幸運な災難 2
突然やってきた笹倉親子は、六条家で起居する多くの者を驚かせた。だが、一番驚いたのが夕紀であったことは、間違いないと思われた。
「山河のピアノコンクールに出ることになったのは、君だったな?」
吹き抜けとなっている玄関ホールの3階の踊り場から訪問者をうかがっていた夕紀を見つけるなり、巌が大声で訊ねた。いかつい顔をした大人から怒鳴りつけられたようで怖かったのだろう。夕紀は、返事もできずに、階段の手すりを強く握りしめたまま、その場に立ちすくんでいる。
「ちょうどよかった。まずは、君のピアノを聴かせてもらおうか。この家には、うちから買ったホフマンがあったな。どうせ弾いてもらうなら、あれがいい。どこにある?」
「ホフマン?」
「ドイツのピアノ工房と、そこで制作されたピアノのことだ」
食堂から様子を見に来た和臣に、徹が答えた。
「音色にきらびやかさが欠けるという人もいて演奏会ではあまり使われないようだけど、優しい音がするいいピアノだよ。ここのは木目調のグランドピアノで、素材はウォルナットだったと思う」
心当たりがあるのだろう。徹が視線を和臣から夕紀がいる3階へ向けた。大金持ちで娘が六人もいる六条家には、ピアノがいくつもある。グランドピアノもひとつではない。夕紀個人の部屋と食堂にあるのは漆黒で、残りひとつのグランドピアノは、木の色合いを生かした柔らかい印象のピアノだ。そちらは、他の2台のグランドピアノに比べると小ぶりで、姉妹がたまり場としてきた3階の部屋に置かれている。
「ああ、あれか」
紅子たちも、徹の視線の先を見上げた。徹の説明が耳に届かなくても、夕紀ならば巌がいうところの《ホフマン》が自分の気に入りのピアノであることを承知しているのだろう。彼女もまた、巌の問いかけに対して自分が出てきたばかりの部屋を気にするように振り返った。六条家の子供たちが、そろって同じ3階の部屋を見たのを確認するやいなや、巌は階段を登り始めた。その途中で父に先んじて2階から現れた葛笠とぶつかりそうになっても、見向きもしない。
「おはようございます。六条は、まもなく参ります。あの……笹倉社長?!」
「おはようございます、葛笠さん。待てよ、親父!」
唖然としている葛笠に挨拶しながら、徹が巌を追いかける。紅子も徹に続いていた。「なにごとですか?」と葛笠から訊ねられても、今の紅子には答えている暇がない。怯えている夕紀を放っておくわけにはいかないからだ。巌の背中に向かって「おじさま、どうか落ち着いてください!」と懇願する紅子の声と、巌を追い越し夕紀を庇うように両手を広げて立ちふさがった徹の「親父、いい加減にしろよ。夕紀くんが怯えているだろう!」と叫ぶ声が、玄関ホールに同時に響いた。
「ふん。これぐらいのことで怯えておったら、コンクールに出られんぞ。とはいえ、それが無礼を働いていい理由にはならんな」
憎まれ口を叩きながらも、ふたりの気迫に押されて我に返ったのか、落ち着きを取り戻した巌が、「おどろかせて悪かった」と夕紀に詫びてくれた。徹の後ろで身を縮ませていた夕紀も、少しは安心したようだ。彼女は顔を上げると、小さな声ではあったが「いいえ」と首を横に振った。
「それで、いったい、なにごとなんですか。父との緊急の用件を話し合うのにピアノのBGMがどうしても必要だったから……なんて理由で妹を脅かしたわけじゃありませんよね?」
「そうかもしれないな。なにせ、笹倉のおじさんは無類のクラシックファンだから」
「たしかに、ピアノを聴くことこそが、今日の訪問の主たる目的のようにも見えましたが」
紅子の巌への精一杯の嫌味を混ぜっ返しながら、和臣と葛笠が階段を上ってくる。徹までもが、「主目的といえば、主目的かもしれない」と言い出した。
「まずは夕紀くんのピアノを親父に聴かせたほうが話が早い。と、思う」
「そうなのか?」
「たぶんな」
意外そうに眉をあげた和臣にうなずくと、徹は夕紀に向き直り、「いきなりで申し訳ないんだが、なにか弾いてやってくれないか?」と頼みこんだ。
「コンクール用の曲でなくていい。普段から弾きなれているような曲でも好きな曲でも、なんでもかまわない。ああ、そうだ。この間、俺が六条を訪ねた時に君が弾いていた曲は、どうだろうか?」
「この間の……ですか?」
「そう。俺たちが気になって弾けないというのなら、部屋の外から聴かせてもらうだけでもいい」
「部屋の外からだと?」
「夕紀。隣の僕の部屋にお通しするかい?」
和臣が、不満げな巌を無視して夕紀に訊ねた。
「聴いていただくなら、同じ部屋のほうが音がいいでしょうから」
わずかにためらったあと、夕紀は、ピアノのある部屋に皆を招き入れた。六人姉妹が根城にしている部屋だけあって、ここには居心地の良さそうな椅子がいくつも置かれている。巌は、部屋の奥に設置されたピアノに対して正面を向いている3人掛けのソファーにまっさきに腰を下ろした。紅子は、ピアノに一番近い背もたれなしの丸いスツールを選んだ。おのおのが身を落ち着けたのを待って夕紀は弾き始めたのは、紅子も聞き慣れた……というよりも、誰もが知っている曲だった。
「ふん。モーツアルトか」
面白くなさそうに巌がつぶやく。だが、夕紀の演奏に聴き入る彼は、退屈しているようには見えない。日頃から険しい巌の表情が徐々に緩んでいき、曲が終わってからは、これ以上父親に不届きな発言をさせまいと射るような眼差しで父親を牽制し続けていた徹に向かって、「悪くないな」ともコメントした。かなりわかりづらいが、たぶん誉めているのだろうと、紅子は判断した。
葛笠が呼んできてくれたのだろう。巌の控えすぎる褒め言葉は、月子や秘書の佐々木を従えて部屋に入ってきた源一郎の耳にも入った。
「ほう。ベートーベン至上主義のおまえさんが、モーツアルトを誉めてくれるなんて、珍しいな」
「個人的な好みと、演奏家の巧拙を一緒くたにして、どうする」
茶化すような口調の源一郎に、ニコリともせずに巌が言い返す。
「それで、夕紀のピアノは、どうだった?」
「悪くない」と答えた巌が、すぐに「いや、大変よかった」と言い直した。
「それにしても、突然押しかけた偏屈ジジイに腕試しを求められて、こんな曲を弾いてみせるとはな。気が小さそうに見えて、いやはやたいした度胸じゃないか」
「ねえ。この曲に、なにか問題でもあるの?」
父親たちの話の邪魔にならぬように、こっそりピアノに近づいた紅子が夕紀に耳打ちする。ピアノのことはわからないが、こんな可愛らしい曲に巌のような人物を挑発するような要素があるとは信じがたい。夕紀も困惑しているようだ。
「徹さんが前に聴いた曲でいいっておっしゃったし、この曲は、いろいろと練習になるから普段から弾いているでしょ。だから、この曲にしたのだけど。ダメだったのかな。それにね。予選ごとの演奏曲を提出する時に選曲でさんざん迷った時に思ったの。山河のコンクールが求めているのは、本当は、こういう曲なんじゃないかって」
「違いない!」
姉妹の内緒話に、巌の笑い声が割って入ってきた。声を立てて笑う笹倉巌というのは、実の息子にとっても滅多にないもののようで、徹が目を真ん丸にしている。
「ちなみに、どうして、そう思ったね?」
「……募集要項を読んでみて、なんとなく……です」
おどおどしながら夕紀が答える。
「それと、コンクールが行われる街では、他にも幾つもの音楽コンクールが行われています。ピアノ以外の楽器を審査対象にしたものや、趣味でピアノを楽しまれる大人の方を対象ものなど」
「ああ。君たちが出場するコンクールの一か月前に、同じ開催地で本選が行われるコンクールだな。君が出場するコンクールに先行して、中学生以下を対象としたピアノコンクールも行われているな」
「はい。それらの課題曲や、主催の山河楽器が行っている、さまざまな楽器の教育プログラムやコンクールなどを見る限り、このコンテストは、演奏技術を競うことだけを目的にはしているとは思えませんでした。それ以上に大切な目的というか使命みたいなものがある。だけど……、だけど、その主旨を踏まえて曲を選ぼうとすると始めから戦う気がないと思われそうだというか、他の出場者の方々に叱られてしまいそうな気がして……おかげで、提出した曲は、どっちつかずになってしまって、難易度的には足りないかもしれないな……と思わないでもないのですけど、でも、それで一次を通らなくても、コンテストに出さえすれば教授命令は果たせるから、むしろ通らないほうがいいかな……なんて、思ってしまったり……」
親しくもない人間に対して珍しく饒舌になっていた夕紀の声がどんどん小さくなり、話し方もしどろもどろになっていく。それでも、巌は、怒り出すこともなく彼女の話を最後まで黙って聞いていた。
「ここは、『さすが、六条源一郎の娘だけのことはある』というところかな。それとも、誰かが彼女に入れ知恵したのかね?」
夕紀の話がなんとなく終わった頃を見計らって、巌が周りに問いかけた。源一郎や和臣や月子、ついでに葛笠と徹と紅子がそろって首を横に振ると、巌が、たぶん嬉しそうな顔をした。その後、夕紀と巌の間で、コンクールでの演奏を予定している曲のやりとりがあった。巌が無類のクラシックファンというのは真実であるようで、紅子には通信販売のカタログの商品番号めいて聞こえる曲名のどれにも、巌には心あたりがあるばかりか、それらの曲を聴きこんでもいるようだった。
巌は夕紀の選曲に満足しているようだった。
「君の読みは正しいよ。ここのところコンテストとしての箔がつきすぎて、コンテスタントのレベルが馬鹿高くなっているうえ、どいつもこいつも難曲ばかり弾くようになった。その結果、相対的に君の評価は低くなるかもしれん。本選への出場は正直難しいだろう。だが、これだけ弾けるなら、1次は余裕だろうし、あのコンクールの本質を理解している君は、誰よりもコンクールに歓迎されるに違いない」
「事情はよくわからんが、笹倉さん的には、夕紀は合格かね?」
「そうだな」
巌が源一郎にうなずく。
「下手な演奏を聴かされるようだったら、なにがなんでも、コンクールへの出場を阻止してやろうと思ったが」
「はあ?!」
こいつ何を言い出しやがった、とばかりに源一郎をはじめとした六条家関係者の顔つきが険しくなった。
「夕紀の出場を阻止するなんて……。いったいなんの権限があって、おまえさんに、そんなことができるんだ?」
「だから、そんな権限なんてないんだよ。笹倉商会は、コンクールの運営のために、たしかに幾ばくの金を出している。だが、こと審査に関しては、一般客と変わらん」
不機嫌そうに巌が言う隣で、徹が「そのとおりだ」と言わんばかりにうなずいている。
「それなのに、六条源一郎が娘をコンクールに出場させるために、紅子ちゃんとうちの徹との縁組を餌にわしに近づき、わしを通して審査員たちに働きかけたとかなんとかという不愉快極まりない噂が出回っておるらしくてだな」
「裏口出場……ってことか?」
「ああ、これだけ弾けるのに、なんで、そんなくだらないことをしなくちゃならんのだ?」
「だから、最初に言っただろ。六条のおじさんは、親父どころか誰にも口利きなんて頼んでないし、その必要もない。だから、朝から六条家に乗り込む必要もないって」
猛然と怒っている巌に、げんなりしたように徹が言う。
徹と紅子の婚約の噂は、とんでもない尾ひれがついて、さらに広がっているようだ。