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他には何も望まない  作者: 風花てい(koharu)
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幸運な災難 4


 笹倉巌は、紅子の問いを言下に否定した。


 紅子にアルバイトを頼んだのは、昨年度まで手伝ってくれていたアルバイトの学生が大学を卒業してしまったからだ。笹倉商会は、その学生の代わりとなる人材を探しているところだった。「紅子ちゃんならば、適任だと思った」とも「予想以上だった」とも、巌は言っていた。ついでに、「徹の嫁にくれるなら、大歓迎なんだが」とも言って、源一郎と徹の双方からひんしゅくを買ってもいた。『徹の嫁』云々はさておき、自分の働きぶりを誉めらて照れたように笑っている紅子を見て、葛笠もホッとした気分になった。


 紅子は、その後も週に3日ほどのペースで笹倉に通っている。仕事は楽しいらしい。夜遅くに帰ってくる葛笠を数日おきに待ち伏せることまでして、仕事中にあったことなどを報告してくれもする。夏休みに入ってからの彼女は、事務仕事の補佐に加えて本社の2階にあるショールームでの店番のようなこともさせてもらえるようになったそうだ。おかげで、葛笠が彼女から聞かせてもらえる話の量も増えた。それから、時間を費やすばかりで一向に成果の出ない就職活動を休止したせいか、ここのところ少しばかり疎遠になっていた夕紀と過ごす時間も増えたとも、紅子が言っていた。一番の仲良しが近くにいてくれることで安心したのか、コンクールへの出場が決定してからずっと顔色がさえなかった夕紀も、元気を取り戻したようである。


 なにはともあれ、紅子に笑顔が増えたことは、葛笠にとっても喜ばしいことだった。『あの六条家の娘』だというだけで一般的な就職活動から閉め出されていた彼女は、一時期かなりふさぎこんでいた。葛笠自身も就職するまでに苦労しただけに、あの頃の彼女は可哀そうで見ていられなかった。

「よかったな」と葛笠が言うと、紅子は本当に嬉しそうにうなずいた。その笑顔に引き込まれるようについ伸ばした手を、葛笠は、慌てて引っ込めた。危ない危ない。うっかり頭を撫でたりしたら、また紅子から「いつまでも子供扱いしないでほしい」と怒られてしまう。行き場を失った左手を持て余しながら、葛笠は「うん、よかった。ともかくよかった」と繰り返した。


「ありがとう。もっとも、卒業後の進路が決まってないことに変わりはないのよね」

 それでも、笹倉で働かせてもらったことで、紅子自身が『普通の就職』にこだわりすぎていたり、父親の影響力を無闇に怖がりすぎていたりしたことに気がつけた。以前に葛笠が指摘してくれたおかげだと、紅子が礼を言ってくれた。自分の将来について源一郎と話し合うことも決めたようだ。


「だから、もう大丈夫」

「そうか」

「うん。それにね。笹倉のおじさまに利用されてようといまいと、もうどっちでもいいかなって」

「まだ疑っているのか」

「ううん。笹倉のおじさまのことは、もう疑っていないわ。思ったことをそのまま口にしてしまうような方だもの。おじさまが『ない』とおっしゃるなら『ない』と思うの。でも……」

「そうだな」

 笹倉社長が紅子を利用する気がなくても、笹倉の社員や一族の人間は、六条と笹倉との繋がりについて勝手に憶測を巡らせることだろう。

「そういうのをね。もう気にしないことにしたの」

 気にし始めるとキリがないからと、紅子が笑う。だが、吹っ切れたようなことを言っているわりには、彼女の表情には幾分の陰りがあった。



****



「やはり、まだ気にしているのか。というより、あれは、他にも何か気になることがあるような顔だったな。あいつは、妙な勘が働く時があるからなあ。それなのに、勘が鋭いぶんだけどこかがスッポリと抜けていたりするし……」

「なに? 紅子のこと?」

 翌日。出先からの帰りの車中での葛笠の独り言を、和臣が拾う。


「はい、そうなんですけど。あ、いや、すみません。紅子さまのことを『あいつ』呼ばわりしてしまいました!」

「そうだ、そうだ。礼儀がなってないぞ。分をわきまえるがいい!」

「葛笠ならかまわないよ。あの子たちは、昔から彼に世話をかけてばかりいるからね。あ。次の信号を右に」

 我に返ってうろたえる葛笠に隙のない微笑みで応じた和臣は、ここぞとばかりに運転席から囃し立てる冬樹に、さりげない口調で行き先の変更を指示した。


「社に戻るんじゃないのか?」

「和臣さま。まさか、笹倉商会に行くおつもりですか?」

「紅子のことならば、心配していないよ」

 和臣が優雅に首を横に振る。


「同僚の評価は上々。うるさ型の顧客が多い笹倉商会のショールームで働くに足りる礼儀正しさと品の良さを兼ね備えているだけでなく、面倒な客のあしらいも最高だそうだ」

 紅子は、他の者が苦手とするような客を嫌がりにせずに、時々ボケをかましつつ真正面から誠心誠意応対することで、相手の毒気をことごとく無効化しているという。

「……いかにも、紅子さまらしいですね」

「おかげで、昨今の笹倉商会には笑いが絶えないそうだよ」

 和臣は、紅子が葛笠に話してくれた以上のことを知っているようだった。紅子や葛笠から話を聞くだけでは飽き足らず、友人の徹からも話を聞き出したのだろう。 


「そこまでお詳しいのなら、様子など見に行かなくてもよいのではありませんか?」

「あんた、本当にシスコンだよなあ」

 咎めるような葛笠の声に冬樹の笑い声が被さった。


「そういうのは、やめたほうがいいぞ。ロクなことにならないからな」

「そうですよ。過干渉はよくありません。紅子さまが冬樹さんみたいになったら、どうするんですか」

「そうそう。俺みたいになったらどう……って……失礼だな!」

「そうだ。葛笠は、紅子に謝れ」

 そんな軽口を言い合っているうちに、車は、笹倉のビルから見れば、道を隔てた向かい側にあたる路肩に停車した。

 

 過去にはモダンだと評されていたのであろう笹倉のビルは、西洋の石造りの建物を模した4階建てのコンクリート造りの建物で、両隣を十数階のビルに挟まれる今となっては、歴史的な建築遺産の風情がある。

 ビルの1階は店舗になっており、笹倉商会が扱っている外国製の珍しい菓子や酒類などを買うことができる。遠方からわざわざやってくる者や、ここからさして遠くない場所にある東京タワーでの観光ついでに、この店に立ち寄る者も多いそうだ。入店せずに腰高のショーウィンドーにバランス良く積み上げられたカラフルな菓子の箱を眺めているだけでも時間がつぶせるので、待ち合わせなどに利用されがちな場所でもある。とはいえ、紅子が働いているショールームは2階だ。なにかと見ごたえのあるビルとはいえ、路肩に止めた車の中からどれだけ目をこらしたところで彼女の仕事ぶりが確認できるわけがない。諦めきれない和臣は、冬樹を利用することにしたようだ。


「竹里くん。ここのところ真面目に頑張っているご褒美に、外国産の美味しいお菓子を買ってあげよう」

「え。俺が、ちゃんと頑張ってたって……本当にそう思ってるのか?」

 入社して以来けなされてばかりだった冬樹が、こちらのほうが驚くほど嬉しそうに和臣の誘いに食いついてきた。

「和臣さま。そんなしょうもない口実をこしらえてまでして中に入ろうだなんて……。いやいや、君が頑張っていなかったと言っているわけじゃないぞっ!」

 しょんぼりしかけた冬樹に気を遣いつつ、葛笠は、和臣を思いとどまらせようとした。


「アルバイト先に押しかけたりして、紅子さまに嫌がられてもしりませんよ」

「嫌がられるだろうね。だけど、ちょっと気になっていることがあるんだ」

「気になること?」

「『紅子と徹が婚約したかもしれない』という噂はともかく、『そのおかげで、夕紀がコンクールに出られるようになった』っていうのがね。なんというか、こじつけにしても強引な感じがするんだよ」

「言われてみれば、紅子さまの噂を聞きつけた誰かが、その噂を無理に悪い方向にねじ曲げた感じがしますね」

「それに、橘乃が騒いでいない」

「そういえば。なるほど、変ですね」

 六条姉妹の三女、旧姓六条橘乃は高性能の噂集積機みたいなものである。茅蜩館ホテルのロビーでも話題になっていたという紅子の縁組みの噂に妙な尾ひれがついていたら、彼女が張り切って六条家に知らせてきそうなものだ。そういえば、長女の紫乃も何も言ってこない。病弱な夫の名代としての社交活動に復帰した紫乃は、正義感が強い女性だ。彼女の大切な妹たちのために彼女の父が不正をしたなどという不名誉な噂が巷に流布していようものなら、真偽を確かめるために実家に乗り込んできそうなものである。


「笹倉社長の周辺に限られた噂だったということでしょうか。笹倉はコンクールに協賛しています。噂の発生源として不自然ではありませんが……」

「うん。言い出しっぺは、改革によって笹倉社長にパージされそうな誰かじゃないかな。例えば……六条源一郎さえいなければ笹倉社長は改革など考えつかなかっただろう。六条さえ手を引けば、笹倉社長は、自分の地位を脅かさない元の『ききわけの良い子』に戻ってくれるに違いない……なんて、自分に都合のよいことを信じている無邪気な愚か者ってところかな」

「笹倉社長が『ききわけの良い子』って……」 

「自分の立場を守るために六条源一郎の一番大切なものを平気で侮辱するような人間だよ、それぐらいの誤認はするだろ」

 笑いをかみ殺している葛笠に、和臣が言う。


「誤認というより、何も考えていないだけじゃないでしょうか。拙い策略を巡らすどころか、嫌いな人間のことなら、思いつくままに根も葉もないことを言っても許されると思いこんでいるような、悪口を言うことを唯一の娯楽にしているような類の人間では?」

「葛笠も辛辣だね。とはいえ、感情に任せて『思い込み』で喚き散らしているだけの馬鹿のしわざなら、むしろ安心かもしれない。『故意』に噂を流すような輩だとしたら、面倒だ。まあ、それも、発生源の目的によるのだけど……」

「そうですね。厄介なことにならなければいいのですが」


「え、わかんねえ。悪い噂ってことなら、どっちでも変わりないだろ」

 思わせぶりな会話について行けない冬樹が、いらついた声をあげた。

「ああ。どちらも傍迷惑であることに違いはないよ。だけど、『思い込み』と『故意』には、『竹里冬樹は極悪人だから、○○という悪行は、彼がやったことに違いない』と、『竹里冬樹が大嫌いだから、○○という悪行は彼がやったという噂を流したら皆が信じるはずだ』程度の違いがあるといえばある」

「悪い噂をでっち上げるってことか?」

「でっち上げた上で、積極的に広げる」

「ひでえ」

「君だって、昔似たようなことをしたことがあった。そうだな?」

「…………。ごめん」

 葛笠に睨まれて、冬樹が小さくなった。


 話を戻すと、本日の笹倉では月例の報告会とやらがあるそうだ。笹倉商事で仕事をしている身内や名バイヤーと呼ばれるがゆえに発言力の高い古参の社員の多くが参集する。笹倉社長がどうにかしたいと思っている数人も、やってくる予定であるという。


「ねえ、葛笠。今なら、人の口に戸を立てられるかもしれないと思わないかい?」

 和臣が悪巧みに誘うような微笑を葛笠に向けた。

「できるかもしれませんね。ですが、このタイミングで私たちが笹倉に乗り込んだら、六条との繋がりを疑う者が、かえって増えてしまうのではないでしょうか?」

「かもね。だが」

「……。そうですね」

 諫めねばならない立場上「その手に乗るか」と言わんばかりの表情を浮かべていた葛笠は、根負けしたように息を吐いた。夕紀のことを考えるのであれば、今のうちに噂の火消しができるなら、それに越したことはない。それに、噂が笹倉の外に出てしまえば、どのみち終わりだ。世間には、六条に恨みを持つ者やライバル視する者が大勢いる。


「夕紀にもね。恨みはなくても、ピアノコンクールのライバルがひとりでも減ったほうがいいと願う者は少なからずいるだろう」

「噂を意図的に利用してやろうとする者がいるかもしれませんね」

「積極的に拡大しようとする者も増えるだろう。なにしろ時期が時期だし、場所も場所だ」

「ああ、そうですよねえ」

 葛笠は、額を押さえた。


 ピアノコンクールが行われる浪浜市では、数年後の着工を目指して市中心部の大規模な再開発を予定している。六条コーポレーションは、この開発に計画段階から関わろうとしていた。計画案が採用された会社が、この開発の主導権を握れるだろうからだ。


 精密機械の生産を得意とする工業都市として知られてきた市は、文化都市としても発展することを望んでいる。ゆえに、夕紀が出場するコンクールのメイン会場となる音楽堂一帯は、この開発事業の要となる。六条を出し抜いて仕事を勝ち取りたいと願っているライバル企業にしてみれば、この噂は、さぞや利用のしがいがあることだろう。「とにかく、1階の客に紛れて様子を見てみないか?」と和臣に誘われれば、葛笠も「行くな」とは言いづらい。

「よし、決まった。お菓子を買いに行くよ、冬樹くん。ここでは邪魔になるだろうから、どこか適当なところに車を止めてくれるかな」

「おう!」

 冬樹が、楽しそうに鼻歌を歌いながら運転を再開した。近くに駐車場を見つけて車を降りた後も、スキップしそうなほど浮かれながら葛笠たちの後をついてくる。六条に来るまでは伊達男を気取っていた冬樹ゆえ、甘い物を好む男子など馬鹿にしているのではないか。なんとなくではあるが、そう思っていた葛笠にとって、冬樹のこの喜びようは、かなり意外であった。


「そんなに甘い物が好きだったのか。君は酒の方がいいんじゃないのか?」

「酒は、できるだけ飲まないことにしたんだよ。おっさんや兄貴たちからも言われてるから」

 葛笠から視線を逸らしつつ冬樹が打ち明ける。彼が言うというところの『兄貴たち』とは、歳が離れすぎているせいで、彼が破滅するまで他人同然の付き合いしかしてこなかった腹違いの兄たちのことだ。『おっさん』は、六条源一郎のこと。いつだったか、「おまえは酒が入ると、調子に乗りすぎるっていうか馬鹿に拍車がかかるようだから、あまり飲むな」と源一郎が冬樹をたしなめているのを葛笠も聞いたことがある。


「言いつけを守ることにしたとは、殊勝な心がけじゃないか」

「まあ。酒だけのせいだけにはできないけど、酒が入っていなければやらかさずにすんだこともあったかな……と思ってさ。だから、酒はいらない。それに……」

 冬樹は、振り向いた葛笠の視線から逃げるように顔を逸らすと、怒ったような顔で「ここで働く前は、何もしなくても誉められたし、何でも手に入っていたから」と言った。


「だから、努力してもしなくても一緒だったっつーか、結局、誰も俺のこと見てねえとしか思えなくて、その……」

「……。へえ?」

「うるさい。たかが菓子ぐらいで、喜んでねえよっ。おまえら、そのニヤけた顔、やめろ!」

「そうか、そうか」

「ふざけんなっ。ってか、俺だってなあ、これでも反省もしていれば、変わろうとも思ってんだよ。それと、前を見て歩けよっ、前を。あれ?」

 肩を怒らせ顔を真っ赤にして怒っていた冬樹が突然表情を変え、葛笠たちから、その背後へと視線を移した。


「どうした?」

「いや、いま笹倉の店から出てきた男だけどさ」

「どの男だって?」

 葛笠と和臣が進行方向に視線を戻した。だが、この時にはもう、笹倉本社の前に男はおらず、待ち合わせ中らしき若い女性が数人確認できただけだった。男は自分たちに気がつかれたために逃げていったようにも見えたと、冬樹が言う。


「どんな人だった?」

「背はそれほど低くもなければ高くもない。痩せても太ってもいない。顔も普通」

「普通……ね。鼻は高からず低からず、口も大きすぎず小さすぎず、ついでに、若くもなければ年寄りでもないって?」

「そうそう。よくわかったな!」

 和臣のあからさまな嫌味に、冬樹が真顔でうなずいた。


「それから、でっかいレンズがついたカメラを持ってた。首からかけるストラップがどぎつい黄緑色で、真ん中に黒いラインが入ってる」

 外見の説明はうまくできないものの、その男には見覚えがあると、冬樹は言った。

「たぶん……だけど。単独インタビューとかじゃなくて、新規リゾートの発表会見だったと思う」

「ということは、記者か?」



 コンクールの出場者や関係者のみならず、無作為に選ばれたと思われる開催都市の住民宛てに『某国際ピアノコンクールに不正あり』という怪文書が送りつけられたのは、その翌日だった。


 そして、それから3日後には、具体的な名前こそ書かれていないものの、わずかな想像力さえあれば不正に関わったとされる企業や団体や個人が特定できてしまう記事がとある週刊誌に掲載された。






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