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他には何も望まない  作者: 風花てい(koharu)
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幸運な災難 3

 『名の知れたコンクールに娘を出場させたくて、六条源一郎が審査関係者に裏から手を回したそうだ』

 

 そんな噂が出回っていると聞かされたら、源一郎は、手に負えなくなるほど怒り狂うことだろう。

 

 そんな予感を抱いたのは、葛笠だけではなかったはずだ。和臣も緊張した面持ちで父親の爆発に備えていたし、噂の当事者となってしまった夕紀も、荒ぶる父親の心を少しでも癒やそうとするかのように、ゆったりとしたメロディーを弾き始めた。彼女は、巌の暴発も恐れているらしい。彼女が弾いている旋律は巌が好きだというベートーベンだ。たぶん。


 とはいえ、身構えた葛笠たちが拍子抜けするほど源一郎は落ち着いているようにみえた。しかしながら、彼が平静でいるのかといえば、そうでもなさそうだ。どうやら、困惑しているらしい。彼の心の乱れは、娘たちの前では特に格好つけが激しい彼の言葉遣いが乱れていることからも察せられた。


「手を回したっていうのは、つまり、事前審査に手心を加えるように、俺があんたに働きかけ、あんたは審査員と内密に掛け合ったということか?」 

「まあ、そういうことなんだろうな」

「なんで、そんなことをあんたに頼まなくちゃいけねえんだよ?」

「知らん。こっちのほうが知りたいくらいだ」

「そうだよな。真面目で融通の利かないあんたに不正を頼むなんて、自分から警察に突き出されに行くようなもんじゃねえか」

 巌の不機嫌そうな顔を真正面から眺めながら、源一郎がカクカクとうなずいた。


「それにしても、なんとも馬鹿げた噂だなあ。なあ。あんただって、今の夕紀の演奏を聴いただろう?」

 源一郎がピアノの前に座る夕紀を誇らしげに見やった。

「この子のピアノは、最高だよ。慈雨のように優しく包みこむような彼女の音色は、たゆみない努力と情熱とをピアノに捧げた者にのみミューズが与えてくださる恩寵そのものだ」

 これほど素晴らしい才能を審査員が聴きのがせるはずがない。ゆえに、夕紀がコンクールへの出場を決めたのは、当然の結果である。他の出場者たちにせよ、夕紀のように才能を努力で磨き上げ、選ばれるべくして選ばれた者ばかりであるに違いない。であるならば、実力が伴わない者が汚い手を使ってコンクールに出たところで、舞台の上で大恥をさらすことになるだけだ。子供に恥ずかしい思いをさせるために暗躍する親が、どこにいるというのか。少なくとも自分はそんなことをしないと、源一郎が熱弁をふるう。 


「だから、たとえ夕紀がヘタクソだったとしても、俺は裏から手を回して彼女を舞台の上に引っ張り出すようなことはしないぞ。いや、まてよ。俺が裏から手を回すということは、すなわち、俺が夕紀のピアノを見くびっているってことにならないか?!」

 源一郎が青くなった。

「夕紀にしてみれば、父親に信じてもらえないばかりか、貶められたようなものじゃねえか。俺が、夕紀にそんなことをするなんて……すると思われているなんて……」

 源一郎が両手で顔を覆った。「なにも泣くことないでしょう」と呆れながら、月子が父親の隣に座を移す。紅子と夕紀も末妹と競うように父の元に駆けつけた。だが、3人がかりで機嫌を取っても、源一郎は泣き止まない。見かねた徹が大真面目な顔で「夕紀さんのピアノは、俺も大好きです。音色は優しくて繊細なのに、弾きっぷりが思いの外大胆で、突き抜けたようなおおらかさを感じます。彼女のピアノを聴きさえすれば、おかしな噂は、たちまち消えてなくなるはずです」と言ってくれたおかげで、少しだけ機嫌を直したものの、まだ鼻をグズグズいわせている。泣き虫な源一郎に根負けしたように、巌までもが、「すまない。私も迂闊だったんだ」と神妙な顔で詫びた。


「最初に徹と紅子ちゃんとの婚約の噂とやらを聞かされた時に、即座に否定しておくべきだった。そんな話もあるかのように匂わせておけば、こちらにとって、なにかと都合がいいかもしれないと考えてしまったのも本当だ」

「じゃあ、『徹さん』って呼べっておっしゃったのも?」

「あー……そもそもは、あれだ……」

「俺と自分の娘を結婚させたがっている人がいるんだとさ」

 言いよどむ徹が代わりに答えた。癇癪持ちの笹倉社長をもってしても、完全に退けることのできない面倒な人がいるそうで、まだ早いと巌が言っても「早くない。結婚がダメなら、せめて婚約だけでも」と、とにかくしつこいらしい。

「本当に申し訳ない。アルバイトの話を受けた後、六条の娘さんなら、その人へのよい牽制なると、ふと思いついてしまって……」

 はじめは、ちょっとした出来心であったようだ。

「そうしたら、頭を悩ませていた別件でも、いい具合に相手が動きだしてくれてだな……まさか、こんなに噂になって外に広まっていくとは思っていなかったから……」

「……ということは、つまり」

 それまで、紅子たちのやり取りを聞いているいばかりだった源一郎が口を開いた。

「俺があんたに不正を頼んだ見返りは、紅子だってことになっているのか。俺は、娘を裏取引の道具にするような奴だとも思われているのか?!」

 この情報にも、源一郎はショックを受けたようだった。


「っていうか、紅子はどこにも嫁にやらんぞ。この子は、ずーーーーっっつとっ、ずうううううううううっっっっっっっっと、俺と一緒にいてくれるんだからな! ずっと前から、紅子がそう言ってくれているんだからなっ!」

 背後から紅子にしがみついた源一郎が、巌を威嚇した。


「そりゃあ、縁続きになったことを理由にして俺が笹倉商会に力ずくで介入すれば、あんたも何かと楽かもしれんが……」

「阿呆。自分の会社の問題ぐらい、自分で解決してくれるわ!」

 源一郎の剣幕に負けない勢いで、巌が吠えた。険悪な雰囲気に危機感を覚えたらしい月子が話題を転じた。


「ところで、おじさまの会社が解決すべきことって、何ですの。どのような問題を抱えていらっしゃるの?」

「あ、私もそれを知りたいです」

 察しの良い紅子も、父親に羽交い絞めにされたまま如才なく月子に同調する。

「中村のお義兄さまは、笹倉のおじさまが会社の大掃除をなさろうとしてらっしゃるようだっておっしゃっていました。笹倉のお仕事は、おじさまほど厳格な方が社長さんでも澱がたまりやすいから、大変だって」

「中村は、相変わらず耳が早いな」

 巌は口をへの字に曲げると、「そうだな、わかりやすく説明するとしたら」と言いながら胸元からとりだした黒い手帳を放り投げるようにして源一郎の前に広げ、「そこにウサギを描け」と命じた。

「なんで、俺が……」

 ぶつくさいいながら源一郎が描いた画は、彼の両側から覗きこんだ娘たちの感想によれば、ウサギというには犬に近いが、それ以前に動物かどうか判断に迷うものであった。


「さて、この難解という点において極めて芸術性が高い線画だが。もしも、私が、『この絵は天才画伯によるもので、100万円の価値がある』と言ったら、君たちは信じるかね?」

 巌の問いに、その部屋にいた全員が迷うことなく首を横に振った。

「なぜ、信じないんだね?」

「なぜって。父がそこで描いたのを見ていましたから」

「それに、その……お世辞にも上手だとは言えない絵ですもの」

「うん。そのとおりだ」

 源一郎の不機嫌な顔を面白がりつつ、巌が月子たちにうなずく。


「君たちは、この絵の出所を知ってる。だから、この絵が評価に値しないことも知っている。ところで、この絵を描いてもらった手帳だが、これは、うちの会社がドイツから買い付けてきたものだ。職人による一点ものでな。一冊20万円する。となれば、この絵の価値はどれぐらいになると思うかね?」

 巌が再び娘たちにたずねた。「それならば、お父さまが絵を描いた1ページだけでも5百円ぐらいの価値はあるかもしれませんね」と月子が答え、紅子は「紙は高くても、絵の価値は変わらないのではないでしょうか」と首をひねりながら言った。夕紀は紅子と同意見であることを示すように小さくうなずいた。


「なぜ、信じた?」

「え?」

 問われた娘たちが、虚を突かれたように瞬きをする。

「だから、この手帳だ。どうして、この手帳がそれほどの値がする物だと信じたんだね?」

「だって、今、おじさまがおっしゃっいましたよね」

「私がそう言ったから、なにも疑うことなく信じたのかね。だが、たかが手帳だよ。普段の月子さんなら、まず疑ってかかるのではないかね?」

「それもそう……ですね」

「では、なぜ信じたんだね?」

「それは、きっと、おっしゃったのが笹倉のおじさまだったからでしょうね。笹倉が扱っている物ならば、それほど高価な手帳があってもおかしくないと思ったからです」

「そうだ。出所など知らなくても『笹倉が扱っている物』だというだけで、多くの人が、『それだけの価値がある物』だと信じてくださる。ありがたいことだ」

 居心地の悪そうな顔をして答える月子に、巌が笑みらしきものを向けた。


「『笹倉』という名に特別な価値を感じ、『笹倉が選んだ物ならば間違いない』と信頼してくれる人がいる。だからこそ、笹倉は、その信頼に応えなくてはいけない。逸品を見つけ出す目を養ない、それらの価値を正しく見極めるだけの知識と経験を積まなければならない。わたしらは、そうやって信頼を築き上げていった。しかしながら、創業から100年も過ぎると、『笹倉』という名に奢り、与えられる信頼が当たり前にあるものだと勘違いする者が内にも外にも出てくるのだよ。恥ずかしいことではあるが、特に血縁者の中にな」

「落書きのウサギに、『笹倉』の名前を利用して法外な価値をつけるような?」

「そうだ」

 巌が月子にうなずいた。

「とはいえ、『笹倉』の名前を笠に着て悪さをするような輩なら、こちらもどうにかしやすいのだよ。面倒なのは、悪意のないほうだな」

「悪意のないほう?」

「これが結構いるのだよ。たとえば、『笹倉』という看板を背負った自分の感性に酔いしれているような者とか……」

 父親が眉間に思い切りしわを寄せるのを見て、徹は、心当たりがついたようだ。彼は苦笑しながら「『自分が価値があると判断したから、もとは二束三文の品だろうと笹倉で高く売っても問題ない』と本気で信じて無茶を言う人がいる」と皆に教えてくれた。権威に弱く、それこそ安物の手帳を20万だと言われて信じてしまうタイプの人も別にいれば、情にほだされやすく、頼まれれば『笹倉』のネームバリューを安易に貸してしまうタイプの困ったちゃんもいるらしい。


「その人たちがまったくの役立たずかといえば、そうでもない。それなりに功績もあれば役にも立っている……人もいる。だからなのか、自分に問題があるという自覚にいまひとつ欠けている。ついでに、うちの親族の共通の性格なのか、みんなして意固地だ。問題のある人間をやめさせたり配置換えしたりしようとしても、問題を改善するためにこれまでのやり方を変えようとしても、近しい親戚とタッグを組んで、この親父相手に盾ついてくる」

 ついでに、扱う品目によっては独特な商慣行やコネクションといったものがあり、取引に直接関わっていない者が口出ししづらいという事情もあるそうだ。

「……。すごく面倒くさそうですね」

 月子がげんなりした顔になる。葛笠も話を聞いているうちに、かなり面倒くさくなってきた。


「面倒くさいからこそ、さすがの笹倉のおじさんでも縁組みという手段で六条家の力を借りない限りどうにもならないんじゃないか。そう世間から思われてしまったんだろうね」

 和臣が葛笠に言った。紅子と徹の婚約の噂が一気に拡散したのも、そのあたりが原因だろうと、葛笠も思う。源一郎も巌に同情したらしい。「紅子はやらないが、力なら貸すぞ」と言い出した。


「貸さんでいい。さっきも言ったように、自分の会社のことは自分でどうにかする」

「頑固な奴だなあ。利用できる手段なら、手っ取り早く利用すれば良いじゃないか」

「ただの噂を利用しようとしただけで、これほど大騒ぎになっておるんだぞ」

「あの、で、でも……」

 紅子が、遠慮がちに大人たちの会話に口を挟んだ。


「おじさまは、本当はそのために私をアルバイトに雇ったのではないんですか?」


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