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他には何も望まない  作者: 風花てい(koharu)
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幸運な災難 5


 『(前略)六条家が国内有数の資産家であることは広く知られている。だが、その実体を詳しく知る人は、どれほどいるだろうか? そもそも、当主である六条源一郎からして謎多き人物である。目の覚めるような美少年であったという彼が、桐生喬久と出会うまでにどこでどのような暮らしをしていたのか、本人も多くを語ろうとはしない。


 ちなみに、桐生喬久とは、主に戦後に活躍した人物である。彼は、旧華族の一員であったゆえにかつての支配階級にあった人々との繋がりが強く、欧州留学などの経験から当時の日本人らしからぬ考え方や視野の広い世界観を有していていた。複数の言語を自在に操ることができた桐生は、戦後GHQとの折衝役としておおいに頼りにされた。彼と国内外の有力者との繋がりが広く強固になるにつれ、政財界における彼の影響力は大きくなっていった。


 とある事件に巻き込まれた桐生が昭和26年の冬に亡くなるやいなや、六条源一郎は、桐生が遺した豊かな人脈を自分の欲望のために積極的に活用するようになったという。彼は、桐生の名を使って大物政治家や大企業の経営者の懐に入り込み、公平とは言いがたい手段によって自身が経営する企業に大きな取引を優先的に回してもらうことに成功し巨万の富を手に入れたようだ。不当な手段で仕事を手に入れる以上、それだけのことをしてもらうだけの充分な見返りを六条源一郎が提示したであろうことは、想像に難くない。(後略)』




「『ーーーー六条源一郎とは、いわば、戦後の経済成長のゆがみが産んだ化け物である。その化け物は、戦後の闇に巣くい、市井の人々の苦しみや悲しみを糧にぶくぶくと肥え太っていった』ですって」


 発売されたばかりの女性週刊誌を手に久しぶりに実家にやってきた紫乃は、これは報道ではなくポエムだと記事を腐した。


 成り上がりの六条家に対するイメージを少しでも良くするために子供の頃から淑女の鑑として振る舞うことを自らに強いてきた彼女にとって、このような無責任な記事を掲載する雑誌など唾棄すべきものでしかないだろう。しかしながら、彼女は、淑女であるがゆえに、文字が書かれた物を粗略にするような不作法ができなかったようだ。それに、どのような時であろうとはしたない振る舞いは、息子の教育によろしくない。現在紅子の腕の中でまどろんでいる幼子は、まだ何もわからない赤ん坊かもしれない。だが、紫乃には、この子を旧中村財閥本家の名に恥じない紳士に育て上げる責任がある。それに、さすが弘晃の子供というべきか、この子は時々大人の話をすべてわかっているのではないかと疑いたくなるような聡明さを見せる時があるから、母としては油断ができないのだ。

 紫乃は、刺激的な色と扇情的な言葉で飾り立てられた雑誌の表紙をしばらく睨み付けた後、それをぞうきんのように絞ったり床に叩きつけたりすることを諦めて、目の前のテーブルに積み上げられた数冊の、六条家について似たり寄ったりの記事が掲載されている雑誌の束の一番上に静かに乗せた。


「とにかく、こんな記事は馬鹿げているわ。『言われている』とか『想像に難くない』とかばかり。噂話を寄せ集めて書きましたと、自分から告白しているようなものじゃないの」 

 怒りが収まらない紫乃がこき下ろす。紅子も姉と同じ意見だ。紅子や夕紀は、先に入学した紫乃のおかげで、彼女がされたような残酷で執拗ないじめを受けたことがない。だが、そんな紅子とて、成り上がりの六条家を快く思わない一部の学友たちからの悪意と無縁ではなかった。この雑誌に書かれていることは、あの子たちが叩いていた陰口とさして変わらない。

「だからね、あなたたちは、全然気にすることないのよ」

 紫乃は妹たちに優しく言い聞かせると、雑誌を乗せたテーブルを挟んで足を組んで座る和臣に「だけど、こういう記事って、事前に差し止められないものなの?」と厳しい口調でたずねた。


「止めるとは、どうやってですか?」

 和臣が、姉を馬鹿にするように片眉を上げる。

「どうって……その…… 例えば、お父さまの権力みたいなものとか、そういうものでよ」

「やだなあ、姉さん。父さんがそんなことをしたら、それこそ、彼がこの国を裏から操ったり、権力を嵩に市民の知る権利を脅かしたりする悪の権化であることを、世間に証明するようなものじゃないですか」

「そ、そうかもしれないけど。でも、こんなのひどいわ」

「そうだね。僕も姉さんの気持ちはわかるよ」

 清廉潔白を旨とする紫乃がうろたえたり悔しがったりするさまを数秒間楽しげに観察した後、和臣がため息混じりにうなずいた。


「それにね。僕たちにせよ、なにもしなかったわけじゃないんだ」

「あら?」

「ええ。私たちは、かえる色のストラップの記者だがカメラマンのことを止めようとしてみたんです」

 出入り口近くの丸椅子に腰を下ろしている葛笠が、意外そうな顔をしている紫乃にうなずいた。


 自分にしか感心がなかった頃の冬樹の記憶力など、底が抜けた鍋よりも当てにできない。だが、彼のかつての秘書は違う。失脚した冬樹のとばっちりを受けた武里リゾートの元秘書は、現在、橘乃夫妻がオーナーを務める茅蜩館ホテルに出向している。葛笠が連絡を取ると、優秀で几帳面な元秘書は、記者が属する出版社も、冬樹の記事が載った雑誌の名もすぐに思い出してくれた。そこは、冬樹の話から葛笠たちが想像したいたよりも、ずっと大手の出版社だった。記事が掲載されようとしていた週刊誌にせよ、ゴシップめいたものも載せているとはいえ、世間からは、比較的に硬派で信頼度の高い雑誌として認識されている。


 出版社への申し入れは、源一郎がしてくれたそうだ。源一郎が暴走することを恐れて、和臣や葛笠どころか秘書室長の佐々木までもが彼に同行したが、3人が3人とも源一郎が終始『極めて紳士的な物言い』をしていたことを認めざるを得なかった。声を荒げることもしなければ、札束で相手の頬を叩いて懐柔するようなこともしていない。相手に圧力と誤解されるような発言も、一切なかった。


「僕らにとって幸運だったのは、応対してくれた編集長も後から現れた出版社の社長も、良い意味でも悪い意味でも、常識的かつ打算的だったことだ」

 彼らは、噂話と憶測だらけの記事ごときで六条源一郎を敵に回すのは得策でないことを承知していた。『事実無根』を理由に訴えられれば自分たちが不利となることを懸念してもいた。なにより、彼らは、その記事のお粗末さを自覚していた。突っ込まれても弁明のしようがない記事を守るために必死になるのは馬鹿げている。そう判断したからこそ、彼らは、記事を取り下げることを約束してくれたのだ。


「そもそも、カエルの記者本人が、急いで記事にすることを渋っていたようなんだ。まだまだ取材が必要だと感じていたらしい」

「取材不足というのは、六条家の? それとも……」

「山河のピアノコンクールについての取材だよ」

 和臣が月子に答えた。「彼のターゲットは、はじめから、そちらだったようだね。コンクールの不正を疑いながら取材を進めていく過程で、成り上がりの六条家の娘が予備審査を通過したことを知った。そして、夕紀は、入賞どころか今まで一度もコンクールと名のつくものに出たことがない。『これは、いかにも怪しい』と、彼は特ダネの予感に胸を躍らせたというわけ」


「それに加えて」

 葛笠が和臣の話を引き継いだ。「夕紀さまが予備審査に通った頃と時期を同じくして、第1回目からコンクールの後援を続けてきた笹倉商会の後継者と六条家の令嬢との婚約の噂が広まりました」

 自分のことが話題に上がったこと気がついて、紅子は顔を上げた。彼女の緊張が伝わったのか、腕の中の紫乃の息子が、むずがるような声を上げた。

 

「実際は、婚約ではなく、紅子さまが笹倉商会でアルバイトをなさっていただけですが」

「うん。徹さんとの仲を誤解されるようなことだってしていないわ」

 紅子はムキになって訴えた。話の内容などわかっていないだろうが、膝の上の赤ん坊が彼女に同意するように体を大きく縦に揺らした。とはいえ、婚約だろうとアルバイトだろうと、赤ん坊が味方についてくれようと、紅子が最悪なタイミングで笹倉に接近したという事実に変わりはない。  

「なるほど。カエルの記者さんにしてみれば、なにかしらの不正が隠れているのではないかと疑いたくもなるでしょうね」

 紫乃がこめかみを押さえた。

「ずいぶん時間をかけて取材しているみたいだったよ。記事そのものは見せてもらってないけれども、彼の話を聞く限り、言い古された『六条家の闇』みたいなことに貴重な文字数を使う気はないようだった」

 和臣の言葉に、葛笠が同意の相槌を打つ。


 記者には、記事にするだけの確信のようなものが足りていなかった。だから、今回の記事は、むしろこちらから喜んで取り下げる。けれども、取材を止めるつもりはない。記者は、源一郎に言ったそうだ。

「そして、記者が納得できる記事にすることができた暁には、どこから横やりが入ろうと、社運をかけて掲載すると、編集長どころか出版社の社長さんまで、父さんと僕たちに啖呵を切ってくれたよ。そんな彼らを、僕は格好いいと思った」

「そうね」 

 紫乃が表情を和ませた。……と思ったら、急に戸惑った様子を見せ、「あら? じゃあ?」と言いながら、目の前にある数冊のゴシップ誌の誌名と出版社を確認し始めた。


「うん。だから、カエル色のストラップの記者が書いた記事も、それが掲載される予定だった雑誌もここにはないよ。普通に考えれば、ここにある雑誌の記事は、もっと以前から準備されていたものだろう。だけど、これは、その……」

 言いづらいことでもあるのか、和臣が葛笠と顔を見合わせた。葛笠は、なぜか何も言わないうちから、「すみません」と、陰鬱な声で皆に謝った。


「どうしたの?」

「つまり、その……」

 和臣が雑誌のひとつを引き寄せた。

「父さんが自分の息子やら片腕やらを引き連れて出版社に乗り込んだことを知った人々……、つまり、その他の出版社や記者たちが、いわくありげな経営者として名を知られる六条源一郎による、言論への多大なる『圧力』を感じたらしくてね」

「印刷所に持ち込まれるばかりだった記事が、六条源一郎の訪問によって直前で差し変えられた。そんな圧力をかける六条には、カエルの記者こと梶井純壱氏に探られると困るような後ろ暗いことがあるに違いない。そう思われてしまったようです」

「闇の権力者を裁く正義の報道って構図は、格好が良いからね。しかも、六条ならば、書くための材料に事欠かない」

「すみません。抗議したせいで、かえって注目度が上がってしまいました」

 和臣が肩をすくめる。堅苦しい表情を浮かべた葛笠も再び頭を下げた。


 彼らは、ここに積み上げられたゴシップ雑誌の記事のほどんどは、とにかく騒ぎを煽るために、取材すらせずに、カエルの記者の動向と六条家についての聞きかじりの噂話を駆使して即興で書き上げた可能性が高いと考えているようだ。だからこそだろう。これらの記事は、その大部分を六条源一郎が出版社に対して行ったという『圧力』と、六条家そのものの胡散臭さを強調することに費やしている。コンクールの不正については匂わせているだけだ。きっと、いろいろ間に合わなかったのだろうと、葛笠が言う。


「そして、これらの扇情的な記事のおかげで、世間の興味はどうしようもなく六条家に向いてしまうと思われます。ですから、お嬢さま方には、この先、マスコミからの取材攻勢が続くのではないかと…… 本当に、申し訳ございません」

「ごめんなさい。抗議すれば事が収まると思った僕らが軽率でした」

 立ち上がって姉妹に謝罪する葛笠にならって、和臣も深々と頭を下げた。



 それからしばらくの間、紅子たちは、和臣たちが心配したとおりの試練を受けることになった。橘乃の縁談の時の騒ぎをきっかけにセキュリティーを強化したおかげもあって、家の中にいる間は記者の姿を目にすることもないのだが、一歩外に出れば、話は別。紅子についていえば、笹倉商会の御曹司たる徹とのツーショット写真を狙って物陰からじっと彼女の様子をうかがっている者がひとりやふたりでないことは明らかだ。送り迎えを葛笠がしてくれるから危ない目にはあっていないが、自己紹介もせぬまま紅子に馴れ馴れしく話しかけようとする者や、遠くから不躾な質問を投げかけてくる者もいる。ふたりの仲について質問された笹倉の社員も大勢いるようだ。紅子と夕紀の共通の友人数名にも、記者と名乗る者から自宅に電話がかかってきたという。和臣や徹の友人も迷惑を被っている。もっとも、ふたりとも彼のことは心配していないようで、「傍若無人なあいつの彼女に比べたら、こんなのは迷惑のうちに入ってないだろう」と笑っている。


 短気な巌社長は、自分の周りをコソコソと嗅ぎ回られることに相当苛ついており、「夕紀くんのピアノの腕前なら、私が保証してくれるわ! あれだけ弾くことができるというのに、裏から手を回す必要ながどこにあるというんだ!」と、定期的に癇癪を起こしている。悲しいことに、彼のこの発言は、うがった形の噂となって巷に伝わったようだ。いや、もしかしたら、意図的にゆがめられたのかもしれない。8月の末ごろ発売された某週刊誌には、『裏取引か? 笹倉商会社長、六条家令嬢のコンクール事前審査通過を内々に確約していた?!』というタイトルのスクープが掲載された。もちろん、巌社長は烈火のごとくに怒り狂った。出版社に怒鳴り込みに行きかねない父を止めるために、徹は体力と気力を使い切らなければならなかった。



「おつかれさま」

 ひとまず父親を監視付きで社長室に閉じ込めることに成功し、自席でぐったりしている徹に紅子は紅茶を入れてやった。アッサムをベースに果皮やハーブで品良く香りづけした笹倉オリジナルのフレーバーティーだ。


「大丈夫?」

「まあな。紅子こそ、大丈夫なのか?」

 こちらを見た徹が眉間にシワを寄せる。紅子は苦笑しながら「まあなんとか」と答えたものの、実をいえば全然大丈夫ではなかった。気持ちはベコベコにヘコんでいる。巌社長を激怒させた記事には、「『六条夕紀のピアノの実力は充分ではないが、コンクールの審査員たちは彼女を歓迎するだろうと巌社長が語るのを聞いた』と六条家の関係者が語っていた」とも書かれていたからだった。

 たしかに、巌社長は六条家を訪れた時に、そのようなことを言った。しかしながら、彼は、この記事から読者が邪推するような意味のことを言ったのではない。あれは、『夕紀には入賞するほどの実力はないかもしれない。だが、ある程度まで予選を勝ち進めるだけの力はあるあ』という意味合いの発言だった。それに、彼は、夕紀が『誰よりもコンクールに』歓迎される演奏者になるだろうと言ったのだ。『審査員に』ではない。もっとも、コンクールで夕紀のピアノを評価するのは審査員だから、嘘は書いていないということになるのだろうが。


 最悪なことに、この話をアルバイトの休憩中にしたのは紅子だった。つまり、この記事の《六条家の関係者》とは紅子のことである。この話を記者にした社員も明らかになっている。なぜなら、彼女のほうから紅子に謝りにきてくれたからだ。その社員にせよ、笹倉社長や六条家の汚名を払拭しようとしたのであって、「誓って、こんなふうに受け取られるような言い方はしていない」と主張している。


「夕紀ちゃんに慰められちゃった」

 濡れ衣を着せられ一番嫌な思いをしているのは自分であるはずなのに、夕紀は落ち込む紅子を一生懸命元気づけてくれた。あれだけコンクールに出場することを嫌がっていたというのに、「私、頑張って、ちゃんと弾くから」と紅子に言ってくれた。その後の夕紀は、鬼気迫る勢いで練習に励んでいる。極めて脳天気な紅子の母親は、「おかしな記事が出て、かえって良かったわね」などとほざいている。そして、極めて悲観的な夕紀の母親は、「ほら、言わんこっちゃない」とばかりに夕紀のコンクール出場を非難した。


「まあ、非難されたおかげで、更にやる気に火が付いたみたいだけどね。夕紀ちゃん、実は負けず嫌いだから」

「ああ。彼女には、そんなところがあるな」

 徹の表情が和む。だが、すぐに、もとの浮かない表情に戻って、「だがなあ」とつぶやいいた。


「こんなことは言いたくはないが、疑いを晴らすのは、そう簡単ではないようだぞ」

「うん。それは、夕紀ちゃんからも聞かされてる」

 

 難易度が足りない。夕紀はそう言っていた。


 夕紀が出場しようとしているのは、これを足がかりに世界を目指そうとする野心にあふれた優秀なピアニストが集結するコンクールである。そこで勝つために……他の誰よりも優れているとアピールするにはどうしたらよいか? そう考えた時に出場者の誰もがまず思いつくのは、とびきり難しい曲を弾いてみせることだろう。1次審査のためにひとりに与えられる時間は、25分。夕紀と同じ大学からコンクールに出場する者の多くは、この限られた時間に、いわゆる超絶技巧曲と呼ばれている作品を、少なくとも一曲は弾くつもりでいるという。


 一方、担当教授から「とにかく一度ぐらい、人前で弾いてこい」と厳命された夕紀は、そもそも勝つことに無頓着だった。それどころか、彼女を買ってくれている教授の面子を潰さない形で、すみやかに予選落ちしてしまいたいと思っているようでもある。だから、夕紀は、勝つための選曲はしていない。コンクールの募集要綱を熟読し、大会の趣旨や予選ごとの課題の条件を真面目に見当した結果、特に1次予選の選曲が、闘争心に乏しい曲ばかりになってしまったそうだ。


「変更は、もうできないんだろうな」

「うん。通過するしないに関わらず、本選で弾く予定の曲まで申告してしまっているから、このままいくしかないって」

 たとえ、変更できたとしても、今からでは間に合わないかもしれない。中途半端なものを聴かせるぐらいならば、このままのほうが余程ましだろうとも、夕紀は言っていた。 


(夕紀ちゃんは、大丈夫だって、言ってくれているけど……)


 コンクールのための各自の選曲は秘密でもなんでもない。六条家の敷地は広いうえ警備が厳しくなったので、記者たちが夕紀のピアノを聴くことは難しいかもしれないが、コンクールへの出場が決まってからも、夕紀は、たびたび窓を全開にしてピアノの練習をしていた。いや、わざわざ六条家で探らなくても、夕紀の課題曲ならば、彼女の学友から簡単に聞き出せるに違いない。

 

 早晩、夕紀の選曲は記事のネタにされるだろう。普通なら考えられない選曲ゆえに夕紀のピアノの技術は低く見積もられ、それを根拠に、コンクールへの不正出場の疑惑がより深まったとして、今よりも多くの雑誌の記者が押し寄せることになるのかもしれない。いや、今度は雑誌だけではなく新聞やテレビの報道関係者もやってくるかもしれない。

 

(そこまで心配する必要はないのかもしれないけど……)

 

 笹倉でアルバイトをしている紅子を、マスコミは、六条家と笹倉家の繋がりを象徴する存在として見ているに違いない。彼らにとって、今の紅子は、目に見える不正の証拠みたいなものだ。紅子がここにいるせいで、笹倉社長や徹だけでなく、この会社の社員たちにも迷惑がかかる。


(だから、もう、ここにいたら、いけない)


「お世話になりました」


 当初の約束だった9月の中旬を迎える前に、紅子は自分からアルバイトを辞めた。




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