づちを打っていた。紅子は、もともと根に持たない性格をしているから、腹の中にためたいた怒りをぶちまけると、かなり落ち着いたようだった。逆に、紅子の話を聞いているうちに取り乱したのは、スエだった。


 神よ! 大事な大事な紅子嬢ちゃまを傷つけた愚かな者どもに、天罰を! 


 スエは、全身全霊でそう願おうとしたようだ。だが、人を呪うような愚かなことを朱音とタキが許すはずもない。ふたりから叱られてしょげてしまったスエを慰めたのは、それなりに立ち直った紅子だった。

「怒ってくれて、ありがとう。私は、もう大丈夫よ。だから、天罰なんて願わないでね」

 優しくされて感激しているスエに小首を傾げて微笑みかけると、紅子は、仲良しの妹たちにお裾分けするためにテーブルに残った菓子を大きな皿に大盛りに盛り直して、部屋を出て行った。


***


 紅子が姉妹がたまり場にしているの3階の部屋までたどり着いたことは、夕紀のピアノの音が唐突に途切れたことから知ることができた。泣き止んではいるとはいえ、目や鼻を真っ赤に腫らした紅子の顔を見た妹たちは、かなり動揺したことだろう。葛笠の感度のいい耳は、夕紀がピアノを弾くのを止めたのとほぼ同時に、同じ部屋にいたのであろう月子が「紅子姉さま、どうなさったの?!」と叫ぶ声も聞き取っていた。


 紅子が近くにいないことを確信すると、葛笠は詰問口調で朱音に問いかけた。


「朱音さま。こうなることが、わかっていらっしゃいましたね?」

「……まあ。そうね」

 朱音は、否定しなかった。それはそうだろう。言葉で誤魔化したところで、紅子がやけ食いし夕紀たちと分けるために持っていってもなおテーブルの上に残っている大量の菓子は、誤魔化しようがない。


「だったら……」

「『だったら』、こうなる前に、紅ちゃんにアルバイトを辞めるように言ったらよかったの?」

 朱音が拗ねたように口を尖らせた。


「紅ちゃんが何もしないうちから、私が『辞めなさい』って言うの? 言って良かったの?」

「言えませんね」

 葛笠も源一郎も、紅子にアルバイトを辞めろとは言えなかった。


「すみません。今の質問は、なかったことにしてください」

 葛笠はうなだれるように頭を下げた。それでも、どうにも気持ちが収まない。「でも、なにかしら紅子さまの気が楽になるような手とか言葉がけとか、あらかじめできることがあったんじゃないかとも思うんですが」と朱音に対して厭味ったらしい口調で食い下がらずにはいられなかった。


「うん。だから、葛笠さんにお迎えに行ってもらったのよ」

 自分が源一郎さんに頼んでやったのだと、朱音が得意げに胸を張る。だが、それが何だというのだろう? 迎えに行っても落ち込む紅子に気の利いた言葉ひとつかけられなかった葛笠よりも、家で待っていた朱音のほうが、よほど役に立っていたではないか。

 

 困惑と失望がない交ぜになった顔をする葛笠に、なぜか朱音が苛立った。


「ああ、もう! どうして、この人は、こんなにこーんなに鈍いのかしら?」

「この件以外のことであれば、頭も勘も存分に働く御方ですのにねえ……」

「そのような呪いがかかっている、あるいは大いなる力の干渉があるのやもしれませぬな。でなければ、ここまで鈍い理由がわかりませぬ」

 手足をバタバタさせながらぶつくさ言っている朱音に同調した老婆ふたりが、葛笠に対して呆れたような哀れむような視線を向けてくる。


「よくわかりませんけど、なんか……すみません」

「わかんないなら、謝らないの! もういいわ。あんまり余計なことを言って、なるようにならなくなったら困るから」

 どこまでも理解しがたいことを言いながら、朱音が葛笠を理不尽に責めるのを止めた。


「話を戻すとね。紅ちゃんは可哀想だったけど、今のうちに辞めてよかったのよ」

「え? まだ何かあるんですか?」

「私が言わなくたって、葛笠さんも予想がついているのでしょう?」

 げんなりする葛笠に向かって顔を突き出した朱音が、にんまりと口角を上げた。


「紅ちゃんも心配していたけど、まず、夕紀ちゃんがコンクールで弾く曲が他の人と比べると、そこまで難しくないっていう問題があるでしょ。それから、音楽と港の街のお仕事も決まる」

「ええ」


 浪浜市の中心市街地の再開発は、六条建設が全体を仕切ることで、ほぼ決定だと思われた。根拠を言えば長くもくどくもなるが、一言でまとめてしまうと、六条は、どういうわけだか浪浜の人々とあの街を企業城下町たらしめている山河楽器に信頼されているどころか異常に好かれているからだ。もちろん、公共物の新設を多く含む事業なので、これから落札しなくてはいけない案件は幾つもある。メインの建造物となる音楽大ホールとその周辺の開発については、六条よりもずっと規模が大きい幾つもの建築会社が狙っているから、受注は難しいかもしれない。


 それでも、再開発に先行……あるいは後追いして市内の私立音楽大学や山河楽器が計画している工事の多くは、口約束めいたものも含めて、その多くを六条が引き受けることになっている。現在の葛笠はいつにも増して馬鹿みたいに忙しいのは、そのせいだ。 


 もしも、コンクールの不正疑惑が払拭されないうちに、浪浜市における六条の奇妙なモテモテぶりにマスコミが気づいたら、彼らはなんと書くだろう?

 そんなことを想像しただけで、葛笠は胃が痛くなってくる。


「風向きは、もう変わらない。だったら、覚悟を決めなくちゃね。ああ。それから……」

「え? まだ、あるんですか?」

「そんなに嫌そうな顔をしちゃダメ。それにね、こっちは、それほど騒ぎにならない……かな。うん。ならない」

 葛笠を励ますように、朱音がコクコクとうなずく。

「ならないけど、こっちのほうが面倒くさいことになりそう。一部の人たちにとって、ものすごく食いつきのよい話題らしいから」

「やめてくださいよ」

 彼女が言うと洒落にならない。葛笠は思わず両耳をふさいだ。



 だが、耳をふさいだところで、朱音のいうところの『風向き』が変わるわけもない。


 それから十日も経たぬうちに、紅子が心配していたとおり、夕紀のコンクールでの選曲が問題視されはじめた。


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